勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2021年10月

10月29日、新庄剛志の日ハム監督就任という仰天ニュースが報道された。「新庄はパフォーマンスに優れるが、反面指導者としての経験はないから、チームを率いていくことなんかできるのだろうか?」「新庄は二面性の持ち主。パフォーマンスもさることながら理論面でも優れているから大丈夫」……こうした賛否両論が同日のうちにに何度となくメディアを駆け巡った(ただし、ほとんど肯定的)。だから、たった1日で聞き飽きた視聴者もいるかもしれない。


そこで、パフォーマー、技術者といった側面以外の、そして考えようによってはそれ以上にチーム活性化に重要な新庄の魅力=カリスマ性について、15年前のエピソードをもとにメディア論的に語ってみたい。


”その時、摩訶不思議なことが起こっていた!”



現実歪曲フィールド

Appleの創業者スティーブ・ジョブズのパーソナリティを表現する際にしばしば用いられる用語の一つに「現実歪曲フィールド」がある。大したことのないプロジェクトや製品であっても、いったんジョブズがプレゼンを始めるとクライエントやオーディエンスはそれがとてつもないような素晴らしいものに思えてしまい、取り憑かれたように契約したり、購入したりしてしまうのだ。新庄もまたこの現実歪曲フィールド能力を備えている。その典型が2006年のペナントレースだった。



 
四月早々の引退宣言というスタンド・プレー

日本ハムファイターズの選手だった新庄剛志は2006年4月18日、ペナントレース開始早々、引退を表明してしまう。通常、プロ野球選手の引退表明は、シーズン末、レギュラークラスの選手ともなれば、全スケジュールが終了した後が一般的なのだが、新庄はちょっと考えられないくらい早い時期にこれをやってしまったのだ。しかも34歳、さして体力的衰えがあるようにも思えない。新庄はこれまで突然の引退宣言、大リーグ参戦、オールスター戦でのホーム・スチール、敬遠ボールをサヨナラヒット、かぶり物をかぶって練習など、常にプロ野球界の中で話題を提供し続けた人気者。本人も言うように「イチローは記録、自分は記憶に残る」存在だった。


そんな選手がこのタイミングで引退宣言などすれば、最後の勇士見たさに連日ファンが球場へ押し寄せ、残り試合すべてが引退セレモニーとなることは請け合い。事実、この年、ペナントレースは新庄を中心に展開した。



並の選手が……新庄劇場というパフォーマンスでチームを日本一に

引退宣言以前から、新庄は自分が打ったホームランにはすべて打法の名前を付けてメディアに紹介していた。引退宣言の際も自らがホームランを打って、それをヒーローインタビューで「28年間思う存分野球を楽しんだぜ。今年でユニフォームを脱ぎます打法」と命名し引退宣言を行っている。すると、その後、メディアはホームランのたびに命名する打法を紹介(これまで以上に大々的に取り上げるようになった)。新庄もこれに合わせて様々なパフォーマンスを続け、これがメディアによって逐一報道された。阪神時代の63の背番号をつけて試合前に練習したり、阪神戦の練習にタイガースの縦縞のユニフォームを着てみたりと、一連の「自作自演引退セレモニー」を毎試合のように続けていく。その間、新庄が引退を覆す様子を見せることは一切なかった。そして、それが新庄という存在を一層注目させることとなる。

これらの新庄のメディアを巻き込んだパフォーマンスが一連の新庄劇場を形成。札幌ドームへの入場者数は記録破りとなり、不景気どん底であえぐ北海道民の士気を大いに盛り上げていくどころか、新庄劇場は全国的な現象となっていく。そしてこの勢いに乗じて日本ハムはリーグ優勝を遂げ日本シリーズ進出。果ては24年ぶりの日本一を勝ち取ってしまったのだ。



敵チームのキャッチャーがバッターに球種を教えた! 

