ホットなメディアとクールなメディア

さて、ここまで書いてきた僕なりの工夫。どういう立ち位置でやってきたのかはメディア論にくわしい方ならもうおわかりなのではないか。メディア論の巨匠、M.マクルーハンの理論を実践してみたのだ。マクルーハンはメディアをホットなメディアとクールなメディアに分けている。情報の細密度が高いために受け手の参加度が低いのがホットメディア。逆に再密度が低いために受け手の参加度が高まるのがクールメディアなのだが、もうすこしわかりやすい言い方をすると、十分に情報を流してくれるので、あえてこちらが主体的に解釈をしなくてもよいメディアがホットで、情報が少ししか流されないので、こっちがどうにかしてこれを補わなければならないのがクール。マクルーハンはラジオや活字、映画がホットで、テレビがクールと指摘している。

ホットかクールかは、相対的に決定する

ただし、この分類の仕方はメディアをハード単位でひとくくりにして語ってしまっているのでわかりづらい。僕はこの分類を考えるときにメディア=ハード単位での分類をしないことにしている。つまりどんなメディアであれ、コンテンツとの関わりでホットとクールが存在すると捉えている。またホットであるかクールであるかは相対的な問題=受け手と送り手の関係で決まると捉えている。つまり仮に情報量が少ない=再密度が低いとしても、それに対してメディアの受け手の側が意図的に解釈を加えたりしなければ、メディアコンテンツに対する参加度は低いのでホットになる。逆に情報量が多い=再密度が高いとしても、受け手の側がさらに解釈を加えるようであれば、そのコンテンツは結果としてクールになる。

たとえば、マクルーハンによればテレビはクールだが、その理由が走査線の数が少ない、透過光がクールと言うことを理由に挙げるという荒唐無稽な説明に終始している。だったら「ハイビジョンならどうなんだ?」とツッコミを入れたくもなるが、あまり意味がない。で、こちらなりのより実践的な解釈をしてコンテンツ=ソフト単位で、テレビを分類すると次のようになる。

テレビ・水戸黄門はホット

まず、水戸黄門のような「定型パターン」を魅力のポイントとするコンテンツは一般的にホット。水戸黄門は勧善懲悪、印籠が必ず出ること、さらに印籠が出る時間までが決まっている。いやいやお銀が入浴する時間もだいたい決まっている。だから、視聴者としてはこれに新たな意味付与をすることをおおむね必要とせず、とにかく制作側の意図に基づいて作品を楽しめばよい(もちろん、製作者の意図とか、コンテンツのほころびとかをオタッキーに追求していけば、これはこれで十分クールな作品になるのだが。まあ水戸黄門を見ているほとんどの視聴者(主として高齢者)がそんなことをするとは考えられない)。またニュースでもビデオを流しながら論評なしでアナウンサーがしゃべるのものは、原則ホットだ。

生番組はクール

一方、テレビでもクールに属するものはスポーツ中継やバラエティなど。いずれにしても先が読めないので、視聴者の方はこれに思い入れ=意味解釈を積極的におこなおうとする(ただし、これもワンパターンになって先が読めるようになってしまうと、意味付与が出来なくなりホットなものになる)。

そして、最もクールなテレビコンテンツは、ジャンルにかかわらず「生番組」であることだろう。やはり、これらは段取りこそ決めてあるものの、最終的に先は読めない。たとえば報道生番組において究極のクールを生み出したのは2001年9月11日のニュース・ステーションだ。ニューヨーク、ワールド・トレード・センター、ノースタワーに旅客機が突っ込んで燃えているシーンを実況中継しているときに、もう一機の飛行機がサウスタワーに突っ込んだのだが、この歴史的な大事件を生中継していたのだから。旅客機がサウスタワーに突っ込んだ瞬間、視聴者は、これまでの情報処理パターンでは処理できないものに直面し、アタマが真っ白になった。そして、その後、何が起きたんだとだれもが必死にアタマを働かせたはずだ。まさにクールの極致が報道番組の中で展開されてしまったのだ。(続く)