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(上、昨夜が二人の愛の物語の終わりであることをエレナに告げられたトト。中、映画館爆破の砂煙の中から現れたキチガイ。下、キチガイは個人主義=クルマで埋め尽くされた広場=駐車場へと消えていった。映画『ニューシネマパラダイス』より)

エレナへの思いの背後にある本当に欲しいもの、それはトトが自ら破壊したものだ

故郷ジャンカルドを捨てローマの都会人として生きるトト。めまぐるしく愛人を換えるトト。田舎を捨て、都会に出て成功を遂げたが、その代償として何かを失った。それは表向きはエレナに象徴される愛である。しかし、この愛は、もう一つのものとつながり、それと癒着している。そして、実はエレナはその象徴に過ぎない。本当にトトが欲しいものは、エレナの先にあるものだ。そのことにトトは中年になってもいまだに気づいていない。

繰り返そう。トトは映画を愛し(=人々を愛した)共同体を裏切り続ける(=個人向けの映画を見せた)ことで、共同体を脱出し、共同体を捨て、そして、今度はローマで共同体が受け入れないような映画を作ることで共同体を破壊して、一個人としての成功を獲得した(それはアルフレードの望んだものだったが)。だがそのしっぺ返しとしてトトは大きなものを失うことになる。共同体がはぐくんでくれた愛・愛他心・無条件に人を愛することを何処に行っても得られない、その結果が、愛のない個人主義の世界だった。そのことを母は見抜いている。しかしながら共同体は崩壊しており、彼はこの道しか選ぶすべはなかったのだ。

そう、トトが本当に欲しかったものは、エレナが住まう空間に存在する共同体的なつながりとしての「愛」なのだ。彼が求める愛は、あのジャンカルドという共同体とともに存在した人と人のつながりの中に存在するもの。それを自らの映画を作るという欲望のためにトトは破壊してしまった。というとことは、自分の映画を作るという欲望の実現は、イコール自らが欲している愛の喪失とセットになっている。だからこそその象徴としてのエレナは決して獲得することのできない。そこに老けたエレナは存在するが、トトがそこに見ているエレナは「まぼろし」なのである。そして、エレナはそのことをよく知っているからこそ、二人の最後の逢瀬を「大人の夢」そして「最高のフィナーレ」と称したのだった。

相反する二つを同時に獲得しようとするトトの欲望は、どだい無理な話なのである。愛は共同体とともに存在したのだから。

トトもまた、キチガイと同様、自らの欲望を実現することによって、自らの存在基盤を失ってしまったのである。(続く)