メディアイベントとしての最後の楽園の創造

バリ観光の歴史について人類学の新しい視点から考察を行う『バリ観光人類学のレッスン』(山下普司著、東京大学出版会)は、その中でバロンダンス、ケチャ、ウブド芸術といったバリの伝統的と思われている文化のすべてが実は20世紀になって創造されたことを明らかにしている。20世紀初頭、バリ島を植民地化したオランダは、バリ周辺地域のイスラム教に基づく民族主義の台頭の抑止とバリ植民地支配の正当性を内外に示すために、バリですでに廃れつつあったヒンドゥー教を無理矢理復活させ、バリ島住民を強制的に改宗させていったのだ。そして多くの欧米観光客をバリ島に招き、バリ「古来」の「伝統」芸能を披露することで「最後の楽園」としてのバリ島のイメージを世界に向けて演出していたのだという。

マルクス主義的に見ればこれは”搾取”に他ならない。だがそれは浅薄な見方だ。なぜならこの政策を支持したのが他ならぬバリ島民だったのだから。彼らはオランダ政府が強制する古びた伝統を積極的に取り入れ、自らの文化の一部としてリニューアルする。そして独立後、バリはまさに「最後の楽園」というキャッチコピーをバリ島民自らが標榜して観光化を推進し、復活した様々な伝統芸能に新しい解釈まで加えてこれをより活性化していったのだった。いいかえればバリ島は最も古いテーマパークのひとつだったのだ。当然、観光客は見事にダマされている、ということにかたちの上ではなるわけだ。(もっともこうなると誰が誰をダマしているのかもう全く判らないのだが……)

移りゆくもの。それこそが文化だ!

こういった現実は伝統、文化というものが何なのかという問いをわれわれに突きつける。伝統とはかつて存在したもので、今日、文化遺産として保護すべきものなのか、それとも人々の生活の中に入り込みながら変容してゆくものなのか。バリ島の人々の生き生きとしたパフォーマンスを見せつけられたぼくは、その選択に悩むことはもはやなかった。バーチャルな存在に現地の人々が乗り、それを文化・伝統として引き継ぐことで生活の中に再び取り込まれ、そうした新しい「伝統」が人々を活性化させ、社会を成り立たせる重要な要素として彩りを添える。ならばバーチャルな存在こそがリアルであり、かつてあった伝統=現実という名のリアルを保護することのほうがむしろよっぽどバーチャルなことではないのか。

ぼくがあのショーで見たのは、そういった観光の捉え方を身体化しているバリ島の人々の機敏な切り替えの瞬間だったのだ。会場がゲストで満杯であったら、彼らは観光モードに基づいたバリダンス、ガムランを聴かせてくれたのだろう。一方、あのときは観客がいないことをよいことに自分たちの楽しみとしてのパフォーマンスを繰り広げたのだ。そう考えれば、観客無きパフォーマンスでの彼らのあの熱狂は十分に理解できる。僕はダンスの、そして文化の二つのモードの存在をまざまざと見せられたというわけだ。

バリの人々のバーチャルなパフォーマンスに対する生き生きとした感覚。これこそ彼らにとってはもっともリアルな、そしてオーセンティック(真実)なものにほかならない。