ボトムアップにカネはいらない

東国原知事の提唱する「県民総力戦」とは、要するに、地域活性化のためには、「みんなで結束して、宮崎を盛り上げていこう」という、人的なつながり(ただし、しがらみのないそれ)を構築することが最も大事なのだ。

人と人が繋がると言うことに、はたして膨大なカネが必要だろうか。カネ自体は必要だが、それはたいした額ではない。むしろ必要なのは工夫することだ。宮崎観光の父・岩切章太郎翁の名言を借りれば「心配するな、工夫せよ」である。これ、実は宮崎にずーっと存在しなかったことでは無かろうか。

宮崎の公共施設を考えてみて欲しい。ものすごくムダなモノが多い。いわゆる「ハコモノ行政」のオンパレードだ。たとえば芸術劇場なんか全然使われてないし、そのくせ維持費がバカみたいにかかる。あんな建物つくるより、宮崎発の芸術家が一人でも多く生まれるように優秀な教育者を呼んだり、そういう組織を作ったりする方がはるかに「芸術的」だし、文化として大きな財産だし、カネもかからないし、社会的貢献も強い。建物なんか、はっきりいってどーでもいいのである。

高速道路は「箱」である

こういう風に考えてみると、東国原知事が提唱している「県民総力戦」と「高速道路建設」は全くもって噛み合わないことがわかるだろう。県民総力戦は人の気持ちと気持ちがぶつかり合い、結集し合って経済活性化に繋がるもの。そしてそれが出来上がればシステムとなり、継続的な経済活性化が期待できるし、長い目で見た宮崎の文化、産業を形成することができる(それを一般では「伝統」と呼ぶのだ)。そしてこういった活性化こそが本当の「地域活性化」なのだ。ちなみに「本当の」とは、形ではなく、県民多くの人々の心の中に深く「くすがった」活性化、もう心の中に癒着してしまって、離れることがない。そして世代から世代に伝えていこうとする活性化だ。

一方、高速道路建設はトップダウン的な活性化だ。そこに漂うのは「ハコモノ」のイメージに他ならない。そして、人々の心の中には宿らない活性化だ。仮に高速道路が造られて、大企業を誘致できたとしても、人心が離れたり、またその企業が景気の変化や時代の変化によって具合が悪くなれば、宮崎は真っ先に撤退する場所となってしまうだろう。そのとき、高速道路は大きな負の遺産となる。借金となる。例えば今カリーノに入っているデル・コンピュータだって、もっと人件費が安いところが見つかれば、とっとと宮崎を去っていくことは目に見えている。つまり、これは宮崎という大地に根を張ることのない「浮き草稼業」なのだ。

いや、それだけではない。「高速道路」から漂うもう一つのもの。それは「しがらみ」だ。つまり建設業者がこれに絡んでくると言う、とってもドドメ色、田中角栄以来の土建屋重視の、あの談合の、とんでもない環境である。

高速道路の建設は、こう考えてみると、「長期・抜本的」というより「対処療法」な景気浮揚対策と言えないだろうか。

ということは、東国原知事。実は、景気浮揚策がよくわからず、かなりアセっている?ということなのかもしれない。そういった面で、高速道路に対する知事の見解は知事のこれからの経済政策の試金石となるものといえるのではないだろうか。