映画館、シネマパラダイスとニューシネマパラダイスが映し出しているのは?

映画館の内部が映すもの、それは”観客”だ

映画『ニューシネマパラダイス』の映画館のシーンでもっとも映し出されているものは、映画ではなく、むしろ映画を観る人々だ。スクリーンの側から映画を観る人々の人間模様が何度も映し出されているのだ。「映画」が観ている「映画館の観客」という視点で。

映画館は広場の、そして共同体の象徴

広場の中央に位置している。これは広場が登場する最初のシーンで示されているので、改めて確認しておこう。

映画館の中でフィルムを検閲する神父が頻繁に鈴を鳴らす→一際高く鈴を鳴らすと場面と音は一転して鐘にかわる→カメラは鐘の中を抜けて広場を映し出す→広場と同時にそこを埋め尽くす共同体の人々が映る。そして、最後に向かって左手の映画館=シネマパラダイスを映し出す。

シネマパラダイスが広場の中央に位置しているということは、つまり映画館は広場の、そして共同体の象徴であることを示している。映画は常に共同体とともにあったのだ。この映画の中で映画と広場=共同体、両者は運命共同体として機能していく。

共同体に映画というマスメディア情報が登場すると、映画はアウラを放つメディアとなる

情報源がきわめて狭くかつ濃密の共同体にとって,映画は広い世界を見せてくれる唯一かつ最新の現代についての情報源=メディアだ。だが、共同体の人々にとって情報とは狭い範囲の中で流通するもの。だから情報は相対化されることなく、絶対化された状態で保持される。つまり情報はすべて「真実」として真に受けたかたちで捉えられているのだ。ということは、人々は共同体の外を見せてくれる映像に餓えると同時に,映像が写しだす世界を,それがお話し,つまりフィクションであるにも関わらず真に受けてしまう。共同体の情報感覚で、メディア、そしてフィクションの世界を捉えてしまうのだ。つまりウソの世界が本当の世界と誤認する。

これは日本のテレビ普及期に人々がテレビの情報に対して抱いた感覚と同じだ。たとえば、テレビ普及のキラーコンテンツの一つであったプロレスをほとんどの人が真剣勝負と捉え、さらには流血シーンを見てショック死するなんてことが発生していた。メディア漬けで、情報を相対的に捉えることの出来ている現代人にしてみれば、プロレスを見て、これをマジな勝負なんて思うヤツはいないのはもちろんだし、ましていわんや流血シーンでショック死する(しかも白黒だから血の色は「黒」だ)なんていない。逆にいたとしたら、これはこれで「珍しい」ということで話題にはなるだろうが、当時の人間、つまり共同体の人間からすれば、これは共同体の情報と同じ価値観で捉えられるが故に、本当に起こっていることと思いこんだのだ。だからこそ当時の興行師たちは、この情報感覚の閉鎖性を利用して見せ物小屋的なイベントを来る広げ、ドサまわりしながら荒稼ぎをすることも出来たのだが。(続く)