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(教会の鐘の上からの広場の俯瞰。中央に噴水、左手にシネマパラダイスが見える)


「広場」は共同体の存在と崩壊を象徴する (1)


この映画の中でもっとも頻繁に登場してくるシーン。それは広場である。そして、広場は時代とともに次第に様子を変えていく。この変化をチェックするだけで、共同体の崩壊過程をわれわれは見て取ることが出来るのだ。

広場1、共同体における広場の基本形を提示

最初に広場が登場するシーンを確認しよう。

最初の広場のシーンは打ち鳴らされる教会の鐘越しに広場を見下ろす映像で始まる。広場で作業する人々(話しながら歩く,遊ぶ子供達,公共水道で髪を洗う女性,ナイロン靴下売り,水をバケツに汲に来る女達とその瓶,)、そして広場の中央に位置するシネマ・パラダイスとその前を往来する人と馬。

これは終戦直後のシチリア島の貧困な生活を綴るエピソードで溢れた映像だ。そして、これを基本形に広場がしだいに共同体的機能を失っていく過程が、順次描かれていく。

広場2,夜の広場

次に出てくるのが夕暮れの広場のシーン。ここは三つのエピソードから構成されている。一つめは共産主義者の男に手配師が仕事を渡さないというエピソード。二つめはトトが牛乳代を映画代にしてしまい、母親に叱責されるエピソード。そして三つ目がキチガイが初めて登場するエピソードだ。

エピソード1、手配師はなぜ、共産主義者に仕事を振らないのか
夕暮れの広場。夕食のための煙が屋根から上がる広場から引き上げる馬。山羊も。犬が駆け抜ける。男達が広場の噴水の前に集まって、日雇いの仕事にありつこうとしている。ところが共産主義を信奉している男(トトの学校のクラスメート・ペッピーノの父親)にだけは仕事が与えられない。男は「差別された」と文句を言う。すると手配師は「スターリンから仕事をもらいな」と言い返す。

なぜ共産主義者が排斥されてしまうのか。まず、これが疑問として現れてくる。というのも、この時期には貧乏人を擁護するのは共産主義だった。ということはこの貧乏な共同体と共産主義は親和性が高いはずである。つまり、資本家からカネを取り戻し、貧困を解消してくれる、共同体にとっては福音となるイデオロギーだ。ところが、共同体の人々は、この「すばらしいイデオロギー」に対し、もっぱら排除しようとする行動に出ている。

こうなってしまうのは、共同体の構成員たちの情報に対する相対性の低さに求められるだろう。どんなにそれが自らの環境の好転に寄与するものであろうと、これまでの生活を脅かす可能性のあるものに対しては、これを徹底的に排除する。つまり自らの価値観に対する絶対性(というか、これがあまりに当たり前であって、比較するという立ち位置すら取ることができない即自性)ゆえ、とにかく、こういった共同体の異分子というラベルが貼られたものはなんにでも排除するという態度に出ていくのだ。そして、この「非合理的な感覚」によって共同体の紐帯は維持されていく。言い換えれば、この閉鎖性を維持し、共同体を守るためには、こういったマルクス主義のような「異分子」は、中身などチェックするよりも、先ず排除してしまうのが「合理的」であるのだ。

ペッピーノ一家は結局、共同体の閉鎖性に耐えることが出来ず、ジャンカルドの町を後にする。その際もこの閉鎖性は徹底的に描かれる。先ず、学校でペッピーノがお別れのハグをクラスメートたちとするシーン。トトもその一人であったが、その中で、一人だけペッピーノがハグしようとすると後ずさりして拒絶する生徒が。

教師は「なぜ、お別れの挨拶をしないの」と問いただすと、それに対するその生徒の返事は

「この人たちは共産主義者だから」

というものだった。

そしてペッピーノ一家は広場のまん中にクルマを置き、周囲の人間との別れを告げながら、広場から去っていく。行く先はドイツだ。最後にペッピーノの父親が捨て台詞を一言。

「最低の街だ!」

共同体の連帯は共産主義という異分子を許さない。イデオロギーは生活に勝利することは、この時点ではまだ不可能だったのだ。そしてペッピーノ一家が来るまで去っていく中、共同体の中心である広場は何事もなかったかのように日常を繰り返すのだった。(続く)