勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2021年08月

順調に店舗を拡大する中華食堂・日高屋

最近、首都圏でチェーン店の街中華食堂・日高屋をあちこちで見かける。2002年六本木で1号店を開店以来、日高屋は順調に店舗数を拡大してきた。特徴は様々な世代の客層が時刻とともに入れ替わりでやってくるところにある。昼間はお年寄り、夕方はサラリーマン、その後は仲間や家族が。一人でやってくる女性も多い。しかし、なぜ様々な世代の客が訪れるのだろうか。

 

 

「近さ」が作る集客力、そして「短さ」と「安さ」

日高屋の戦略、それは徹底的に「近さ」を追求しているところにある。事実、日高屋は駅近に位置している。店舗数は現在、大都市圏限定(東京とその周辺)で400店舗を突破。それゆえ、必然的に「駅から近い」。だが、それは「家から近い」ということでもある。だから、お昼にはお年寄りがコミュニケーションの場所として、また夕方には一人者のサラリーマンが帰宅途中の夕食会場として、さらに夜には夫婦や仲間がチョイ呑み+食事処として身近に利用するようになる。日高屋は「あなたの街の駅前の、歩いて行ける街中華兼なーんちゃって居酒屋」なのだ。

 

「近さ」は心理的な面にも及んでいる。チェーン店ゆえインテリア、味、メニュー、価格は全て統一。味も同じなので、初めての店でも安心して入れる。価格も安い。ビールや酎ハイに至っては260円と爆安だ。帰りには必ず大盛サービス券が配られるのも店への親近感を感じさせる大きな要因だ。この場合、近さは「身近さ」つまり「心理的近さ=親密さ」ということになる。

こうした近さ、実は「短さ」を加速するのにも一役買っている。メニューを手に取ってみて欲しい。実は、あまり品数がない。定食に至ってはたったの七種類だ。さらによく見ると、メニューは食材を組み合わせた物が多い。酒の肴もメンマやチャーシューだったりする。これら食材はすべて工場で生産、加工され、各店舗へ配送されている。それゆえ、店のシェフは半完成品をちょっと調理する、あるいは組み合わせるだけ。これが技術も必要とせず、手早く、つまり短い時間で均一化されたサービスを提供できる仕組みを可能にしている。工場は埼玉県行田に一つのみ。店舗が首都圏の「近距離圏」にしかないゆえ、どこの店舗も工場から迅速に調達できる。これもまた「近さ=距離、つまり時間の短さ」の強みだ。

 

また、店のテーブルは小さい。カウンター席もある。狭いテーブルは「長居はできない」という生理的な要求を人間に突きつける。だから、顧客の滞在時間も短い。それは結果として顧客の回転の速さに繋がっている。駅前なので安価な労働力(学生バイトや留学生)を雇うのも容易だ。彼らは近所のアパートに住んでいるからだ。ここでは近さが調理、客対応、労働者調達の短さに繋がっている。こうしたからくりによって様々な過程を合理化することで、価格の安さと安定した供給、そして安心に反映されていることは言うまでもないだろう。

 

 

日高屋の前途は洋々か?

コロナ禍で外食産業は経営難にあえいでいる。その典型はメディアでしばしライバル視される幸楽苑だ。立地は郊外、しかも全国展開。駐車場も必要なので比較的広い敷地が必要となる。これらがコロナ禍においては極端なマイナスに作用しているのだ。日高屋は関東圏のみ、そして駅前=駅近なので駐車場も必要なく、さほど敷地も必要としない。それゆれ、ある程度難を逃れているのである。

 

現在、赤字転落の日高屋だが、このやり方を続けていけば、生き残ることは間違いない。そしてコロナ後にはさらに発展していくだろう。もちろん、関東圏からエリアをジワジワと広げる「駅近戦略」で。「あなたの駅の日高屋」、この戦略は強い。

恐れていたことが起こった。

 

オリンピック開会式。あまりに酷いその演出に「これでは閉会式はいったい、どうなるんだろう」と戦々恐々としていたのだが、残念ながらこの懸念は的中してしまった。しかも、開会式を凌ぐ悲惨な展開に。

 