新庄劇場にいかにメディア、そして日本国民が踊らされていたかを象徴するエピソードは日本シリーズ最終戦(第五戦)の出来事だ。場所は札幌ドーム。この時点で日本ハムは三勝一敗。優勝まではあと一勝のところに来ていた。八回裏、2点リードで日ハムの稲葉篤紀がホームランを打ち、日ハムは3-0とダメ押しをする。そして次のバッターが新庄だった。しかし、このまま勝ってしまえば、当然のことながらこの打席は新庄にとって選手としては最後の打席となる。そのことを観客、そして実況も知っており、もはや打席は日本シリーズなどそっちのけ、新庄引退へむけた最終打席という意味合いの方が遙かに勝っていた。これは新庄も承知しており、感極まって涙が止まらずボールが見えない状態に。

その時、対戦相手のキャッチャー、中日の谷繁元信捕手が新庄に思わず一言つぶやいた。


  「泣くな、まっすぐでいくから」


そして代わったピッチャーの中里篤史はすべて直球を投げ、新庄は三球三振に倒れる。すると、球場は総立ちで新庄にスタンディング・オーべーション。単なる三振が、このシリーズ最大の見所となってしまったのだ。この話は、しばしば感動の場面としてメディアでも取り上げられた。新庄というカリスマに日本中が酔ったのだ。

しかし冷静に考えてみれば、これはとんでもない状況、野球のルールを逸脱した「厳罰もの」である。問題は中日捕手の谷繁である。対戦相手の捕手が敵チームのバッターに球種を教える、しかもすべてというのは、八百長とよばれても仕方がない行為。しかも、得点差は三点。中日ドラゴンズはまだ9回の攻撃を控えており、逆転の可能性も十分考えられる。つまり、この時点でまだ日本シリーズの決着は付いていない。谷繁の行為は、まるでオール・スターやエキシビジョン・ゲーム、消化試合での引退選手の最終打席のような感覚といわねばならない。新庄が三球三振したからよいものの、本来ならばそれでも処罰もの。万が一、ここで新庄がホームランを打っていたら大変なことになったはずだ。



日本人全員をペテンにかけた新庄、ただし……

ところが、である。なんとこの谷繁の行為に非難は全く浴びせられなかった。マス・メディアにいたっては美談として紹介しさえした。そして、なぜかプロ野球機構もこのことを咎めたりしなかったし、中日の落合博満監督が谷繁の責任を問うこともしなかった。こう考えると、もしこれで新庄がホームランを打っていたとしても、やはり一切責任問題はなかっただろう。いやむしろ、それは三球三振以上に「すばらしい」こととして国民全体が感動を持って受け入れたに違いない。ある意味、日本国民全員が「空気を読んだ」のである。そう、みんなおかしくなってしまっていたのだ。

もう、このワクワクドキドキのお祭り騒ぎの中、この雰囲気に水を差すようなことなど出来ないし、する者さえいなくなるという状況が作られていた。この時、われわれは新庄のマジックに完全に洗脳されていた。メディアはもちろん、観客も、そして相手チームの頭脳であるキャッチャー谷繁も、さらには監督の落合まで。いや日本国民すべてが。国民全員をペテンにかける暴挙(ただし「ペテンにかけられて、全員が大満足」というそれ)を新庄はたった一人でやって見せたのだ。ここに来て新庄劇場は頂点に達する。

9回表の攻撃は、もはや中日の消化試合と化していた。日本シリーズの雰囲気などなく、「さっさと試合を終えろ!」というムードが球場、中継、そして日本全国に溢れ、もはや中日選手はやることなどなくなっていた。そのことを当の中日選手までが認識している状態。繰り返すが、得点差はまだ三点。逆転の可能性は十分にあるはずなのに。そして九回表は、「お約束通り」三人で攻撃は終了(中日の選手には全く戦意が感じられなかった)。晴れて日本ハムファイターズは日本一となったのだ。


優勝の瞬間、真っ先に胴上げされたのは日ハム監督のトレイ・ヒルマンではなく、新庄その人であった。これら新庄劇場、冷静な眼で見ればどうみても常軌を逸している。この試合は「日本一決定戦」ではなく「新庄引退セレモニー」になっていた。にもかかわらず、この時、これら一連の事態が日本人のわれわれにとっては「あたりまえ」に見えてしまったのだ。これぞ、現実歪曲フィールド。新庄剛志の面目躍如たる瞬間だった。 



もう始まっている現実歪曲フィールド

それから15年が経過した。そしてまた現実歪曲フィールド=新庄劇場が始まろうとしている?


