70年代、ポールが圧倒的評価を勝ち取る


ジョンの気まぐれ

70年代に入り、ソロになった二人はそれぞれにアルバムを発表していく。当初、ジョンはビートルズの呪縛から逃れたこともあって飛ばしていた。「イマジン」「ジョンの魂」と、内省的な楽曲が並ぶ二つのアルバムは、ジョンを「ノリノリのリズミカルなミュージシャン」の側面より、もうひとつの「ボブディランに匹敵する内面を深く表現できるミュージシャン」という側面を強調するものとなる。ただしジョンのアルバムに対する当時の評価は全面的評価を受けていたわけでは必ずしもない。政治的色彩、実験音楽的色彩が深く(これ自体はヨーコの影響と呼ばれ、これによってヨーコはバッシングの対象になる)、それを評価するかしないかという点で、意見が分かれたのだ。とりわけヨーコとの実験「ウエディングアルバム」や「Sometime in New York City」などはその典型で、後者のアルバムのジャケットには合成で毛沢東とニクソンが裸で向かい合って踊る写真が掲載されていたほど。それゆえ「イマジン」「ジョンの魂」二つのアルバムに対する圧倒的な評価はむしろ死後になってから成立したものとみなすべきだろう(これについては後述する)。その後「ヌートピア宣言」「心の壁、愛の橋」などは、アルバム的に見ても統一感に乏しく、曲調も以前の焼き直し的なモノも多く、評価的にもイマイチ(個人的にもかなり聞きづらかったという記憶がある。この二つのアルバムは子供心にも「なんだかなあ?」という感じでもあった。で、ジョン自身もこのアルバムの頃のコンディションの悪さをインタビューで告白している。この時、ジョンはヨーコと別居し、ハリー・ニルソンとひたすら酒を飲み続けていた)。そしてこの後、息子、ショーンの誕生とともにジョンは「ハウスハズバンド=主夫」としての労働に専念、75年以降はほとんどミュージックシーンに顔を出さなくなる。とはいうもののもう活動中止近くの頃には、ヨーコとの絡みもあってジョンは「一種近づきがたいあやしい存在」として扱われていたことも事実だった。

ウイングスでやりたい放題

一方ポールの方だが、ビートルズ後期のこの勢いをそのまま持ち越し、同様に、いやジョン以上に飛ばしていた。解散のゴタゴタの中で発表されたソロアルバムこそ不評だったが(「マッカートニー」や「ラム」など。しかしこれらアルバムは再評価される)、ウイングス(結成当時はポールマッカートニー&ウイングス)結成以降はシングル、アルバムともに爆発的な売り上げと評価を獲得していく。「バンドオンザラン」「ビーナス&マース」「スピードオブサウンド」「バックトゥージエッグ」「ロンドンタウン」「マッカートニー?鵺」などコンスタントにアルバムをリリース、シングルも'Live and let die'My LoveBand On the RunJetListen to what the man saySilly Love songBack to The Egg''Coming up'などと次々とヒットを飛ばし、八十年代で最もレコードを売り上げたミュージシャンとして名声をほしいままにするのである。この時期、ジョンが、いわば冬眠する間に、明らかにポールは時代を先導していた。