振り子をまん中に戻すためには

ジェンダーと男女共同参画などについてすごくブレのある議論だなあと、つねづね思っている。まあ、もっともこれらをひとくるめにして議論するなんて乱暴だといわれそうだが、そうする理由は、これらが同じ基盤に立った議論に思えるからだ。ちなみに、これからお話しすることはバックラッシュではありません。あしからず。

以前、中ピ連や女性党という党を結成して選挙に出馬した榎美沙子という人物(70年代前半です)の発言を僕は子供心にとても感動した覚えがある。当時は、こういった運動は「ウーマン・リブ」と呼ばれていた。

それは

「右に触れたままの振り子をまん中に戻すためには、一端、振り子を左まで持って行かなければならない」

というものだった。

僕は、この意味を「現在は男性社会。男女平等社会にするためには、まず最初に女性社会にしなければ」と理解した(で、この発言は、今でも僕のこれらの問題に対する立ち位置になっているのだが)。なんで、こう思ったのかというと、当時、所属していた中学校で生徒会長選挙があり、この時、立候補者が女性一人ということで信任投票になったのだが、投票してみたらその候補者が不信任を受けてしまったのだ。それまでもいろんな役職を務め信頼も厚かった女性だったのに。あまりに不可思議だったのでクラスの連中に、その理由を聞いてみたのだが、そのときの答えが「だって、女だろ」だった。しかも、この発言が男女関係なく同じだったのだ。すっごくアタマに来ていたとき、ちょうどこの榎木美沙子女史のセリフが入ってきた。で、感動したというわけなのだが(当時の性差に関する認識なんか、この程度だった)。

榎の発言は現代的に考えれば次のように解釈できるのでは無かろうか。現在のジェンダー的な議論というのは、男と女を全く平等にしてしまおうという考え方。では、平等とはなんなのか?と考えた場合、この平等性は経済原理に基づいた「男社会」に人間全部を持っていってしまおうということになる。つまり、この議論は実は無意識のうちに「男が優性」という認識が前提されていて、その優性性に女性を引きずり込もうとしているわけだ。で、これが実際に実行されれば「全員が男性ジェンダーに染まった男社会」という究極の男性優位社会が生まれるわけで、そして再び経済原理が稼働すると、女性は「男性」という集合の中に位置づけられた弱者となる。つまり、現在の男性論理=経済中心主義に基づいた平等化が為された場合には、女性はより差別化される可能性があるのだ。

男らしさ、女らしさは、やはり必要

だからこそ、ここで必要とされるのが「男らしさ」「女らしさ」と言うことになる。ところが、この言葉はジェンダー論や男女共同参画の議論の中では結構、槍玉になる。そうやって「らしさ」の中に性別を押し込めることで結局は差別を肯定、助長することになるのだ、という論調だ。

僕は「男らしさ」「女らしさ」(あるいは「女らしさ」「男らしさ」)は必要という立場を取る。ただし、保守勢力が言うような固定化されたものではない。むしろ流動的な、どんどんイメージが変わるものとしての「らしさ」だ。そして、この「らしさ」がそれぞれ振り子の右と左になる。で、この振り子が揺れ続けることで「まん中」という落としどころが登場していく。ということは常に揺れ動く「女らしさ」「男らしさ」のなかで「まん中」ができるわけで、それゆえ「まん中」もまた揺れ動き続ける。そういう過程で男女共同参画社会についての議論が進められていく。これがベストと考える。

つまり僕の立場は、あくまで「男性」「女性」というのをはっきり分けておくという立場、そしてその二つの勢力が対等に渡り合える環境を作る(ラディカルフェミニズムの人たちは「そもそも男と女を分けることがおかしい」なんで議論をしているわけで、こういう人たちからすれば、僕の考えはとんでもないものになるんでしょうが)、それがあっての男女共同参画社会が成立するというものです。つまり人間という共通項の上に男と女がいて、でも男と女はどんどん変わって、それが人間と言うところに反映されて人間が変容し、そしてそれが再び女、男を再定義する。そして、これが繰り返し続けられる。

こういった立ち位置からすれば、現在、政府が進めようとしているのは、実は「男性社会への女性の取り込み」としか考えられない。のだ。


ちなみに、個人的な好みとしては「女性優位社会」の方がいいかな?なんて思っている不埒な輩です。だって、男はランボーだ!女の人も別の意味でランボーですが、女のランボーの方が「平和」さの次元でレベルが高い、と「勝手に」思っています。もっとも、少しずつ進む男女格差の変化の中で、多少なりとも男性が女性的なランボーさを身につけつつあることは、よいことかなとも考えますが。ただし、これはあくまでも個人的な好みですので。