いや、実はもう始まっていることにお気づきだろうか。昨年十二月のプロ野球12球団合同トライアウト、そして九月あたりからのインターネットを介した、新庄によるあやしいほのめかし。本人は監督就任とすら言わなかったが、それを臭わす情報を流し、これにメディアが飛びつく。そして、2006年にはまだ未発達だったSNSのユーザーが勝手に情報をバイラルする。知らないうちにわれわれは「時期、日ハム監督は新庄」ということになっていた。そして昨日(29日)の球団による発表。「待ってました!」「キターッ!」と、ここでもワクワクが爆発する。

もうおわかりだろう、ここ数日、新庄が情報を小出しにし、周囲が騒ぎ立てることで現実が歪曲され始めていることを。監督就任発表当日の各局報道は実に興味深いものだった。ワイドショー(『ひるおび』等)に至っては徹底的に新庄の特集を組んでいた(この時点でまだ球団からの発表はない)。そして2時過ぎの発表。各ニュースは一斉にそのことを伝えたのだが、この時のアナウンサーやコメンテーターの態度が、例によってもはや「おかしく」なっていた。ワクワクしてしまっているのだ。「あの人がやってもどうですかねぇ」的なコメントがほとんどない。メディア全体が浮き足立ってしまっている。そして実に楽しそう。そう、今回、われわれは、もうとっくにワクワクの中に巻き込まれてしまっているのだ。明日(10月31日)の朝の報道場組「サンデーモーニング」のスポーツコーナーに是非、注目してほしい。辛口コメント、「渇!」で有名な張本勲がどんなコメントをするかを。張本もまた、ワクワクしているはずだ。


新庄劇場、とっくに幕が開いている。



未来を構築する方法は?

もうひとつ、スティーブ・ジョブズの言葉を取りあげてみたい(こちらはジョブズ本人による発言)。ジョブズはマーケティングが嫌いだった。「マーケティングは過去の情報を統計的に集めるだけで、新しいものを生み出さないから意味がない」というのがその理由だ。だからジョブズが世に問うたMac、iPod、iPhone、iPadはマーケティングの産物ではない。そして現在、われわれはこれを必携のメディアとして利用している。つまり歪曲フィールドが現実化しているのだ。では、どうやって魅力ある商品を世に問うたのか。それが次の言葉だ。


「未来を予測することなど、簡単なことさ。自分で作ってしまえばよいのだから!」


そして、それを実行した。


もうお解りだろう。新庄もこれと同じであることが。新庄は常識などには囚われない(ただし、ジョブズ同様、緻密な計算は怠らないが)。2006年、自ら一般には思いつかないようなビジョンを描き、これを現実歪曲フィールドに乗せることで世界をワクワクさせる、つまり人を巻き込み、結果として日ハム日本一という、あり得ないことを実現した。そして、今回、また同じことを始めている。この三つ目の能力こそが新庄なのだ。これに比べればパフォーマンス能力、技術・理論能力など、大したものではない(繰り返すが、もちろん現実歪曲フィールドはこの二つがあるから可動するものでもある)。


さあ、新庄劇場、お祭りの始まりだ。



いつまで経っても小室夫妻(圭さん、眞子さん)に対するバッシングが終わらない。お二人の結婚について、一般はおおむね祝福しているのだろうが、ことSNSへの書き込みについては、必ずしもそうなってはいないのだ。これは「SNSのコメントの多くが批判的なものになる」という一般的な傾向に基づいている(ご存じのように、こうした傾向を鑑み、BLOGOSはコメント欄を廃止し、コメントは実名を旨とするfacebook等に委ねた。残念ながら、こちらでもいまだに批判・中傷的なものが多いが)。そして、これをマスメディアがことさらに取りあげることで、事態がややこしくなってくると言う「いつもの図式」(メディア論では、これを「メディア・イベント」呼ぶ)が繰り広げられている。


そこで、このバッシングの構造をメディア論的に考えてみたい。今回は、学術用語ではないが最近バズった「親ガチャ」をキーワードに展開してみたよう。で、前もって結論を言っておけば「お二方は、親ガチャでいろいろと苦しめられた」ということになる。


