編集された報道は、なんと「家族愛」

「さらし者」になった興毅。ところが、この記者会見を編集して報道したテレビや新聞のメディアは、僕が読み取ったモノとは全く違った報道で埋め尽くされていた。いちばん興味深かったのは、これら報道では興毅が父親の反則指示を「指示しました」と報道してしまっている点だ。実際の記者会見では、レポーターに反則指示の有無を問いただされた際には、前述したように父親が「いいわけはしない」と答えているに過ぎない。そして、さらにレポーターが「した、しないをはっきり言うことが責任だ」的な文脈で詰め寄っても、興毅は同じ返答をしたのだ。で、このままでは記者会見は紛糾してしまうと「空気を読んだ」金平会長が「いいわけしないってことは、認めたということですよね」と記者・レポーターに代弁したのだ。また、直後に、金平会長が興毅に、「そういうことでいいんだな?」的な確認を促して、はじめて興毅が、ゆっくりと肯定する仕草をみせたのだ。だから、実際には興毅は「父が反則を指示しました」と明言はしていない。

だが、報道では、これを適当に編集し、あたかも興毅が「父が反則を指示した」と言ったかのような文脈で採られるような報道編集を行っている(興毅の反則指示とごっちゃになっていた)。ナマの記者会見を見ていない人間からすれば、この報道は絶対に興毅が父の反則を明言したとしかとれないような報道の編成なのだ。こりゃ、ひどい。言ってもいないことが、事実上言ったことになってしまっている。

なんで、こんなことになっているのか。もちろん反則指示は今回の記者会見の焦点ではある。しかし、これをこういうかたちでメディアが編集・報道したのは、あの報道記者会見から「視聴率のとれるネタ」を共通してかぎ取ったからではないか?それは「親子愛」「家族愛」という文脈だ。

つまり、興毅がこの事実を認めざるを得ない状況を作り出され、前述のように何となく首を縦に振った後のセリフ、目を潤ませながら語った「小さい頃から育ててくれたのはおやじ。世間では悪く見られているけど、世界一のおやじと思っている」。これが、メディアにはメチャクチャ、おいしいセリフだったのだ。

つまり、この不良で社会不適応の親子という「最低の家族」にも、昨今失われている人間と人間の絆、家族間の強いつながりが見られる。そして、興毅は、その親子愛に基づいて父史郎をかばう。そう、これはすばらしい「美談」なのだ!そして、家族における教育のあり方が問題になっている昨今だから、これは視聴率がとれる。だから、この「美談」をめいっぱい盛り上げるためには、まず、父親の反則指示を認めておいて、「でも俺の世界一の父親だから、許してやってくれ」という筋書きがオーディエンスが感動するにはいちばん都合がいい。当然、なかなか言わないなんて言うのはおいしくないので、テキトーに編集した。ぼくはそう考える(僕が、こういった文脈で演出するなら、興毅が史郎の反則指示の有無を何度問いただされても、曖昧な返事に終始し、父親をかばうってなところを使うが。こっちも、ものすごくインパクトの強い「親子愛」演出になるはずだ)。

やっぱり亀田一家は、いない

亀田一家は、今回の興毅の記者会見で失地回復をある程度行うことができた。史郎の引退、興毅が中心となって亀田一家をこれから展開すること、そして興毅が非常にしっかりしているという印象。つまり家族愛が結ぶ新しい「亀田ファミリー」物語の始まりである。メディアは新しく亀田一家の使い方を発見したのだ。まだまだこの連中はおいしい。そう簡単に手放すわけにはいかないのである。

で、じゃあ亀田一家っていったい?よ~く考えてみて欲しい。っていうか、考えなくてもわかることじゃないかと思うんだが、こうやって美談の家族に変貌することを。これってやっぱりメディア・イベントでしょ。つまり、メディアが亀田一家を、また、勝手に持ち上げている。そう、メディアは亀田一家を持ち上げ、今度は思いっきり落として、また持ち上げた。つまり、これは亀田一家が、メディア的にでっち上げられた「亀田ファミリー」によって利用されているだけなのだ。だから、今回の興毅の記者会見で、亀田一家は正体を明らかにしたのではなく、またメディアによって利用され「亀田ファミリー」をバージョンアップさせられただけのだ。やはり亀田家族が「かわいそう」な存在と映ったのは、僕だけだろうか。そう亀田一家とは映画”トゥルーマン”の主人公と全く同じポジションに置かれているのだ。言い換えれば、暇人のテレビによる暇つぶし道具というポジション。

亀田一家、どこまで行ってもメディア上には、存在しない。そこにいるのは「亀田ファミリー」というファンタジーにすぎないのである。