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(50リラをアルフレードに渡されて、複雑な表情で紙幣を受け取るトトの母親)


「広場」は共同体の存在と崩壊を象徴する (3)分析:建て前と本音を使い分けて、互い融通を利かせる

トトの母親の複雑な演技

このエピソードの中で注目すべきなのはトトの母の表情である。

まず、アルフレードが会場係に落とし物について問い合わせをはじめたとき。この時、母親は急に何をはじめたんだろうと、不思議な顔をする。そして、アルフレードが”牛乳代の50リラはトトが映画館で落とし、それを自分が拾った”ということを、50リラ札を母親に提示して証明したときの顔が絶妙だ。この時、母親役の女優は、かなり難しい演技をしている(数十テイク取らされたんでは?と勘ぐりたくさえなる複雑さだ。それは「”困ったような顔”をし、ありがとうといいながら”受け取ることに少々意地汚さを感じた顔”をし、しかも”少し申し訳ないという顔”をしながらながらこれを受け取る」という演技だ。監督のトルナトーレは、なんでこんなややこしい演技をさせたのか。

貧乏ゆえ、本当にアタマに来ている母親

母親の演技の前提には、まずトトの家庭が夫がいないが故に非常に貧乏であるという事情がある。だから牛乳一本たりともムダには出来ない。ところが、それをトトは映画代に使ってしまった。一方、トトはいつも映画にうつつを抜かしている。これについても母親は業を煮やしている。苦しい生活なのに牛乳代が消えたこと自体に怒りを感じているだけではなく、業を煮やしている映画にトトが使ってしまったことで、怒りは二倍になっている。だから、ここで母親がトトを打つのはある意味、しつけと言うよりも、本当に感情的にアタマに来ているのである。

一方、アルフレードの方はこのトトの家の事情を熟知している。だから、広場で母がトトを打っているのを見かけただけで、その事情を察知し、トトをかばうべく「映画はタダで見せてやった。お金は落としたんだ」と、事情を説明するのだ。

田舎芝居で、その場を乗り切ろうとするアルフレード

ただし、これはミエミエのウソである。ところがアルフレードは確信犯的にこのミエミエのウソにリアリティを持たせようとベタな芝居に出る。会場係の相棒に「今日の落とし物は?」と尋ねるのだ。ただし相棒は空気が読めないので、本当の落とし物をポケットから順番に出していく。つまり「クシ、靴底」。アルフレードとしては、この田舎芝居を完結するために、相棒には50リラをポケットから出して欲しいのだが。そのとき、母親の方は「いったいこの人たちは何をやっているんだ?」という怪訝な表情になる。

そこで、しびれを切らしたアルフレードが「それと50リラ」と言いながら、ポケットから50リラを出し、なんとか芝居を完結させた。そして「ほらね」といいながら母親の前に紙幣を差し出す。そのとき母親が「困った+意地汚い+申し訳ない」の表情をするのだ。

母親の三つの表情が意味するもの

この演技は、母親がアルフレードの行為を「田舎芝居と知っている」ことが前提される故に、こうなるのだ。つまり、ここでやられているのはウソ。でも貧乏だからお金は欲しい。でも、ウソをウソとして退ければ、お金は手に入らない。どちらを選択すればいいのか……、で「困った」顔。次に、50リラを結局受け取ることになるのだが、それはウソをウソと知りつつ、お金ほしさに騙されたフリをしたわけで、こうなると自分は「意地汚い」。そして、苦しい家庭事情を踏まえてくれた心からの配慮に、アルフレードに対する「申し訳ない」気持ちを表す顔。

アルフレードの巧妙な配慮

一方、アルフレードの方も、母親のこういう複雑な感情を熟知している。だからこそ、こういった田舎芝居に打って出たのだ。つまり、本当は映画代に使ってしまった牛乳代。「じゃあ、オレが代わりに払ってやる」とアルフレードが言ってしまえば、母親のプライドは傷つけられるし、二人の対等な関係が破綻する。それゆえ、お金を拾って、それを事務的に落とし主の下へ返したことにしようとした。つまり、形式上は、あくまで映画館を運営する人間と顧客=観客の関係を保つことで、母親がお金を受け取りやすくなるよう配慮を行ったというわけである。言い換えれば、これはお金の授受を成立させるために行われた、黙契上での「出来レース」だったのだ。この時、田舎芝居は、この授受を可能にするメディア、つまりメタメッセージを成立させるための手段=媒介として機能していたのだ。

「出来レース」の、さらにもう一つ下のコミュニケーション

さらに、このシーンではもう一つの暗黙のコミュニケーションがかいま見える。それはアルフレードのトトに対する、そしてトト一家に対する愛情表現であり、それがきちんと伝わっていると言うこと。つまり「こういう田舎芝居をやっているんだけど、オレはあんたたちが心配なんだ。そしてトトを愛している。だから、この場はオレの顔に免じてトトを許してやってくれ、そしてこの金を受け取ってくれ」というメッセージが、授受を可能にさせるメタメッセージの背後に含まれている。いわば「メタメタメッセージ」が存在するのだ。ただし、メタのメタであるため母親がそのことを認識していると言うことは、ちょっと考えられないのだが。それでも、じわじわと互いの関係を深めてゆくには効果があるというレベルではある。

共同体におけるコミュニケーションの重層性

さて、かなり理論的になってややこしくもあるので、最後に改めて整理しておく。先ずコミュニケーションの第一層として「田舎芝居」が存在する。そしてコミュニケーションの第二層として、この田舎芝居を手段=メディアとして成立する、スムースで権力関係を伴わない「金銭授受」というメタメッセージが存在する。そして最後にコミュニケーションの第三層として、この金銭授受というメタメッセージを手段=メディアとして成立する「愛情伝達」というメタメタメッセージが存在する。

たったこれだけのエピソードの中に、監督トルナトーレは、見事に共同体における身体を媒介とした重層的なコミュニケーションの状況を提示して見せているのである。お見事!

ちなみに、このエピソードの最後にキチガイが登場する。彼のセリフは「オレの広場だ。広場は終了。帰って、帰って」だが、実は、このキチガイの存在とこのセリフ。映画全体を一言で言い表す記号になっている。だが、ここでは詳細は以降の分析にゆずりたい。
(続く)