スポーツの魅力が実力以外のところで成立するというものの典型

こういう風に考えるとプロ野球マスターズリーグは、われわれにとってのスポーツとは何なのかを象徴的に示していると言えるだろう。つまり、スポーツにおいて実力というのは実は担保であって、それよりもイメージが先ず優先されるということなのだ。ロートル選手が拍手喝采を浴びるのは、そこにイメージがあり、それを聴衆が消費しているから。言いかえれば、実力があったとしてもわれわれにイメージ=物語を喚起しなければ、その選手はスターとはなりえない。

ちなみに最近出現した同様の事態はハンドボールだ。「中東の笛」と呼ばれる不平等な審判がこのスポーツを一躍有名にし、日本チームの中から宮崎大輔というスターを生み出してしまった。宮崎はTBSの『スポーツマンNov.1決定戦』に何度か出場し、2006年には優勝もしているが、本格的に全国区となったのはこの「中東の笛」によるものだ。これこそまさにメディアイベントにほかならない。

究極のハイパーリアル消費?

もうひとつマスターズリーグをめぐって、ツッコミを入れておこう。それは、このロートル、但し物語をしょった選手たちによるエンターテインメントにやってくる観客の中に、結構若者がいると言うことだ。出場選手の現役時代を知っている人間なら別におかしなことはないだろう。彼らのプレーを見ながら、自分の若い頃を回顧しノスタルジーに浸ることができるのだから。しかし、若者はこれら選手の現役時代を知らないのだ。にもかかわらず、この試合を観戦し感動している。「60歳近くになっても140キロを投げる村田兆二さんには感動します!」「やっぱ、なんといってもタイガースといえばバースだよね」なんてノリだ。ちょっとキモチワルイ感じがしないでもないが、これは昭和レトロが平成世代に受けるのと同じ現象だ。言うならばオリジナルなきノスタルジー=ヴァーチャル・ノスタルジー。こういう心性は今回の議論の文脈で考えれば、究極のメディアイベント、全く担保のないにもかかわらず、その物語性だけで楽しんでいると言うことになる。そして、これらのヴァーチャル・ノスタルジーは親子のコミュニケーション・メディアとしても機能している。要するに親が子どもに自分のかつて親しんだものを語り、それによって子どもがフォーマットされたというわけで、これはウルトラマンなんかが今の子ども、若者にウケるのと同じだ。ちなみに、これは例えば若者たちが支持するミュージシャンがこういったことかつてのスターをリスペクトを込めてコメントすると、それに関心を持ち始めるという現象とも共通する。

われわれがこうやってスポーツをメディアイベントとして消費し、そしてメディア企業がこれを消費物として販売する。そこで「名選手」が誕生し「名勝負」が繰り広げられる……かつてギー・ドゥボールが指摘した「スペクタクル社会」が、今現実のものになろうとしている。それがいいかどうかは、別として(ナンシー関風に締めました _<(_ _)>)