物語の最小単位

まず、小室圭さん、眞子様の物語を、何ら文脈を挟まない、最も単純なかたちで確認してみよう。


「大学時代に知りあった二人が愛を育み、そして結婚に至った」


これだけだ。まあ、一般的にはこうした状況では周囲は「おめでとう」と祝福する。


しかし、小室夫妻の場合は、そうはならなかった。これに様々な尾ヒレ=文脈が加えられたからだ。そして、この尾ヒレは多方面の「親ガチャ」から生まれたものだ。



「親ガチャ」とは

「親ガチャ」とは、要するに「子は親を選べない」ことを指している。だが、このことばが用いられる際には、常にネガティブな意味合いが加えられる。「現在、自分がのこのような不運な状況にあるのは親ガチャによる」という使われ方がそれで、これは「運の悪い星の下に生まれてしまった」「もっとよい親の下(資産家であるとか、社会的に高いステイタスにあるとか)に生まれていれば、自分はもっと幸せであった」という嘆きでもある。


そして夫妻へのバッシングは「自分自身(SNSのカキコ=誹謗中傷者)が親ガチャであることについての妬み」から生じている。


圭さん:親ガチャ克服者への妬み

先ず圭さん。母親一人に育てられたということでは親ガチャとして自らを嘆く立ち位置にあるはずだ。ところが圭さんはICUに入学し、眞子様と出会う。婚約の宣言直後、母親のスキャンダルが報道されると法律の勉強のためニューヨークへ。さらに現地の法律事務所に就職、ニューヨーク州弁護士会の論文コンテストでも優勝を果たした。母親のスキャンダルを除けば、まあ順風満帆な人生だ。


こうした経歴はステップアップ、いわば「親ガチャを乗り越えた」ことになるのだが、親ガチャルサンチマン派はそのようには捉えない。自分はそのままなのに、圭さんは先に進んでいった。そこで「自分だけ、うまいことやりやがって」と妬みが生じるのだ。努力しない人間がコンプレックスを拭う典型的な方法は、自分より上に行ったものを叩くことだが、そうすることで「オマエも親ガチャだろ、ふざけんな」ということになる。そこで、小室さんを親ガチャ状態に引き戻すために母親の疑惑が次々と批判されることになった。

しかし、民主主義の立場からすればこの誹謗中傷は矛盾している。民主主義は個人主義でもあり、人権尊重は憲法でも明確に謳われている。この視点からすれば母親は母親、子どもは子どもである。親が殺人者であったとしても子どもがバッシングを受ける理由は法律的にも道義的にもどこにもない。ところが「母親の疑惑」という尾ヒレに基づいて、親ガチャルサンチマンたちによる小室さんバッシングが始まるのである。「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」という状況なわけで、挙げ句の果てには皇室利用疑惑という根拠のないデマまで流れる始末。


眞子さん:「逆親ガチャを利用しておいしい汁をすすっているのに、好き勝手なことをやっている」という妬み

眞子様(「様」と「さん」を皇室であるか否かで使い分けています)は皇族としてお生まれになり、御所でお育ちになり、成人後は皇室典範に基づいて精力的に公務をこなされてこられた。皇室なので、当然、一般人とは良きにつけ悪しきにつけ別の扱いを受けてきた。


ところが、圭さんと恋仲になり、皇籍離脱ということに。現状では女系天皇が現実的ではないという皇室の慣習(実際には存在するが)なので、皇室の女性は一般人と結婚し、民間人となるケースはごく普通だ。たとえば令和天皇の妹である紀宮様は2003年、都職員の黒田慶樹さんと結婚し、自らも民間人黒田清子となった(挙式し、記者会見も実施。皇室離脱の際に支給される一時金も受け取っている)。ということは眞子様も紀宮様=清子さんと同じ扱いを受けるのが筋である。


ところが、そうはならなかった。その理由は二つ。

一つは、前述したお相手の圭さんの母親疑惑。この尾ヒレで、やはり「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」の図式が展開された。「小室母=憎い→小室圭=憎い→眞子様=憎い」というわかりやすい三段式親ガチャルサンチマン図式がそれだ。坊さんが運転するバイクまで憎いといった展開か?(笑)