「田舎の披露宴」状態

閉会式を見ていて二つのことが思い浮かんだ。

一つは田舎の比較的大きな披露宴。宴の上座では新郎新婦の脇で次から次へと演し物が繰り広げられる。定型のスピーチや演舞であったり、歌の披露であったり。ところがこれを列席者のほとんどは気にかけていない。各テーブルはそれぞれが好き勝手に盛り上がっている。つまり統一感がないバラバラな状態。

 

閉会式はまさにこの状態だった。会場に参列したアスリート達のほとんどは、やはり繰り広げられているパフォーマンスに関心がない。中には寝っ転がっていたり、他の選手と撮影したりする者も。もし、前述の披露宴の様子をテレビ中継で見させられたら、先ずわれわれは見ないだろう。これがテレビ視聴者のメンタルと重ねってくる。実際、僕も途中で眠くなってしまった。

 

演出は「やおい」と同じ

もう一つは「やおい」という言葉だ。これはアニメや漫画のキャラクターを拝借し二次創作する作品や、二次創作を実践する人々を指す。言葉の語源は「ヤマなし、オチなし、イミなし」。とりあげられるのはボーイズラブで、ひたすら有名どころのキャラクターの濡れ場が続く。それだけなのでヤマがなく、オチもなく、意味もない。

 

閉会式はまさにこの「やおい」の状態だった(やおい系を擁護するためにお断りしておくが、やおい系の人間の場合、これが確信犯的に実践されているという点で一つの美学を構成している。一方、閉会式の場合は文字通りの「やおい」だった。結果としてそうなっただけ。ベタに何の意味もなかったのだ)。何をやっているのかサッパリわからないのだ。あるいは、あったとしても、こちらには届いていない。そこで「やおい」をキーワードに閉会式のダメさ加減をメディア論的に考えてみたい。

 

イベントには「テーマ」と「ストーリー」が必要

こうした歴史的イベントを考案する場合、当たり前の話だが、いくつかのルールが存在する。

テーマとストーリーという構成、これに伝統の尊重と継承、未来へ提言といったところを付随させる。オリンピックの場合、さらに国家を横断した連帯や調和といった理念が加味される。ところが今回の閉会式の場合、これらの基本的要素が曖昧、あるいは上手くかみ合っていない、さらに言えばバラバラかつ箇条書き的に並べられているだけなのだ。

 

先ずテーマ。これはいったいなんだったんだろう?垣間見えるのはノスタルジーだ。57年前に開催された東京オリンピックがそれで、だから選手入場では64年開会式のオリンピックマーチ(作:古関裕而)が、また掲示板には、同様に64年に前国立競技場の閉会式の際、映し出されたのと同じフォント、ドットで「ARIGATO」が出現した。ただし、これだけでは中途半端。そもそも、この二つでさえも、アナウンサーが指摘しなければわからないトリビアルな記号でしかない。そして、それ以外のパフォーマンスについてはノスタルジーとはあまり関連がない。つまり、テーマが統一されていない。ガラクタ箱みたいになっているのだ。当然、パフォーマーも役所が孤立しているゆえ、ガラクタの一つに見える。

 

次にストーリー。前半は街を歩く女性やパフォーマー、後半では大竹しのぶと子どもたちが登場。でも、これって全体とどう関係があるんだろうか?開会式のなだき武や真矢みき同様、大竹しのぶが出演することに何の意味があるのか?これまたお断りしておくがこうしたパフォーマーやタレントが登場すること自体が問題なのではない。全体のテーマ、ストーリーの中でどう位置づけられているのかが問題なのだ。だから問題は出演者ではなく演出する側にある。

 

そして、ストーリーには当たり前の話だが了解可能となる一連の流れ=スキーマと、ヤマとなるシーンが必要だ。さらに、これらはオリンピックというイデオロギーとリンクしていなければならない。それは開催都市・国家の伝統、そしてオリンピックの伝統への尊重と、未来に向けたこの伝統の継承と発展。それが結果として世界を一つに結びつける連帯・調和へと繋がっていくというふうに。加えて、このストーリーは開催国の国民のみならず、世界の人々へ向けても発信されていなければならない。この手の演出が、今回の閉会式(開会式もそうだが)ではほとんど功を奏していないのだ(というか、はじめからなかったのかも?)。

