(上、ジュークボックス、セクシーなポスターなど個人主義的なもので覆われたBar。かつての人々の賑わいはない。下、アルフレードの葬式の一行が広場に到着したところ。看板、販売機、そしてたくさんのクルマが見える。映画「ニューシネマパラダイス」より)
一年の兵役を終えてバスでジャンカルドの広場に帰ってきたトト。上空に舞う鳥が広場にシルエットとして映っている。次いでトトの顔のアップ。トトは広場を見渡す。先ず目に泊まるのが噴水の右手にあるBALだ。このBALは以前、ここでイタリア民謡に合わせて年寄りたちがダンスをしていたところ。ところが、今回は様子が違う、入り口右にジュークボックスが置かれ、男がマシンをのぞき込んでいる。入り口向かって左に座る男たちもそれぞれ勝手気ままに楽しんでいる。男たちの上に貼られているポスターはセクシーな女性をアップしたそれだ。
ついでトトは広場を右から左へとゆっくり見渡す。そして左まで行くと首の動きが止まり、目をやや大きく開いた後、「おやっ」という表情をし、瞬きする。トトの目線の先に映っているのはとがすべて閉ざされた広場周辺の住居群だ。
そして、目線は再び右方向へ。その先にはニューシネマパラダイスがある。トトはニューシネマパラダイスの二階、映写室の窓を見上げると……そこにいるのは、自分の代わりに雇われた見知らぬ映写技師。技師は退屈そうにたばこを吹かしている。
まず、広場に人がいないのがおかしい。昼間なのに。そして人気がないことを示すメタファーとして空を飛ぶ鳥のシルエットが広場の地面に映し出されている。そしてBALもまた個人的に音楽を楽しむジュークボックス(演奏しているのなら、自分で曲を選べない。だから集団でそれを聴いて踊ることになるのだが、ジュークボックスは音楽を聴きたい個人がコインをマシンに投入すれば、自分の好きなものを聴くことが出来る。また横に座る男二人は言葉を交わしていない。この二人の上のポスターは個人の性的な欲望を満たす女性のセクシーなポスター。さらに、自分が親しんだニューシネマパラダイスの映写室も見知らぬ人間が牛耳っていることで、空々しいものに見える。広場はだんだんと「みんな」が集まる場所ではなくなり、「個人」が気ままに過ごす空間に変容しはじめたのだ。
では、トトを迎えにきた者はいないのか。いや、一人いた。厳密に言えば一匹。それはかわいがっていた犬だった。ただし迎えに来たのが人間でなく犬というのが、上空を舞う鳥のシルエット同様、広場に人がいないと言うことをいっそう引き立てている。
ここには、かつてあった人の賑わいもなければ、人が操る馬や羊もいない。代わりに登場したのがクルマ、マシン、広告と言ったメディアテクノロジーなのである。そして、この人の代替物は、時代が進むにつれて、いっそう増えていく。
アルフレードの棺を乗せたクルマが広場に進んでいく。広場は周辺一面に立てかけられた看板が。そして看板の脇には自動販売機がある。車も一台ではない。広場は共同体としての機能を完全に消失させていたのだ。
(続く)
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