データベース消費

こういったストーリーのギクシャクした映画を楽しむというのは、要するに新しい映画の視聴スタイルの出現と考えなければならない。そしてこのような映画の消費のやりかたは、東浩紀の指摘するデータベース消費、そして映画のストーリーは大塚英志のキャラクター小説ということばを該当させればスッキリと理解できるだろう。

データベース消費は、それまでの物語消費と対比して説明されている。物語消費の場合、読者は作品内容を構成する部分=小さな物語を拾い集める、つまり消費し続けることで、最終的にその先にそれらを統合した大きな物語にたどり着く。これは典型的なモダニズムに基づいた作品の消費のやりかただ。

データベース消費において読者は作品内容を構成する部分=小さな物語を拾い集めるが、読者はその先にそれらを統合する大きな物語を読むことはない。小さな物語それぞれに耽溺する=「萌える」か、小さな物語を組み合わせて別個の物語を構成する。あるいは、物語の設定やキャラクターだけを抽出し、任意にこれをカスタマイズする。この場合、作品全体は「物語」と言うより、こういった加工編集するための「データベース」と見なすことが出来る。

キャラクター小説

一方、キャラクター小説とは、既成のキャラクターの特徴を拝借して換骨奪胎し、新しいキャラクターを作成。次に、やはり既成の設定から拝借して同様に換骨奪胎し、新しい設定を構築。その中にキャラクター流し込んで、次々と話を展開させていくというもの。キャラクターの絡みがもっとも重視されるもので、その際ストーリーはあまり重要視されない。

キャラクター小説的な手法、実は何も新しいものではない。たとえば古くは、アガサクリスティーの小説(すいません、タイトル忘れました)の中には、世界中の有名探偵、つまりポアロ以外にシャーロック・ホームズなんかが登場して、事件を集団で解決するというものがあった。またマンガではドラゴン・ボールが典型だ。これも次々とキャラクターを登場させることで作品が延々と続けられた(人気があるので、作者の鳥山明が作品終了することを集英社に止められていたという事情もあるが)。また、これを、ある種パクッたものとしてはキン肉マンがあるが、これも当初のどたばたギャグ・アニメが、途中から様々なキャラクターが登場し、善と悪で対決する図式のような壮大な物語へと話が展開していった。ちなみに、どちらもストーリーはこれらキャラクターを動かすための設定の域を出ていない。さらにさらに、これを実写?でやって見せたのが70年代後半のアントニオ猪木だった。猪木は「萌える闘魂」のキャッチフレーズの下、プロレスラーごとにキャラクターを設定し(その設定の演出を行ったのは古舘伊知郎)、これらレスラーがリング上で覇権を争うという壮大な物語=「戦いのワンダーランド」(古館)を作り上げていった。

さて、こういう風に考えると、パイレーツ、そしてスターウォーズといった作品群はこういった要素をすべて持ち合わせていると言うことがわかる。われわれはパイレーツから、任意にそして状況に応じて、次々と勝手に小さな物語を作り上げ、それを享受する。だから、新しく作られる作品はそういったもの=情報=データをおもちゃ箱をひっくり返したようにぶちまけてくれることがもっとも必要なニーズなのだ。もちろん、これら作品を単体=一つの完結した物語、その作品から単一のメッセージを読み取ろうとするモダンな輩には、平板で、凡庸で、まとまりのない作品にみえてしまうのだが。(続く)