 

ロサンゼルスオリンピックとロンドンオリンピック閉会式の統一感

これは他の大会の閉会式と比較してみればよくわかる。1984年のロサンゼルスオリンピックでは開会式にロケットマン(グラウンドに空中歩行器で空から人間が降りてきた)が、閉会式には上空にUFOが、ゲートの上にはエイリアンが登場した(エイリアンの登場は「楽しそうだから寄ってみた」という想定)。これはアメリカのテクノロジー、エンターテインメントという文化がオリンピックの精神=インターナショナルと見事に調和した瞬間だった。2012年のロンドンオリンピックも同様で、ヤマ=クライマックスにポールマッカートニーがビートルズソングを熱唱。最後はヘイジュードで会場、スタジアム内、そして視聴者が一体となって唱和し、ビートルズというイギリスの伝統、世界とその未来を結びつけたのだった。そしてこの時、アスリート達は一体となっていた。間違ってもグラウンドで寝っ転がったり、スマホをいじったりしている者などいなかったのだ。

 

今回のオリンピックを修正するとすれば

もし、これらの要素を過不足なく詰め込んで、しかも統一性を持たせようとするならば、たとえば次のような展開になるだろう。まず伝統の継承。これまでのオリンピック、とりわけ1964年の東京オリンピックを回顧する(これは内に向けてはノスタルジーでもある)、これを踏まえて今回のオリンピックを再定義する、未来に向けて(そしてより世界が団結、調和するという文脈で)オリンピックの未来、さらには地球の未来を展望する(ここにコロナとの対決図式を入れてもいい)。こんなストーリー展開=スキーマが必要だ。今回の閉会式にこれがないとは言わない。たとえば終盤、大竹しのぶと子どもの登場のところで流されたのは宮澤賢治の「星めぐりの歌」、そしてドビッシーの「月の光」(1972年に冨田勲がシンセサイザーでレコーディングしたもの)だ。地球をはるかにに超えた星に思いを馳せるところに未来、そして大きな宇宙を感じさせようとしたのだろう。ただし、前後関係がよくわからないので何のことやらサッパリわからない。

 

ようするに、前述したように問題は登場人物(タレントやパフォーマー)やそれぞれの演し物それ自体ではなく、これをどう繋いでオリンピック的な世界観とすりあわせ、さらにそこに新しい何かを付け加えるかなのだが、これが残念ながら全くなかった。だからやおい、そしてガラクタ箱になった。

 

唯一、閉会式で素晴らしかった演し物は?

いや、閉会式の中で出色のものがひとつだけあった。それは皮肉なことに次回開催都市パリの紹介映像だ。フランス国歌、ラ・マルセイエーズがパリの街の紹介とともに流れるのだが、この映像がパリのランドマークであるエッフェル塔を中心に展開される。演奏者は各パートがパリ市内の有名どころで演奏を繰り広げる(モンマルトルの丘、ルーブル内等)。そして最後には戦闘機が国旗の色であるトリコロールカラーをエッフェル塔の前で描いて見事な統一感を持たせることに成功している。いや、これで終わりかと思ったら、最後は宇宙ステーションからのサキソフォン独奏というオチまでついて。国歌というストーリーと名所の展開、エッフェル塔という主人公の存在、ジェット機のトリコロールというヤマ、宇宙ステーションでのサックス独奏というオチ。これは、リオの閉会式で日本がやったパフォーマンスに匹敵するのでは?

 

いや、そうだろうか?パリは開催国の紹介を至極まっとうにやったに過ぎないのでは?むしろ日本の閉会式があまりに酷かったから、素晴らしく見えただけなのかもしれない。

 

誰に向けてパフォーマンスすべきかが見えていない

こうした演出の混乱の主たる原因。それは「誰に向けてメッセージを発信しているかが明確でない」というところにあると僕は考えている。オリンピックの精神に準ずれば、発信先は二つ。一つは世界の人々、もう一つは開催国の人々だ。残念なことに、閉会式はどちらの方向にも十分な発信がなされていない。ストーリーがない、そしてもっぱら身内ネタ的な演出が展開されているので、なにがなんだかわからないのだ。その際たるものが東京音頭で、海外の人々にとっては全くもって意味不明だ(これはロスオリンピックでのライオネル・リッチーによるオールナイトロング、そして前述のポール・マッカートニーによるビートルズ・メドレーと対照をなす)。

