教員の業績作りのために学生が利用される
メディア・リテラシー教育問題点の二つめは、上の「技術専門バカ」教育はクリアしているがゆえに、見かけ上はメディア・リテラシーが養成されたように思えるが、実際には、全く本人のスキルとしては実をなしていない、それゆえにメディア・リテラシーが養成されない教育が施されていることである。形式的には、上記のような技術指導が中心的な目的ではなく、コンテンツ作りやグループワーク学習などに焦点が当てられ、実際、それなりに質の高いコンテンツが作成されはするが、実質的には学生のメディア・リテラシー養成にほとんど繋がらない場合である。そして、このような指導法が、現在の大学教育で実施されているメディア・リテラシー教育の最も大きな問題点であるといえる。これはコンテンツ作成にあたって、指導する側が介入しすぎることで生じる弊害だ。教員の側は、学生に質のよいものを作らせようと熱意をもって指導するのはよいのだが、作品のレベルが学生のポテンシャルを引き延ばすというより、教員側が要求するレベルに基づいて作らせようとするため、コンテンツが結果として教員の手垢に染まったものとなる。それは確かに質のよいものとなるが、作品は学生が自らのメディア・リテラシーを伸ばした結果ではなく、教員が完成させた「教員の、教員による作品」になってしまうのだ。しかも、これを教育成果として研究発表したりすることも多く、出来上がったコンテンツは、さらにひとつ項目を加えて「教員の、教員による、教員のための作品」となる。その一方で肝心の学生のメディア・リテラシー教育は放置されるのだ。このような教育方法は、いわば「森を見て、木を見ていない」、つまり作品の完成度と研究業績に目がいって、学生の教育に目がいっていないものといえるだろう。
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