2月25日に投票が行われた宮崎県知事選で現職の河野俊嗣氏が僅差で当選を果たした。河野25万票、対抗馬の東国原英夫23万票という僅差だった。現職の際には95%もの支持率を誇った東国原はなぜ敗北したのだろう。


東風が吹かなかった二つの要因
要因の一つは、前回の当選時とは状況が全く異なっていたことにある。2006年、宮崎は政治的腐敗が極みにあった。県知事の官製談合によって逮捕された黒木博知事に続いた次の松形祐堯はシーガイアというとんでもない負の遺産を残して退いた。こうした政治的腐敗を払拭すべく次に知事となった安藤忠恕もまた官製談合によって在任中に逮捕される事態に。そんな中で泡沫候補として登場した東国原(当時、そのまんま東)が「みやざきをどげんかせんといかん!」とのキャッチフレーズで、一切しがらみのない、支持基盤ゼロの選挙戦を繰り広げる。

これに追い風となったのが自民党内の政治的ゴタゴタだった。党本部と県連で意向が決裂、二人の候補者が自民党内から立候補する事態に。県民は「どちらにやらせても、結局、現状は変わらない」とあきれ果て、スーパークリーンでしがらみのない泡沫候補を選択したのだ。つまり「東風」が吹いたのだ。その後、周知のように東国原は宮崎を全国区にすることに成功する。それが金正日、ヒトラーばりの支持率獲得に至ったのだった。


だが、今回は事情が違った。東国原周辺には複数のマイナス要因が広がっていたのだ。

一つは河野県政。元はといえば河野は東国原が知事に就任した際に副知事として指名した人物。つまり、東国原県政をバックアップする第一人者で、東国原が一期で知事を退任後、県政を引き継いだ。その後、さしたる問題もなく県政を運営することに成功する。もちろんしがらみや政治的腐敗とは無縁。人柄も温厚で県民の支持も厚い。東国原がある程度の宮崎の経済基盤を立て直した後、人々は県政のクルージングを望むようになる。いわば武断政治から文治政治へのマインドシフトが起きていた。ということは、東国原が2007年に流行語大賞を取ったキャッチフレーズを再びアレンジして持ち出し「シン、どげんかせんといかん!」と訴えたところで「何を?」との反応が返ってくるの関の山。県民は今回の知事選において首長を変更するさしたる理由を見つけることができなかったのだ。

もう一つは「身から出た錆」である、たった一期で知事を辞めてしまったこと。知事時代、僕は宮崎に暮らし、テレビ番組絡みで東国原に何度かインタビューをしたことがある。その中で彼が訴えていたのは「骨を埋める覚悟でやります。宮崎は私のお母さん」とコメントしていたのだが、あっという間に手のひらを返してしまった。今回の選挙戦で、その理由を「口蹄疫の際に宮崎牛が途絶えてしまうことを避けるために、数頭を法律を無視して避難させたのだが、一部の人間から、『次に立候補したら、このことをバラして政治的なスキャンダルにする』と言われ、泣く泣く立候補を諦めた」と説明しているが、これはウソだ。

任期が進むにつれ、東国原は県知事という職務が自分が思ったよりもはるかに限定された活動しかできないと認識するようになる。「県知事じゃ、なんもできん」的な発言を繰り返すようになったのだ。曰く、「ぷらーっとしてた」。そして、かつての情熱は冷め、県庁にもあまり顔を出さないようになった(東国原の活動を逐次チェックしていた僕は、県知事番の記者、番組担当者複数から、この時期の東国原のヤル気なさの報告を受けている)。そして、その思いは国政に向かっていく。当時は自民党も小泉が辞任してゴタゴタ状態。この打開を図るべく自民党は選挙対策委員長・古賀誠が自ら宮崎に赴き、東国原に国政に参加するように要請するほどだった。結局、東は東風を捨て、自ら東へ向かった。そして、その勢いは止むことなく東京都知事選に立候補。落選こそしたが、百万票を獲得する(石原慎太郎が考え直して立候補しなかったら、おそらく当選していただろう。都知事選後、ジャーナリストの田原総一朗は東国原との対談で「これ、あなたの勝ちですよ」とコメントしたほど。つまり「試合に負けて勝負に勝った」。だから、次の都知事選を狙って虎視眈々と準備をしていれば当選は可能だったはずだ。ところが、そうはしなかった。東国原はコメディアンそのまんま東からコメンテーター東国原英夫として再びテレビ画面に露出しはじめた。そう、こちらも早々に活動をやめてしまう。また「ぷらーっ」としはじめたのだ。)

当然、県民は怒った。あれだけわれわれを持ち上げた挙げ句、あっさり捨てたのだから、それは当然の反応だった。



東

東國原知事(当時)にインタビューする筆者(2007)



東風、実は吹いていた?

