新人類からオタクへ「若者論の変容」(9)

根本的に変容した「オタク」語り

オタキングこと岡田斗司夫のオタク論議からの退場の後、この議論に登場したのは現代思想、ジャック・デリダの分析で一躍注目を浴びた東浩紀だった。東はこれまでとは全く異なった視点からオタクを論じるようになる。それは、オタクを社会的性格と捉えたことだ。

ちょっと社会的性格というと難しそうだが、これはE.フロムという社会学者が提唱した社会学用語。簡単にいってしまえば、当該社会の人々に通底する一般的な特徴を指す。たとえば70年代に語られ始めたモラトリアム人間という考え方。これはいつまでたっても大人になろうとしない若者を表現したことばだったのだが、80年代以降、成人となった人間はいずれもが「モラトリアム人間」的な特徴を備えていた。つまり30になろうが40になろうか「大人」にはならない。仕事にしても、たとえば「サラリーマンやっている」という認識で、どこかに大人でない部分を常に抱えるようになった。いいかえると、80年代以降の人間はある程度モラトリアム人間的な心性を自分の一部として保持するようになったということになる。

これと全く同じ図式をオタクに当てはめたのが東の議論だった。つまりオタクというのは一部の若者に特有の人格類型ではなく、われわれ現代人が「心性」の一部として保有している部分とみなしたのだ。

その分析は「データベース消費」ということばに集約される。現代人はアイデンティティのよりどころとする大きな物語(アイデンティティの立ち位置とするもの。かつてだったら高度経済成長神話みたいな者がこれに該当した)を失い、さらに小さな物語(新人類たちが志向した感性を共有するナウさ)も失った末、行き着いたのが、情報の海(ただし限られた範囲の)に埋没して、その情報と戯れることで、体よく萌え、体よく感動する。

これは実に冷静な分析だった。そう、オタクはどこかに存在するのではなく、われわれの中にある。もちろん、われわれはオタクそれ自体ではなく「オタク的成分」を保持している。だから時に応じて普通の社会人となり、また時に応じて「オタク」になる。

社会が認めたオタク

こういった語りは、実に現代社会に歓迎されるべきものだった。資本の側からすれば、若者ではなく世代横断的なマーケティングが可能となるからだ。つまり子どもから大人まで、ある分野においてオタクが存在し、この横断的な購買層にターゲットを当てれば一山あてることができる。要するにオタクというマーケットが誕生したのだ。そして、もはやオタクはネガティブな存在でもポジティブな存在でもなくなった。おたくはもはや立派な市場である。

しかし、そこで若者論は再びデッドロックに乗り上げることになる。オタク=若者と無理矢理接続する図式が完全に無効になってしまったからだ。

さて、若者論はどこへ行くのか。そういった意味で、これから先が楽しみでもあるのだが……。