この尾ヒレにもう一つの親ガチャ理由が加わる。これは、いわば「逆親ガチャ」(こんな言葉はないけれど)だ。


「眞子様は皇族。われわれの手の届かないような高尚な地位におられる方。それが、地位を投げ捨てて、勝手なことをやりはじめた。無責任、許せない」


こう言ってしまう心性は、この「地位の投げ捨て」が責任放棄であるという解釈に基づいている。つまり「高尚な地位を私的に流用している」との認識だ。そこで「辞めるんなら、税金返せ!」となる。


しかしよく考えてみて欲しい。眞子さんの一連の行動は、他の皇籍離脱した人間と全く代わるところはないということを。この批判の図式を是とするならば、これまで離脱した人は清子さんを含めて全員が税金を返納しなければならない。もちろん一時金などを受け取ることももってのほかということになる。挙式も無しである。


親ガチャ(逆親ガチャ)を乗り越える

冷静に状況を考慮すれば、一般からは眞子様が「逆親ガチャ」(ものすごくよい星の下に生まれた)に見えたとしても、眞子様当人にとってはむしろ「親ガチャ」(不幸な星の下に生まれた)だったはずだ。つまり皇籍に属しているということが、却って自らの行動範囲を極端に制限することになった。眞子様が名前の由来「自然に飾ることなくありのままに人生を歩む」で生きていこうとするならば、この皇室という親ガチャ(逆親ガチャ)は克服すべきものだったはずだ。(ここからはちょっと憶測になるが)だから眞子様は学習院ではなくICU、そして圭さんを選択した。だから、今回もこうした記者会見をすることで、また一時金も拒否することで決着を図ろうとしたのではないか?(あくまで「憶測」ですが)。


三十年間皇室で皇室典範に基づき、自由を拘束される中で公務をこなされてきたわけで(だから、いわば「退職金」として一時金を受け取る正当な理由もある)、ありのままに人生を歩もうとするのならば、彼女の選択は間違っていない。そして眞子様から小室眞子さんになることによって、彼女は皇室典範ではなく日本国憲法によって守られることになる。晴れて民主主義の一構成員となったのだ(名字も、パスポートも、年金手帳も持てるようになった)。眞子さんは親ガチャ(逆親ガチャ)だから、芸能人のように自ら好んで有名人になっているのではない。言い換えれば「おいしい汁」をすすろうとしていたのではない。ここは一般の芸能人とは大きく異なる。そのことについて、十分な配慮が必要だろう。だから、マスメディアは今後、眞子さんに関わってはいけない。黒田清子さんに対する対応の仕方とまったく同じであるべきであるのは、一般市民への配慮として当然の義務だろう。ここは民主主義国家、そして眞子さん(そして圭さんも)一日本国民に過ぎないのだから。


もう一つの物語:本来ならばハッピーエンドのストーリー

ちなみに、今回の一連の出来事は文脈を変えれば全く別の解釈も可能になる。王室の中で自由がなく、そこから逃れたいと思っていたときに素敵な恋人が出現し、全てをかなぐり捨てて相手と添い遂げると言った話はハリウッド映画の中の定番としていくらでもあるわけで(「ローマの休日」(かなぐり捨てたわけではないが)「グレース・オブ・モナコ」(これは逆だけど)なんかはその典型だ)。欧米では、今回の件はむしろこちらの文脈で好意的に捉えられることも多いらしい。


小室夫妻のように、誹謗中傷者は、先ず自らの親ガチャを克服せよ

いずれにしても、小室夫妻の件は個人の問題ではなく親ガチャ(小室夫妻と誹謗中傷者双方にあった)のせいだったのだ。そして夫妻は親ガチャを克服した。これで、もういいはずだ(もっともニューヨークまでマスメディアが追いかけてきそうだが……)。


お二人にはなむけの言葉を贈りたい。


民主主義国家の一員として、ご結婚を祝福申し上げます。そして、親ガチャルサンチマン連中から逃れられるニューヨークでの穏やかな生活をお祈りしています。


一方、二人を批判する人々には「逆はなむけ」の言葉を贈ろう。


「ご夫妻のように、早く親ガチャルサンチマンを克服できるよう、精進してください。みっともないですよ。」




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