ウォルト・ディズニーが心がけたストーリー性

パイレーツ・オブ・カリビアン。この映画の制作はディズニー・カンパニーであるが、創始者のウォルト・ディズニーが映画を作る際、常にスタッフに言い聞かせていたのは「ストーリー重視」だった。どんなに絵がキレイで斬新でも、ストーリーがよくなければ決してよい作品とはいえない。つまり、作品に一貫性が無ければいけないと、口を酸っぱくして言い続けたのである。ちなみに、これはディズニーの経営が安定するきっかけを作ったテーマーパーク事業=ディズニーランドのコンセプトに大きく反映されている。ディズニーのことを知っている人間には「釈迦に説法」だが、ディズニーランドのアトラクションやレストランには必ず物語が用意されており、それが施設のリアリティを演出している。

たとえば、ディズニーランドのアトラクションの一つ、ビッグサンダー・マウンテン。アウトドア形式のジェットコースターだが、これにはだいたい次のようなストーリーがある。

ゴールドラッシュ、西部開拓で開かれた鉱山・ビッグサンダーマウンテン。だが金はすべて掘り尽くされ、廃鉱に。そして人は誰もいなくなったはずなのだが、なぜかトロッコが相変わらず鉱山の中を駆け抜けている。しかもそこには誰も乗っていない。では、誰が?

19世紀当時、フロンティア・スピリットに燃えた開拓者たちは一攫千金を求めて西へ西へと進んでいった。そしてその名の通り金をせしめ成功者=アメリカンドリームの体現者となったものが現れる。しかし、そのほとんどは夢破れ、未開の地で寂しく人生を全うした。そう、こういった夢を果たすことが出来ず、死んでいった人間たちの怨念が亡霊となって、この幽霊トロッコを走らせているのである。

こういったストーリー設定と、それに合わせた演出は、結果として、その統一感からアトラクションに一種独特のリアリティを醸し出している。いわばディズニーという人物はストーリー性という一貫性と直線性、目的に対して適切な手段を配置するという合理性を前提にファンタジー=ロマンを構築する徹底したモダニストだったのだ。

ストーリー性の未整備。モダン映画としては低評価

ところが、この映画にはこういったウォルトの精神は反映されていない。ストーリーがないとはいえないが、課題となっている膨大な情報整理のためにストーリーの線がスッキリと通らなくなってしまっているのだ。前述したように、とにかくどんどんシーンが変わり、それがすべて特撮=スペクタクルシーンなので、それ自体で飽きることはないのだが、ウォルト的に考えればこれはダメな映画なのである。そう、モダニスト的オーディエンスがこの映画を評すれば、整理が行き届いておらず、意味の一貫性に欠けた「分裂的」な作品と言うことになる。実際、三部作であるこのシリーズの三つ目である本編から作品を見たら、映像のおもしろさはともかく、内容は全然わからないだろう。言うまでもなく第3作は前二作でバラまいた情報を整理することが目的なのだから。

これと、全く同じ印象を抱いたのは「スターウォーズ・エピソード3・シスの復讐」だった。この作品は、アナキン・スカイウォーカーがダース・ベイダーになっていくまでの物語。スターウォーズシリーズは六作で構成されているが、第一作がエピソード4で、5,6,1,2という順番で制作された。そして真ん中に当たるこのエピソード3が最終作となっている。で、三十年近く前に制作されたエピソード4の前半を作る、しかも時系列的には一世代前の話をということで、それ自体に無理があるのだが、もっとたいへんなのは4、5,6,1,2でばらまいた情報をすべて整理し、エピソード4とスムースに連結するという作業をしなければならないということ。だから、この作品もストーリーどころか情報整理=謎解きに終始すると言うことになった。スターウォーズ・オタクだったら、たぶん、つじつま合わせが失敗しているところを山ほど見つけられるのでは無かろうか。僕でさえもいくつか発見できたのだから。

だから、ストーリーはある意味「どうしようもないな」とおもわせるものであった。でも、やはりこのときも僕は飽きることなく、結構満足したのである。ダメな映画に満足するとはどういうことなのだろうか?(続く)