一元的な原爆イデオロギーの押しつけは、戦争を起こさせるファシズムと変わらない

僕が、広島平和記念館を批判した理由を述べよう。

結論を先に言ってしまえば、僕も原爆なんてゴメン。戦争ももちろんゴメンだからである。だからこそ平和記念資料館を批判した。批判の根拠は、資料館を訪れる側に戦争に関する一方的なイデオロギーを強要し、こちらが戦争がどういうものかを考える余裕を与えないからである。つまり「戦争はいけない。こういうことがおこる。だからやるな」的な考え。そして、それを前提に非核三原則を強要する(ちなみに僕は非核三原則には賛成だ。しかし、これを金科玉条のように押しつけ、反対する人間を人非人のように扱うのには断固反対する)という態度に嫌悪感を覚えるのである。

これはマズい。このような記念館のプロデュース方針は、要するに思想統制にほかならない。そしてかつてそういった思想統制によって何が起こっただろうか。いうまでもなく戦争だ。そして原爆が落とされた。つまり、一元的なイデオロギーの押しつけとは、ファシズムと質的に全く異ならないということになるのだ。いいかえれば、あの記念館は「戦争はいけない」というイデオロギー=ファシズムを振り回している、と僕は考える。戦争は、時代時代で個人がその都度想像し、そして構築し続けることによって、様々に解釈・理解される中で、その悲惨さが伝わるものではないだろうか。だから、遺族が寄贈したものが悪いのではなく(これ自体は展示すべき)、それを並べた後に(並べること自体は問題ではない。厳密には注意が必要と言うことにはなるが。並べることも存在論的なイデオロギーを構成するので(後述))、一元的な物語を構成し、こちらに押しつけるのが悪いのである。

ちなみに正しい歴史など、存在しない。「歴史」とはその時代の権力を握ったものが、自らの権力を正当化するために都合のいいように過去の事実を配列して作り上げた物語に他ならない(だから歴史は普遍ではなくしばしば変わる、いや厳密に表現すれば変えられてしまう。従軍慰安婦、竹島、南京大虐殺問題などはその典型)。ということは、この展示物の並べ方も、現在の権力の正当化のために使われていると考えるのがメディア論的な考え方となる。要するに、認識論的側面が平和でも、その認識のさせ方の根本的態度、すなわち存在論的側面がファシズムでは、どうしようもないというわけだ。そして、戦争は存在論的ファシズムがなせる業でもあるといえるだろう。そもそも戦争とは「正義と正義の戦い」、「神々の闘争」なのだから。ちなみに、こういったイデオロギーは、しばしば党派における権力闘争の道具として使用されていることはいうまでもないだろう。(続く)