ラストシーン涙うるうるのメカニズム

前回はニューシネマパラダイスのキスと裸のシーンの連続からなるラストシーンがなぜ泣けるのかについて、そのストーリーの構成から解説した。つまり、陳腐な映像が、その背後にトトとアルフレードの厚い信頼と友情を保証するメディアとして機能しており、そのことが涙を誘っていると言うことを。ここで伝達されているのはキスと裸ではなく、信頼関係なのだ。

さて、今回は涙腺をゆるめるメカニズムのもう一つについて展開してみる。それは、いわば「サブリミナル的効果」とでも言うべきものだ。これは情報を意識ではなく無意識に働きかけてインプットし、相手をコントロールしてしまうという効果。たとえば映画やCMの一コマにメッセージを入れておくと、これを見ている側は意識上では認識できないが無意識上にはこの情報が置かれ、そのメッセージが見ている側に潜在的効果を催すというものだ。有名なエピソードとしては映画の中に一コマ「コーラを飲め」と入れたところ、その映画館でコーラの売り上げが普段より上がったという例があるとされている。

ちなみにサブリミナル効果は科学的に実証されているわけではない。そして、この映画の中にこういうかたちでメッセージが一コマだけ放り込まれているというわけでもない。ただし、ここでは実質的にこのサブリミナルな効果が涙腺を緩ませる機能を果たしている。

ニューシネマパラダイス式のサブリミナルとは

サブリミナルとは表現してみたものの、ニューシネマパラダイスの中のやり方はかなりあからさまではあるし、映画の技法を知っている人間ならすぐそれと見破ることができるものでもある。では、具体的に見てみよう。

いくつものキスシーンや裸のシーンが登場する。そしてその背後にはBGMが流れているのだが、このサウンドと映像の絡みがミソだ。曲が盛り上がるところ、そして主題が転換するところ。その部分で挿入される映画のキスシーンのすべてが、実はオーディエンスのわれわれが既に映画の中で見ているものなのだ。いや、厳密に言えば、それは「映画の中で見ることになっていたもの」なのである。始めこそ単なる映画の、われわれの知り得ないキスシーン。ところが、主題が転換するやいなや登場するのは『シチリアの漁民』の中で展開されているキスシーンが映される。岩場でのそれだ。これはシネマパラダイスの観客たちか固唾をのんでキスシーンを待っていたあの映画である。で、神父の判断によって当然のことながらこのシーンはカット。そこで観客たちは落胆する(ただし、トトだけがこの落胆を聞いて笑っている)。

ここで、われわれはハッとさせられるのである。「そうか、ジャンカルドの人たちが見られなかったキスシーンはこれだったのか」。こう思うと同時に、われわれの記憶は、この映像越しに、あるいはこの映像をメディアにあのシネマパラダイスの中で繰り返されていたジャンカルドの人たちの共同体的な賑わいへと振り向けられるのだ。しかし、このフィルムを見ているのは映画監督トト、そして現代である。ということは、その映像の背後に映るものは、もはや失われたノスタルジー。見ているわれわれはトトとともに、過去のあの時代をめぐらせる。そう、トトが欲しくてたまらない世界へ、われわれを誘うのだ。ただし、それは決して手に入れることのできないものなのだが。

そしてこの後は、シネマパラダイスで映されていた(そしてわれわれも見ることの出来なかった)映画で、しかもそれを見ることの出来なかったキスと裸が連続する。イタリア喜劇の帝王トト、喜劇王チャップリンのキスシーンなどなど。見ている側は次から次へとあの懐かしい人々への邂逅をくゆらせる。音楽がドンドンと盛り上がり、サビの部分に達しながら。だが、たいていの客は、なぜ涙が出てくるのかを理解できないまま涙を流す。言うまでもなく、サブリミナル効果がよ~く効いているのだ。つまりこのキスと裸のシーンは、映画の冒頭で入れておいた情報に無意識でアクセスするようにし向けているというわけだ。。

さらに最後の締めは、なぜか女が足を洗うシーンと、やはりキスのシーン。このシーン、フィルムが老朽化してしまい、完全にぼけてしまっているのだが……これは古いからぼけて見えないないのか、それともトトが涙で目が曇って映像をちゃんと見ることが出来ないのか……(続く)