「広島平和記念資料館は出来が悪い」発言へのリアクション

先日、講義の中で僕は「広島平和記念公園の記念資料館は出来が悪い。並べ方が押しつけがましくて、想像力を喚起しない。資料館のあり方としてはレベルが低い」と批判した。これについては以下のようなリアクションがあった。ポイントは、原爆の悲惨さを訴えている施設にたいして、僕が批判したことの倫理感を問う意見だった。その一方で、僕の見解を評価するリアクションもあった。そこで、今回は全く異なる二つの典型的な見解を挙げ、これに対してMuseum=博物館、美術館のあり方について考えてみたい。

先生のコメントは「不快」

広島の原爆の話について、私はとても不快に思いました。原爆を二度と引き起こさないように原爆ドームとして残し、平和記念資料館を建てたのに、先生の考え方を聞いてハッキリいってかなりショックでした。確かに先生がおっしゃったように「見せ方」としてはいいものではないかもしれません。しかし、過去にどのようなことがあって、そして、今があるといった点で、こういった建物、資料館は必要ではないでしょうか。原爆を二度と起こさないようにしなくてはという考えの下にに遺族の方が亡くなった人の服などを使っていたものを寄贈したのだと思います。そうしたものを展示することによって多くの人に原爆の悲惨さを伝えると行った考え方だと思うのですが。(同様のコメント他1部)

「原爆ブレイン」な人々が出てくる危険性

僕も中国地方出身と言うこともあって、平和記念資料館には何度か行ったが、先生と同じで、アレは少し危険をはらんだ施設であると思っていた。ことわっておくが、僕は戦争支持者でも何でもなく、危険をはらんでいるというのは、戦争を知らない若者(自分も含む)に対する警告である。平和記念公園は全部見るのにさほど時間はかからず、30分もあれば全部回れるが、少なからず出口からは洗脳を終えた「原爆ブレイン」な人々が出てくる危険性をはらんでいる(僕の友達もそうだった)。記念館はある意味、情報が一方通行であり、その情報も単一である。「原爆=悪」。これ自体は僕自身、同意をするが、問題はその後の「核を使った戦争」、極端な話「核を持った国に対する戦争」が正当化されるような可能性をはらんでいること。それでは「沖縄」で起きたことはなんであったのか?核を使っていない戦争であったのでは?戦争に対する考え方が偶然であれ、洗脳されるのは少々危険ではないか?

さて、この二つの意見、どう考えるべきか。(続く)