技術決定論が陥る常套の罠としてのテクノロジー一元論

エッブ2.0は近年頻発する劇場、バッシング、過剰報道による熱狂といった「お祭り」をなぜあつかえないのか。

理由は簡単である。これらウエッブ2.0論者たちはいずれも、ウエッブ内のことにしか焦点が向いていないからだ。いうならばウエッブ2.0一元論。だが、これは新しいメディア・テクノロジーが誕生する際に必ず発生する事態であり、メディア論をちょっとかじったことがある人間なら誰でもわかる「いつか来た道」なのだ。例えばその典型としてのテレビ。50年代後半、わが国にテレビが登場した際には、テレビというメディアをめぐってやはり賛否両論が渦巻いた。肯定派は「世界を見せてくれるすばらしい箱」とみなし、これを床の間において崇め奉った。いわゆるカーゴ信仰である。一方否定論者は、例えばノンフィクション・ライターの大宅壮一が「一億層白癖化」と評したように、テレビが人々の思考行動様式を一元化していくと警鐘を鳴らした。また、テレビからある種の電波や光線が出ていて危険という指摘もされ、ブラウン管の前に置くフィルターが販売されたりもした。つまり、新しいテクノロジーは既存のコードで説明がつかないため、まず既存の図式を用いて、肯定論、否定論が展開されるのが常なのだ。

しかしながらテレビは普及した。そして、これらのモノの謂いが結局はどちらでもないことが判明していく。それは、テレビというメディアの普及に伴って、テレビの利用方法が次第に形成され、他のメディアとの使い分けがなされ、相対化されて、日常生活の中に組み入れられていったからだ。いわゆるメディアテクノロジーの技術決定論(技術が社会を規定する)から社会決定論(社会が技術を規定する)への転換である。ちなみに同様のことはカメラやラジオの発明と普及の際にも発生している。

ウエッブ2.0論者たちはオタクな議論をしている

さて、このテレビの普及過程の初期と全く同じような議論、とらえ方がいまウエッブ2.0で起きていると考えれば話はわかりやすい。まず賛否両論が起きるのだ。そして、いずれにしろ議論は社会的文脈を踏まえることなく、新しいメディアの技術的な側面のみで、つまり技術決定論的な文脈でのみ語り続けられる。つまりウエッブ2.0論者たちはインターネットのウエッブ2.0をウエッブ2.0の内部でしか考えられていないということになる。言いかえればインターネット=ウエッブ2.0が社会全体の中で、あるいはまた他のメディアとの関わり合いの中で、人々がそれらをどのように受容するか、それによって思考行動様式をどのように規定していくかということに全く目がいっていないのだ。より明瞭に断言してしまえば肯定派、否定派双方ともインターネット=ウエッブ2.0オタクなのだ。オタク用語を用いて例えれば、彼らはウエッブ2.0という「セカイ」(=テレビ、アニメの中に作られる世界観)を、社会全体の「世界」とイコールでつなげてしまっているのだ。だから、彼らは肯定であれ、否定であれウエッブ2.0オタクという同じ穴の狢なのである。(続く)