共同体と現代社会

ニューシネマパラダイスを分析する装置=概念として、ここでは共同体=communityということばに触れておきたい。社会学的な辞書のレベルで共同体は「一定地域に居住し、地縁や血縁などで結ばれ、生活や利害を共有する集団」ということになるが、ここではテンニースが展開した「ゲマインシャフト」の文脈で捉えていきたい。

きわめて限定された世界

共同体の人々は、狭い空間内に居住し、衣食住すべてに渡って互いが重層的に関わっていた集団だ(現代社会においては、もはや消滅していると言ってよい。ヴァーチャルに表現すれば三丁目の夕日的世界か)。先ず共同体の構成員は、そのほとんどが一生涯にわたって共同体という限定された狭い空間から出て行くことがない。ちょっと比喩的な表現をすれば、彼らにとって「世界」とは地平線の見えるところまでであって、その先は、いわば「滝」になっていて世界が終わっているという感覚だ。

プライバシーなど、ほとんど存在しないに等しい

で、こんな狭い世界に住んでいるので、前述したように、そこに住まう人間はいろいろと関わり合いが深くなる。日常生活のすべてが同じ人間との関わり合いになるので、いわば全員が家族のような関わりを持つことになる。これって、一見するとなんがみんな親密で良さそうな感じがするが、ところがどっこい、現代人のわれわれからすれば受け入れられるような環境ではない。なぜって、生活の全部が家族のような重層的な関わり合いをするわけであるから、それは「プライバシーなどというものが存在しない」ということになるからだ。当然ながら個人個人の行動はきわめて制限されている。つまり行動の基準は個人ではなく共同体にあり、共同体を維持するために個人のプライバシーとか自由はほとんど無視されるのだ。

情報が繰り返されることで、プライバシーはドンドン暴かれる

プライバシーが自動的に暴露される、しかもされ続けるメカニズムは次のようになる。

共同体の人々にとっての情報入手メディアは基本的にオーラル=口述だ。共同体が存在した時代、つまり今からもう50年以上も前、もっと言ってしまえば100年以上も前の、ほとんどマスメディアが無かった時代には、人々は日常的な人と人との関わり合いの中で情報を入手していた。で、その情報とは政治や社会や経済の話ではない。そんな話は「滝の向こう側」で起きている話。共同体構成員にとっては「そんなのカンケーネー」どころか「そんなの知らない」世界である。

じゃあ、彼らの情報とは。それは「うわさ話」だ。つまり、共同体構成員の人間についての情報だ。それ以外の情報源はないのだから、これしか情報は必然的になくなってくるのだ。それはつまり他人のうわさ話、もっとわかりやすく言えば共同体の他の人間のプライバシーに関わることだ。ただし、自分が他人のうわさ話をするということは、全く同様に他人によって自分のうわさ話がされているということでもある。で、みんながみんな、人のうわさ話をする(ネタなんかないので、基本的には人の悪口でも言って、自己満足しているしかない)ので、これが巡り巡って、お互いのプライバシーを相互に暴露し合うというかたちになってしまうのだ。

情報は絶対的に高いリアリティを持っていた

でもって、他に情報源がないので、そこで展開される「うわさ情報」は高いリアリティを持つ。もとより、その情報に対してカウンターを当て、情報を相対化するようなマスメディアなど存在しない。ということは、気に入らないヤツを村八分にしようと思ったら、ことさらにそいつの悪い噂をばらまき続ければ、それで十分に目的を果たすことが出来てしまう。要は、非常に了見の狭い情報感覚なのである。

こういった情報に対する「絶対的な視点」は、当然あらゆる情報に対する態度にも共通する。だからメディア・テクノロジーを持ってウソ情報を流したら、共同体の人たちはそれを「真実」として真に受けるという態度しか持ち合わせていないのだ(実際、昭和三十年代の人々はテレビというテクノロジーが提供する「プロレス」というエンターテインメントを本当のガチンコ勝負と思っていた)。

共同体の崩壊を描く映画、それがニューシネマパラダイス

さて、ニューシネマパラダイスはシチリア島にあるジャンカルドという田舎町(架空の町なので、地図で探しても無い。モデルとなったのはパラッツォ・アドリアーノという町)での映写技師と映画好きの少年の40年にわたる友情を描いた作品だが、この二人の友情の物語を軸に展開されるもう一つの物語が、この「共同体の崩壊」なのである。これが、この映画の中では実に、そして驚くほど丹念に描かれている。そして、この共同体の崩壊の中で人々がどう対応していくが描かれていくわけで、その中でもメインの話になるのが主人公トトとエレナの恋の物語なのである。この物語は悲恋に終わるのだが、なぜ悲恋に終わるのか、つまり二人が結ばれないのかは共同体の崩壊と強い関係性を持っているのだ。

ちなみにテンニース的に言えば、この映画はゲマインシャフト(地縁、血縁に基づいた社会)からゲゼルシャフト(目的や利害に基づいて形成される社会)へのジャンカルドという町の変容、つまり共同体から個人主義に基づく現代社会への変化を表現しているということになる。

というわけで、次回以降は「共同体とその崩壊」の描かれ方について、映画のシーンや使われるアイテムを取り上げながら展開していく。以降、取り上げるアイテムとポイントを列挙しておこう。ちなみに、以下のポイントを軸に、解説は展開していく。


1.広場……共同体の崩壊過程をもっとも典型的に描く空間

2.乗り物……メディア・テクノロジーがいかに共同体に侵入するのか

3.映画館……映画の近代化と映画に対する人々の指向性の変化。個人主義の台頭による映画館の衰退

4.キチガイ……映画の中でトト、アルフレードに次いで重要な役割を持つ存在。キチガイは個人主義という悪魔の象徴だ。

(続く)

5.鐘、鈴、マリア・キリスト像……共同体の存在を保証するもの。そしてトトが破壊するもの。