(ジャコとジョニ・ミッチェルの絶妙な掛け合い?が聴ける『ミンガス』)
結局、ジャコは人のことなんか気にすることのできないKYなヤツだった。だから天才だったんだが
こういった、音楽の創造=自己の表現に向けてのピュアな欲望、あるいは容赦ない徹底は、言いかえれば他者のことなんかまったくどうでもいいということでもあった。つまりジャコの場合、前述したように自分が表現したいことが先ず先にあり、そのために対話する相手を必要としなかった。たった一人を除いて。そのたった一人の相手とは言うまでもなくジャコ本人だったのだが。自分の世界からは決して出て行くことはせず、音楽を通した表現を内省によって求めていこうとするジャコ。こんなジャコをむしろコミュニケーションの材料として音楽を利用しようとするザヴィヌルとはソリが合うはずもない。また他のミュージシャンとのコラボも難しい。つきあったミュージシャンたちは最初のうちこそジャコの表現力に圧倒され感動するものの、共同作業をはじめれば途端にうまくいかないということに気付く。だから長続きしない。逆に言えばザヴィヌルとジャコがそれなりの期間を同じグループでやり続けることができたという事実こそが奇跡に近かったのかもしれない。だから、最終的にジャコがジャコであるためにはソロアルバムを作るという方法しか無かった。独裁者となって好き勝手な音楽を作る。これがジャコのスタイルであり、これは結局傑作『ワード・オブ・マウス』に結実する。もうこの時、ジャコにケチをつける人間など存在しなかったのだ。
いや、ジャコを理解した人間が一人だけいた。ロック・ミュージシャンのジョニ・ミッチェルだ。彼女もまたほとんどジャコと同じ孤高のミュージシャンだったからだ。時流に流されることなく、ひたすら自らのスタイルを洗練させることだけに関心を抱き続ける、希有な存在。だからジョニはジャコに自分と同じモノを見ることが出来たし、自分のアルバムでは頻繁に彼に参加を促している。
二人のコラボによる最高傑作は、まちがいなく『ミンガス』だろう。これはジャズ・ベース界の巨人,チャールズ・ミンガスへのオマージュ・アルバム。本来はミンガスに演奏を依頼したかったのだが、ミンガスが逝ってしまったので企画を変更。ジャコがすべてのベースを担当。さらにはアレンジまで関与した。一方、ミンガスの出演は生前の会話のテープという形をとったのだ。ミンガスはジャコがこのアルバムのベースを弾いたなんてことを聞いたらどう思ったのだろうか?ちなみにスタンリー・クラークがミンガスを尊敬し、ジョイントを申し出たとき、ミンガスはこれを断っている。「オマエのやっているのはジャズじゃあない」といった表現で一蹴したのだ。でも、ジャコなら案外褒めちぎったのでは、と僕は思うのだが。もっとも、ジョイントしたらケンカになっただろうけど。
このアルバムではジョニのボーカルとギター、そしてジャコのベースがそれぞれ、ある意味好き勝手に演奏を繰り広げている。そして二人の演奏は全く持ってバラバラなのだが、そのバラバラさ加減がなぜかハーモニーを奏でている。しゃしゃり出ているジャコにジョニは寛容ながらも、こっちはこっちでよろしくやっていて、これがなかなかキモチイイ。このバラバラさをかろうじてつないでいるのは、二人の感性の偶然の一致と、バラバラを同じように聞かせるために調子を合わせて合いの手を入れるウエイン・ショーターのソプラノ・サキソフォーンだ(やっぱり、この人、人がいいのね。創価学会だから、調和の精神でもあるんだろうか?)。これは、要するに奇跡なのである。ある意味二人の奔放さは見事なほどに波長が合っていてぞっとするくらいセクシーな演奏に仕上がっている。(続く)
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