小林よしのり『ゴーマニズム宣言EXTRAパトリなきナショナリズム・沖縄戦編』を読む

前回、広島平和記念館のメディア性について述べた。その編集、そして配列が、それぞれ認識論的、存在論的にイデオロギーを含んでいて、その一元性を入館者に押しつけるということ、それが戦争を駆り立てたファシズムと同じメカニズムであるということを説いた。

これは、僕の授業で展開した内容なのだが、実はこの時、僕は一つ誤りを犯している。それは、広島平和記念館と沖縄のひめゆり平和記念館を比較し、前者を批判、後者を賞賛したことだ。広島平和記念館は前述したとおりだが、一方ひめゆりの方は「すばらしい」と言ってしまったのだ。これが間違っていたことが、このゴーマニズム宣言の新刊を読んで判明したのだ。

僕は、ひめゆり平和記念館のひめゆり部隊の女子高生たちの写真とそのプロフィールが並んでいるコーナーの記憶が強烈で,それを踏まえてほめてしまったのだ。このコーナーは第四展示室で、ここではそれぞれ同じ比重で均等に展示され、彼女たちがどこでいつ死んだのかが明記され、しかもそれぞれに論評がなかった。つまり、こちらがひめゆり部隊を解釈させる余地を与えてくれる展示方法だったので賞賛したのである。

ただし、資料館に行ったのは大分昔の話、他の展示部分の記憶が、第四展示室の強烈さに煽られて失われていた。ところがこのゴーマニズム宣言の新刊は、僕が記憶から消去してしまっていた内容をあからさまにしてくれたのだ。で、なんのことはない。ひめゆり平和記念館もまた、戦争悲惨、日本軍は悪、ひめゆり部隊の少女は国にだまされていただけ、というベタなイデオロギーで埋め尽くされていたらしいのである。

そして記録は、ひたすらひめゆり部隊がたどった悲惨な記録だけを、グロテスクな表記も含めて展開していたらしい。で、僕は気になってひめゆり平和記念館のHPにアクセスしてみたら、案の定だった。う~ん、こいつもなかなかヒドいものがある。これじゃ、ひめゆり部隊が浮かばれない。勝手に悲惨な人間たちに祭り上げられていて、しかも「騙されていた」と馬鹿者扱いされ、どうにもこうにも可哀想だと感じることしきりだった。(続く)