ディズニー教=相対化されたやるせない現代を生きるためのシステム

これまで33回にわたり、僕のディズニーランドでのバイト経験を踏まえながら、ディズニーランドで働くことの意義を分析してきた。で、ちょっと考えて欲しいのは、僕らの時代(82年)はディズニーリテラシーが現在と比べれば遙かに低かったということ。ということは、僕がここで書いてきたことは、今のキャストたちはあたりまえすぎて考えることさえしないことなとかもしれない。なんせ、現在のディズニーのキャストたちはこの仕事にやりたくてしょうがなくてやっている連中なのだ。僕らの時代の「単なる遊園地のバイト」と思った輩がはじめたのとはわけが違う。最初からディズニー・リテラシーバッチリのこてこてディズニー教の信者=若者だ。だから、ここで僕が綴ってきたのよりも、もっとスゴイ状況がパーク内のキャストたちの間で起こっていることは容易に想像がつく。

で、こんなにハマるディズニーのバイト。そして仕事(東京ディズニーリゾートを運営するオリエンタルランド社に正社員として入社することはいまや大変難しい状況。文系の学生が入社したい企業のベストテンに入っているほどなのだ)。こうなるのはディズニーのハメさせるシステムによるものであることはもちろんだが、現代の社会的状況的文脈でもそれなりの理由があると考えるべきだろう。つまり現代社会は必然的にディズニー信者を生むというような構造になっていると考えるべきなのだ。

そこで、最後に総括として、ディズニーランドというシステムの可能性について、現代の情報化社会の現状という文脈を踏まえながら考えてみたいと思う。

相対化が徹底して、確固たるものが失われた現代社会

情報化社会。今や情報は膨大で、しかも多様。これは消費社会が人間の欲望を喚起することで利潤を拡大するという方向で進んできた必然的結果。つまり、それぞれの欲望に合わせて商品を展開したため、膨大な情報と商品が市場にばらまかれたのだ。ただし、そういった展開のお陰で、それぞれが情報や商品をバラバラに選択、消費するようになった。それは言いかえれば「これを抑えておけば大丈夫」といったスタンダードの消滅を意味していた。だから価値観も多様化して、どれが正しいのか全くわからない。しかし人間は自分を支える基準を必要とする。つまり、基本的な志向とか生活、行動様式をささえる立ち位置が必要だ。かつてならこれがかなり明確な形で存在していた。いうならば「世間」があった、これを参照しながら、つまりこれを立ち位置にしながら、自分がどういう風にたち振る舞えばいいか、自分はどんな存在であるかを判断することが出来た。

ところが現代、こういった「世間」は存在しない。だから、われわれは常に立ち位置が揺らいでいる。つまり存在論的な不安ならぬ「存在論的不安定」状況に置かれている。しかしこれはなかなかつらい。だから、これをなんとか切り抜けようとする。

その時、有効となるのがマスメディアの言説、しかもセンセーショナルに行われるそれだ。マスメディアがメディアイベント的にある種の情報を一元化して徹底的に流すと、「これが趨勢の意見だ」とばかり、多くの人間がこれにすがりつくようになった。それにすがりついている瞬間だけは、人と同じであること、いうならば「世間」を感じることが出来るからだ。多くの人間がこういったマスメディア情報に一気にすがりつくと、それは「お祭り党」を形成し「お祭り」が発生する。

しかしそれは一過性、揮発性が高いもの。ある程度の時間が経過してしまえば、消費し尽くされ、忘れ去られてしまう。残ったのは、相変わらずの存在論的不安定だ。そして現在、この不安定状況は年々と拍車がかかるようになり、頻繁にお祭り状況が発生するようになった。今年に入ってからも東国原劇場、コムスン騒ぎ、安倍イジメ祭りなどなど、二ヶ月に一変は「お祭り」が発生する。つまり嗜癖=addictionが更新して、アクセスの頻度がどんどん短く、そして刺激の強いものになっている。と同時に、決して自分のアイデンティティは形成されないという副作用も生まれる。刹那的に熱狂し、その都度、熱狂の時だけにアイデンティティを確保できたと幻想するだけだ。

そして、この「お祭り」は、こうやって刹那的に大衆が利用すればするほど、小泉純一郎のような、それを操るメディアの魔術師の思うつぼとなる。この状況、ヤバいんじゃないか?で、その処方箋の一つとして考えられるのがディズニー的な存在なのかもしれない。それは何か?(続く)