映画の終わりに掲示されるFineの意味
トトがアルフレードに形見として贈ったフィルムが最後に映したもの。それは′Fine′というエンドマーク。トルナトーレ監督は、このFineに実にたくさんの意味を込めている。
一つめ。これはベタにアルフレードが編集した映画の終わり。
二つめ。「ニューシネマパラダイス」という映画の終了。
三つ目。アルフレードの人生の終わり。
四つ目。共同体があった時代の終わり。
そして五つ目。それは映画の時代の終わりである。映画館はかつて共同体の人々とともにあった。広場の中心にあり、そこで映画は人々の地上の楽園を演出していた。つまり映画天国=シネマパラダイスだった。ところが、情報化、消費社会科の進展、そして個人主義の跳梁によって共同体は消滅。共同体と一心同体であった映画もまた消滅する運命となった。二つめ。「ニューシネマパラダイス」という映画の終了。
三つ目。アルフレードの人生の終わり。
四つ目。共同体があった時代の終わり。
では、映画、そして映画館=シネマパラダイスはどこへ行ったのだろう?……結局、映画はビデオやテレビに吸収されて天に召されていった。つまり映画は地上のパラダイスから新しい天国のパラダイス=ニューシネマパラダイスへと去っていったのだ。
映画大好き男、トルナトーレが映画に贈った手向けの花
「えっ?今も映画はゲンキだよ!」といいたくもなるが、80年代の終わりは実際、映画の存亡が問われていた時期だった。入場者数はどんどん現象いていくという事態が発生していたのだ。そうニューシネマパラダイスのオーナー・チッチョが言うように「テレビやビデオのおかげで」すっかり人々の娯楽の座から引きずり下ろされていたのだ。だから、この時期に、映画が消滅することを予期し、そのことに哀惜の意を込めてこういった映画へのオマージュをトルナトーレが作ったことはよく理解できる。実際、トルナトーレは、映画の随所にラブロマンス映画の典型的な、そして極めてベタな手法を織り込んでいる。ただし、極めて見事な「骨太」の手並みで。映画大好き男、トルナトーレ=トトの「映画の時代の終わり」に対する強烈なオマージュが、ここにはある。もっとも、その後、映画はシネマ・コンプレックスという手法を採用することで復活を遂げる。今年、久しぶりに入場者数の減少が見られたが、ここ数年は右肩上がりの入場者数の増加を見せていた。ただ、現在盛況なのはトルナトーレがこの映画の中でトリビュートした映画、つまり「みんなの映画」=人々のコミュニケーションを喚起する娯楽、ではない。むしろ個人向けの映画だ。映画は徹底した合理化をし、なおかつ個人の嗜好に合わせるように快適性をあげ、そしてテレビでは見れないような大型スクリーンを用意することで「オレの映画」=ひとり密かに消費する娯楽、として復活したのである。
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