判決がメディアに影響されたとは言い難い

光市の母子殺害事件。この事件で被告に死刑が下されたことを視聴者の多くは肯定している。でも、これはちょっと恐ろしいと思う。それは善と悪、二つのタレント性を引っ張ったメディアによって、この肯定が構築された可能性があるからだ。本村氏は「悲劇のヒーロー」。一方、被告は「悪魔」、弁護団は「悪魔の手先」。前回の表現をもう一度繰り返せば悪代官と越後屋のセット。でも、よく考えてみて欲しい。現実の世界はこんなに単純ではないのはあたりまえだ。まさに事件がメディアの視聴率至上主義によってわかりやすいシンプルな勧善懲悪ドラマに編集され、それに視聴者のほとんどが納得してしまっているのだ。社会の複雑性は、ここにはない。ここにあるのは「現実」のスペクタクル化だ。こうなると、この事件は視聴者の暇つぶしには最も適合的なコンテンツに化けてしまう。しかしである。これは敷衍すれば、メディアによって視聴者はどのようにでもコントロールされてしまうということでもあるのだ(ちなみに、言いかえるとメディアも視聴率というもので自らがコントロールされているとも言えるのだが)。

一方、死刑判決を批判する側にも問題ありだ。批判する側は、これがメディア主導で行われた報復劇、魔女狩りだと指摘する。つまりメディアがもっぱら、この善悪二元論図式でこの事件を報道することで、判決自体に影響を与えた。司法は大衆の思いを反映させて、死刑を宣告してしまったというわけだ。僕は、これもちょっとおかしいと思う。判決を下した裁判官とテレビにコントロールされ死刑を肯定してしまった視聴者をイコールで結びつけることは出来ないからだ。言いかえれば、司法はそんなに迎合主義的だとは思えない。

でも、やはりこの死刑判決はメディア・イベント的に構築されたもの?

では、メディアの報道がこの判決に全く影響していないのだろうか?僕は、やっぱりメディアはこの判決に大きな影を落としていると思う。それはもちろん、前にあげたメディアの報道に司法が影響を受けたからというのではない。むしろ影響を受けたのが安田を中心とする弁護団と考えるからだ。

つまり、先ず犯人の友人あての手紙、つまり犯行のことを全く悪びれていないようなそれを、メディアが大々的に報じた。これでは分が悪い。そこで弁護団は、今度は「全く殺意はなかった」という話に事件の全容を作り替えてしまった。ところが、これがかえって墓穴を掘ることになってしまったのではないか。この話、素人目にも全然リアリティがないのだ。いや、むしろ罪の軽減をねらった「狂言」的な印象を与え、裁判官の心証をかえって悪くしてしまったとすら考えられる。だからこそ、裁判官は弁護側の主張に判決では一つ一つ丁寧に反論していったのではなかろうか。要するに、こういった作戦によって、裁判官はむしろ「これは巧妙な罪逃れであり、被告は全く反省していない」というふうに判断した、こんなふうに僕には思えてならない。

いったい21人の弁護士たちは何を考えていたんだろうか。僕にはメディア報道にあわててしまい、急ごしらえで今回のような「話」をでっち上げてしまったように思える。佐木隆三が指摘したように、そういった意味では今回、弁護団は「自爆」したと考えてもよいのかもしれない。

そうなると、この弁護側の「自爆」を引き出したのは誰?ということになる。そう、これはメディアがやったことだ。ということは、今回の死刑判決は弁護団がメディアに踊らされた結果だと考えることもできるわけで、そうなれば、この判決は、やはりメディア・イベントということになるのだ。弁護側が最初の「殺意の肯定」の自白を引き継いだかたちで弁護していたら、ひょっとしたら死刑という判決は出なかったのかもしれない。