学力テスト再開の波紋?

43年ぶりに全国学力テストが実施された。参加者は小中学校生合わせて233万人。これには賛否両論が渦巻いているが、結構批判的な意見が多い。

もっとも典型的なのは、これが「格差社会」を有無温床になるのではないかという懸念だ。つまり学力テストによって、個人の学力が客観的に査定される。さらに学校単位、地区単位で学校のレベルが判明する。これによって、成績の悪い生徒がいじめられたり、成績の悪い学校の評判が落ちたりするのではと言うわけだ。

とりわけ、政府がこの結果を基に学校を優遇することを考慮したいなんてことを言ったのも波紋を広げる要因となった。ついでに学校の自由選択制なんてことも言われはじめているわけで、こんなことをやったら、出来る学校と出来ない学校が明確に区分され、落ちこぼれ学校と、優秀学校という環境が出来上がっていく。だから、全国テストはいけないというわけだ。

議論のはき違え?

だがこの議論、合っているような、合っていないようなところがある。つまり、部分的にはき違えていないかと言いたいのだ。

先ずはき違えていないところから挙げてみる。たしかに自由競争性を導入して、学校選択制にし、学校の優遇制度を設ければとんでもないことが起こる。落ちこぼれ学校は「悪の巣窟」というレッテルが貼られ、格差社会の底辺として扱われることになるだろう。ひょっとするとその学校の周辺はゴーストタウン化するかもしれない。だから少なくとも、学校選択制と学力テストによる優遇生といった、ある意味「偏った」(つまり自由競争の中でゆがみを必然的に生じてしまう)制度を導入することは、平等性を著しく欠くことになるだろう。

ただし、それは必ずしも学力テストの実施と関わるわけではないだろう。学力テストはまず個人の学力をチェックすることで、全国の生徒の中で自分がどの位置にあるのかを知るのにはよい指標だ。問題は、前述した政府や学校が自らの競争原理として用いることの害悪と、個人の成績が判明することがごっちゃになっていることだ。

これをごっちゃにする心性の背後にあるのは、実に妙竹林な民主主義の考え方である。簡単に言えば何でも平等主義的な発想。現在、多くの小学校では運動会の際、順位をつけないなどというバカな方針を貫いているところがある。また、これは全国的なことだが生徒の成績は小学校では絶対評価。つまりその子供が以前に比べて伸びたか伸びなかったかだけが基本となる。だから、本当の実力はわからず、中学校になって初めて判明する。それだけではなく中学校に入っても、他の学校と比較することが中学三年までは出来ない(中三で実施される模試で初めて判明する)。で、高校受験になって、親が子供の実力を初めて知り、あわてふためくというわけだ。逆にそれをおそれている親は、子供をとっとと全国レベルが判明できる塾に通わせるようになる。

こんなことをするのは子供が成績の上下によって差別されることを懸念するからだ。そして今回の全国学力テストへの批判は、前述した制度的な格差社会化の進行と個人が成績によって差別される懸念を同一線上・同室のものとして扱っているところに特徴がある。つまり個人の学力が判明してレベルが判明することが格差社会の誕生と言うことになるという双方の部分を羊頭狗肉に結合することによって議論が勃発しているのだ(続く)