では、東風は吹かなかったのだろうか?いや、やはり今回も吹いていたと考えるのが妥当と僕は考える。

前回戦った際の投票数を比較してみよう。2007年は27万票、今回は23万票と減少している。ただし、前回二つに分かれた自民党候補者の獲得投票数を合計すると32万票。一方、今回河野俊嗣が獲得した投票数は25万票。獲得投票の占有率は前回(2007)よりもアップしているのだ。しかも、これは自民、公明、立憲民主党が相乗りでバックアップしての数字。東国原は支持基盤なしの「丸腰」。それでもこれだけの票を獲得したのだ。投票率は前回(2018)比22.7%のアップ。このアップ分の多くが東国原に一票を投じたと考えるのが妥当だろう。そう、東国原は変化を望まないと思われ、投票率が右肩下がりだった県民に、政治意識を覚醒させることに成功しているのだ。


河野は勝利宣言に際して思わずメガネを外し、流れ出る涙をハンカチで拭き取った。河野自身もこれまでの県知事選とは違い、非常に厳しいものであることを予感していたのだ。もし仮に、支持基盤の一つだけでも東国原に寝返っていたしたら、敗北は免れなかっただろう。勝って兜の緒を締めよ、河野はおそらくそんなふうに思っているのではなかろうか。そう、今回も東風は吹いていたのだ。ただし、都知事選同様「試合に負けて勝負に勝った」のである。


東国原のこれから……持続力がポイント

この後、東国原はどうするのだろう?四年後に再び県知事選に出馬するとすれば、また大きなイベントになること、そして東国原が勝機を得られる可能性は十分に考えられる。河野県政を批判するとすれば、それは「多選」あたりがポイントになるのではなかろうか。

ただし、東風を吹かすためにはやはりいくつかのハードルがある。

一つは東国原の年齢だ。四年後の選挙の際には69歳になる。つまり、高齢がネックになるだろう。多選VS高齢の図式が考えられる。

ただし、これはさしたるマイナス要因ではないだろう。いちばんの問題は東国原自身の持久力だ。目標に向かったときのエネルギーは今回も含めてすでに実証済みだが、それを獲得した後の持続性がないと周囲からは認識されている。県知事を一期で辞め、都知事選落選後も次への立候補を考えない。「あの男は飽きっぽい」と思われても仕方がない行動をとり続けているのだから。これをどう払拭するかが、次期県知事選への当落のポイントとなるのではないか。


宮崎在住時、何度となく東国原さんとは会話する機会があったのだけれど、とにかく頭のよく回る人、そして宮崎のことをよく勉強しておられるという印象があった。「先生の大学の野球グランドのバックネット。破れて半年以上経ってますけど、あれ、どうにかなりませんかねぇ」と指摘されたときにはかなりビックリした。当の僕が、そんなこと知らなかったからだ。また県知事在任時はオール野党と言われ、自民党から赤子の手のひらをひねるようなものと思われていたが、議会でもメディア上でも、その豊富な知識とキレのよさで、県議会議員を打ち負かすこともしばしば。挙げ句の果て、自民党県連が東国原にひれ伏した的な状況にもなった(だから支持率もアップしたのだけれど)。


東国原が知事に返り咲くためのプラン

東国原が四年後に知事に返り咲くために、本人がやるべきこと。それは持続性(サスティナビリティ)を県民に向かって証明することにあると僕は考える。具体的には宮崎に根を下ろし、四年間、宮崎に向けた政治活動を行うことだ。それはボランティアやNPOとしてでもよいし、いったん県議会議員になってもよいだろう。かつて知事時代にやったように、マスメディアを駆使した自らの全国区での活動とこれをリンクさせる。こうした地味な活動を派手なパフォーマンスで展開すること。つまり持続性を証明することではじめて一期での退任批判を覆すことが可能になる。

その根拠は、今回の23万票という結果が示している。そう、繰り返すが依然として東風は吹いているのだ。その風向きをコントロールすること。東国原にはそれが求められている。退任罪、懲役四年と考え、ムショ(宮崎)では模範囚を務めて欲しい。