客観的な配列ですら政治的イデオロギーを含む

Museumの展示は、すべからくイデオロギー性を含んでいる。プロデュースする側が確信を持って展示配列のストーリーを作り上げている場合は言うまでもない。

問題は、どんな配列をしようと、かならずそれは物語=イデオロギーを構成してしまうことである(後述)。そしてそれに基づいてある程度一元的な解釈をオーディエンスに強要する。それゆえこちらとしては、これらイデオロギーのフレイムを読み取り、その背後に、自分にとっての原爆の意味を読み込もうとする想像力=創造力が必要となる。それがメディアリテラシー教育が必要であるゆえんなのだ。

僕は広島平和記念資料館は「絶対に必要」と考える。原爆の真実を伝えるのではなく(「そんなものはない」と先ず前提した方が、むしろことをリアルに把握できる)、原爆を想像、あるいは創造しつづけ、後世に伝え続け、原爆に関する様々なディスクールが展開され続けるために。現状のような一元的でクリーシェ化している展示のやり方では平和記念資料館はいずれ飽きられるのではないだろうか(展示をプロデュースした人々の想像力の欠如を感じます)。原爆を起こさないためには、原爆について「定型=クリーシェ」の原爆の恐ろしさを語り継ぐのではなく、原爆についての想像=創造力を喚起する装置を用意し続けることが重要なのだ。

こういった「展示することの権力」は、プロデュースする側のイデオロギーが関与する。一つは、ここまで述べてきたような認識論的=意識的なイデオロギー。だが、もしそれを取り除くことができたとしても、もうひとつの存在論的=無意識的なイデオロギーが関与してくる。展示品をチョイスし、配列すると言うことは、本人の意図にかかわらず、そこに無意識にイデオロギーが含まれてしまうからだ。本人は客観的・中立にやったつもりでも、やった本人は、実はその時代のイデオロギー、つまり時代を支配するディスクールに染まった存在。それが、無意識のうちに展示品の選択と配列に反映されるのである。これこそ、実を言えば究極的な権力の作動といえるのだ。(権力の作動や差別は認識論レベルよりも存在論レベルの方が遙かに強力でタチが悪い)

だから、展示する側も、自らの存在論的なイデオロギーを省察し、これら前提を踏まえた上で、展示を行う必要がある(なかなか難しい話ではあるのだが)。僕がとりあえず提案したいのは、「今回は、こんな感じのイデオロギーで展示してみました。こんなテーマでまとめました。みなさんどうでしょう?」的な立場表明をした上で、展示するというやり方、いわばオープンリーチ方式とでもいうやり方だ。こうすることで訪問者は、そのイデオロギーを相対化しながら、イデオロギーを吟味すると同時に、それに対する自分の立場を想像=創造することができる。

平和記念資料館は批判を受け続けることで、その存在意義が生じる

また、広島平和記念資料館を批判することについて、嫌悪感を覚えたのであるのならば、それはファシズムの始まりだと僕は思う(つまり現在の原爆イデオロギーを「神聖にして不可侵なもの」にしている。しかも展示物を担保にイデオロギーの正当性を主張している。つまり展示物の正当性をイデオロギーに置き換えているのだ。これは展示物に対する冒涜ではないのか)。むしろ、平和記念資料館を批判することも原爆を考えることの一つと考えるという視点が、原爆に対する考察を深化、あるいは進化・変容させる方法だろう。いいかえれば記念館は、議論を続ける空間として機能する、そして機能し続けること、つまり「生き物」として取り扱うことが必要なのだ。中身も時代に合わせてどんどん変更させていってもいい。もちろん、展示物も変更されてもよい。少なくとも展示されていない物はまだまだあるはずだ。並べ替えれば、原爆はいろんな形で解釈が可能になり、原爆をより相対化できるきっかけを提示してくれるはずだ。(続く)