要は基本、コレである

結局、この英語勉強は何をやっているのか。なんのことはない、ひたすら基本を繰り返し、文法をしっかり網羅し、しかも身体化するというプロセスをやっているにすぎないのだ。ちなみに勉強というのは「体系」。土台の上に構築していくもの。だから、土台がどれだけ盤石で、しかも裾野が広いかで、上に積み上げることができる量が決まってしまう。だから、受験英語に必要なあらゆるものを網羅しつつ、それを繰り返し、身体化し、その上に新たな知識を積み上げる必要があるというわけだ。

ちょいと思い返してみて欲しい。小学校、中学校、そして高校。このとき勉強ができるヤツというのは、原則的にすべての科目が優秀だったはずだ。つまり算数や国語だけでなく、音楽とか体育まで、だいたい成績がいい。なぜか?これはどれか一つの科目が好きとかそういう問題ではなく、この基礎ばっかりやるということを自主的に、あるいはこのやり方をたたき込まれてやってきたからだ。おそらくこれは親が子どもに資金を投入して(まあ塾だろうな。カテキョーかもしれないが)、基礎をみっちりガキに仕込み、秀才にさせたわけで、ようするに、この親の連中も星一徹と同様、息子・娘に大リーグボール養成ギブスならぬ、偏差値上昇養成ギブス(東大入学養成ギブス?)を装着させていたということになる。で、もしこれがなかったならば、高偏差値大学に入学した人間の多くは、単なる文系バカのままであった可能性は、かなり高い。

養成ギブスをビジネスとして販売している企業も、ある

で、この理屈を知らず、知らないうちに偏差値を上げることのできるシステムというのも教育ビジネスに展開されている。これをちゃんとやっていれば確実に偏差値が上がっていくというシステム。古くは教育社のトレーニング・ペーパー、そして近年では公文式が、それだ。とにかくこれは、ここまで説明した学習システムを企業の側が用意してくれているというもので、金さえ払えばよいわけで(しかも比較的安い)、これはとっても便利だろう。あとは娘・息子が文句を言おうが何だろうか、無理矢理延々やらせておけば、それで偏差値獲得は可能なのだから。ということは、もし、これを読んでいる人間が高校生で、あんまり偏差値が上がっていないとしたら、公文式に入って、もっぱらそれだけをやる(この時、他の参考書や問題集には目もくれないこと、そして学校の英語の授業もすべて無視すること。だいたい学校の教員なんてのは、非効率的な授業をやっているというのが相場だからだ。塾講師のようなスキルはない)。ただし、傾斜生産方式、つまりこれだけをものすごいスピードでやる。公文式ってのは、要するに英語の基礎をひたすら繰り返して知識を身体化させ、スキルにするもの。だからとにかく、スゴイスピードでやる必要があるのだ。そんな退屈なことはやりたくない?いやいや、そんなことはありませんよ。このスピード感を持って、一気呵成にやると、結構ハイになります。で、やめられなくなるなんてことにもなる。昔、公文式のCMで、公文式をやったことで東大にはいることのできた将棋の羽生名人が「やってて良かった、公文式」ってコピーを言い放っていたが、これは全く正解なのだ。ちなみにくどいようだがチンタラやると飽きてしまう。(続く)