小林よしのりの正論と矛盾

小林は「反戦平和主義者が言論のタブーを作ってしまっていること」に警鐘を鳴らす。さらにこういった一元的な平和主義にの押しつけを批判する。以下、その部分を一部引用しよう。これはひめゆり部隊の生き残りの女性たちで語り部になっている人たちのパフォーマンスへの批判である。

「元ひめゆり学徒の語り部も、自ら口を開いて語っていこうと検診するにはいろんな葛藤があったに違いない。自決した友人たちに対して、生き残ったことへの罪悪感もあっただろう。米軍の捕虜になったことで、世間からなんと言われたかもわからない。しかしそれでも、他人に話すからには、どんな反応も覚悟しなければならない。同情だけを当てにしてはならない。特にその語りが、事実を正確に伝える体験談の域を超えて、何らかのメッセージを発しだしたときには、他人はそのメッセージを語り部の思惑通りに受け取るかどうかわからないのだ。自分の思惑通りに受けとらないからといって、「そのような感じ方は許さない!」と言うのは間違っている。人の感受性まで統制する平和が好きなのか?慰安婦問題の時と同じように、誰かが彼女たちに絶対弱者の権力を与えていないだろうか。」(同紙205~206ページ)

全くもって同感である。これは前回、僕が批判した広島平和記念館への批判と全く立場を同じにするものだ。小林の洞察は鋭い。

さらに小林の洞察は鋭さを増す。生き残ったひめゆり部隊の証言本が展示室に並べられているのだが、これらを以下のように指摘する。「一人の元ひめゆり学徒が、兵隊の看護に動員されて過酷な体験をし、生き残るまでの全体験を、全文通して読むようにはなっていないということだ~中略~数人の学徒の証言からそれぞれの段階での一部分を何者かが任意に抜粋して集め、証言本を作り展示している。したがって、その場の光景は見えるが一人の少女の心情の変化がわからない。例えばこれを映画化や漫画化することとなれば、一人一人の少女たちの心の動きは完全に作者の解釈に委ねられてしまうだろう」(同紙216ページ)

そう、つまりこれはワイドショーの手口と同じ。インタビューをあちこちから集めてきて生の声を報道するが、その並べ方やカットの仕方は編集側の任意に委ねられる、つまり事実を都合のいいように編集されるというのと何ら代わりはないのだ。まさに、ベタなイデオロギー戦略という他はない。

ただしである、小林は問題である。これだけひめゆり平和記念館の展示方法を相対化していながら、その一方で中国問題や、靖国問題などに関しては突然、絶対的立場で者を語りはじめてしまうのだ。また左翼についてもその多様性を踏まえず、一元的な存在として決めつけ、これを攻撃しているのである。本来ならばひめゆり平和記念館を批判するのと同じ刀で、中国政治や靖国問題、そして左翼の存在も語らなければつじつまが合わない。つまり、これもひめゆりと同等に扱わなければ、それは小林が、一方的なメッセージの押しつけやっていることになる。それは言い換えれば、小林もまた、反戦平和主義者と同じアナの狢であり、ある種のファシズムを振り回したことになる。加えていえば、矛盾を突いている自分が、実はその矛盾のメカニズムの中にすっぽりと使っているという自己撞着を起こしていることになるのだ。

ひめゆり平和記念館の分析がメディア論的には正鵠を射ている分、突然、ファシストに転じる小林は、やはりキケンなメディア上の人間と判断せざるを得ないだろう。まあ、ゴーマニズム宣言は、こういった矛盾を抱えながら展開されているところが、おもしろいのではあるが……