ストーリーのなさは、結局日本国民に向けても「これ何なの?」という印象を与えるだけで終わっており、メッセージは伝わっていない(たとえば長野オリンピックの開会式の浅利慶太による演出は完全に日本人に向けられていたもので、これ自体は成功していた。ただし、世界に向けての発信力が極めて弱く(日本人だけがわかる「身内ネタ」)、これまた惨めなというか、見ていて日本人が恥ずかしくなるような演出でもあったのだけれど)。言い換えればこの閉会式は外にも内にもメッセージを発信することが出来ていない。強いて伝えられたメッセージをあげておけば「日本が、JOCがコロナに振り回されて、混乱したことを象徴する」というメタメッセージになる。まあ、これだけは確実に伝わったのだけれど(笑)

 

マツケンサンバ待望論

ネット上で開会式、閉会式の演出について、どこともなく不思議なアイデアが提示された。それは「閉会式(あるいは開会式)のトリ=ヤマをマツケンサンバにすべき」というもので、これが瞬く間にネット上にバイラルされたのだけれど、このポピュリズム的なマツケンサンバ待望論は、オリンピックの精神やスタイルをキチッと踏襲したアイデアとしてなかなか説得力がある。これは実際に披露された東京音頭と比較してみても明かだ。

 

そもそもマツケンサンバは80年代後半に放送されていた紳士服のコナカのCMのなかで松平健が披露したあやしいダンスステップやトランペット演奏(実際にはしていない)あたりがヒントになっているという。時代劇の役者がスーツに身を纏い、白人女性をバックにあやしげなステップを踏んだり、ゴージャスな階段から降りてきたりするのだけれど、これがどうにも不気味というか、キモい楽しさで(これ自体は、ある意味完全に「やおい」なのだが、こちらを振り向かさないではいられない魅力を放っていた)、これがそのまま90年代のマツケンサンバへと引き継がれていく。ブレイクするのは2004年のマツケンサンバで、サンバ、キンキラキンの和服(殿様?越後屋?全く不明)、チョンマゲヅラの両脇から出ているキラキラの触角(「しけ」というらしいが昆虫の触角に思える)、これを暴れん坊将軍でまっとうなキャラクターを演じる松平健がマツケンとなってパフォーマンスを繰り広げる。完全なミスマッチも徹底させることで、かえって「キモ気持ちいい」様な状態になって、われわれを魅了した。そして、これは東京音頭のような伝統ではないけれど、日本人国民が馴染んでいる、そして未だにポップで、踊れて、若者でも盛り上がれる曲、言い換えれば「ネオ伝統」になっている。だから、これをトリ=ヤマでやれば視聴者の間で、つまり内=国民に向けて盛り上がることは間違いない。

 

いや、それだけでは終わらないだろう。この妖しさ(怪しさ?)はインターナショナルなものでもあるように僕には思える。というのも、このパフォーマンスとマツケンの身なりはオリエンタリズム、そして現在のテクノ・アニメ大国の日本というステレオタイプとも十分合致するからだ。しかも、これがなぜかブラジルのサンバというかたちで。このパフォーマンスが繰り広げられたら、見た世界の人々が「なんじゃこりゃ?」と注目する可能性は極めて高いのでは。言い換えれば、ここには未来がある。

 

ヤマとオチと意味を考えよう!

結局、これはオリンピックのみならず、コロナをめぐる日本の混乱状況を象徴する出来事の一つといっても過言ではないのかもしれない。情報の横溢の中で目的を失い、場当たり的に情報を収集し、それを結果として脈絡なく並べる。それが、こうしたカオスな状況を生み出していく……開会式、閉会式、そしてコロナに対する立ち位置にかかわらず、情報過多な時代の中で僕らに今求められているのは「ヤマは何?オチは何?意味は何?」といったところになるんではなかろうか。開会式、閉会式の混乱。それは、翻って実はあなた自身の混乱、問題、課題であるのかもしれない。

 

 

 

 

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