勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2019年12月

「恒例化」されつつある、芸能人の警察署玄関謝罪

周知のように12月3日、麻薬取締法で逮捕されていた女優の沢尻エリカが保釈された。その際、沢尻が、近年では恒例化されつつさえある警察署玄関での謝罪を「拒否」したとの報道が一部であった(例によって「芸能関係者」という得体の知れない情報源だが)。さて今回は、この「恒例化」しつつある署玄関での有名人、突き詰めてしまえば芸能人の謝罪の意味について考えてみたい。そもそも、これに何か意味があるのだろうか。



「皆様」って、誰?

あたりまえの話だが、「謝罪」という行為は人間が犯した行為によって相手に迷惑や心配、危害などを与えた場合、そうした相手に対して償いの意図をもって行うものだ。この1年でも、麻薬に関連してピエール瀧やKAT-TUN(ジャニーズ事務所)の元メンバー田口淳之介が保釈時に署の玄関で行っている。一般的な謝罪のことばは「皆様には多大なるご迷惑とご心配をおかけいたしましたことを深くお詫びいたします。」なのだけれど、これって、なんかヘンという感じがしないだろうか。というのも、この時の謝罪の中に対象とされている「皆様」って、いったい誰を指しているのかサッパリわからないからだ。



芸能人関係者?

謝罪の対象として、たとえば沢尻の場合なら考えられるのは身内、事務所、沢尻が出演しているCMのスポンサーやドラマの制作会社だ。身内は手塩にかけて育ててきたのにこのていたらくということで落ち込んでいるだろうし、事務所のスタッフも仕事に大穴開けられてしまって迷惑この上ないと感じているはずだ。CMは即座に打ちきりゆえ、沢尻を起用していたサントリー、Indeed、P&G、マンダムなどはCMを差し替えざるを得ない。悲惨なのは沢尻を大役に抜擢していたNHK大河ドラマ『麒麟がくる』で、すでに撮影がある程度まで進んでいたため、これに急遽代役を立てて取り直した結果、放送スタートは二週間遅れになることを余儀なくされてしまった。企業絡みは当然、賠償責任問題になるだろうが、被害は甚大だ。だから、沢尻はこの手の「自分が沢尻を起用した側」、言い換えれば「沢尻を送り出していた側」には謝罪する必要がある。


しかし、それは署の玄関でする必要はないし、することではない。事務所を通して各機関に謝罪の手続きをとればよいだけの話だ。書面にて謝罪し、さらにほとぼりがさめた頃に本人が密かに謝罪の行脚に出かけるというスタイルでおこなわれるのが一般的だろう。だから署の前でタレントが「皆様」と声がけをした場合、こうした「自分が沢尻を起用した側」「送り出していた側」はその中には含まれない。



視聴者?

となると、この「皆様」が指し示す対象は「沢尻を送られた側」=視聴者ということになる。


では、視聴者は、沢尻から何か迷惑を被ったのだろうか?あえて、被った人がいたとすれば、それは熱狂的な沢尻信者で、そのイメージを根底から覆されて心が傷ついたという人くらいだろう。でも、これにしたところで恋人が相手に振られて深く傷ついたことと同じ。振った側はふられた側に謝罪なんかしない。一般の視聴者は、ただのヒマつぶし用芸能ネタの一つとして「へ~、あの人がねぇ~、意外な感じだよね!?」ぐらいのことでしかこの出来事をとらえていない。だから、実質的には迷惑を被った人など存在しないことになる。それは、ようするに署玄関での謝罪のことばにある「皆様」が、実は誰も指し示していないことを意味している。空に向かって独白しているようなもので、意味など全くない。だから、実は誰にも謝罪していないのだ。


存在しない「皆様」に、謝罪することの御利益は「プロモーション」

しかし、芸能人は署玄関で謝罪するようになった。なぜか?それは、「存在しない「皆様」に向かって謝罪すること」に御利益があるという環境がマスメディアによって次第に構築されていったからだ。


その御利益とは「芸能界サバイバル」ということになるだろう。そこそこ知名度がある芸能人が逮捕される。数日間身柄を拘束された後、保釈となるが、このとき署玄関は格好の「芸能界復帰アピール場所」になるのだ。ピエール瀧にしても田口淳之介にしても、こういってはなんだが沢尻エリカに比べれば小物である。ということは、ここで保釈されても、相当期間干されてしまうことは確定的で、しかもほとぼりが冷めた頃に復帰しようとしても、その頃には忘れ去られている可能性もある。かつてのような勢いに戻る望みも期待薄だ。田口にしてみればジャニーズからのバックアップが外されて立場が危うくなりつつある時点での逮捕。ジャニーズメンバーに抱かれているクリーンなイメージも剥奪されて、完全に”泣きっ面に蜂”の状態だった。しかし、「逮捕」というイベントはスキャンダルゆえ、絶頂期と同様、いやそれ以上に注目を浴びることができる。ならば、保釈時に署玄関で自らが深く反省しているパフォーマンスをしておけば、芸能界復帰への大きなアピールになる。たとえネガティブな「ネタ」であったとしても、それを利用して誠意を示せば、多少なりともイメージを回復する可能性は確保できるのでは……。実際、メディアはこれを視聴率稼ぎの格好の手段と捉えて、署玄関での謝罪を「恒例」に仕立てたのだし。と考えれば、この手を利用しない手はないし、事務所もそれを勧めるわけだ。そう考えると、例えば田口が20秒にわたる土下座を行ったのも頷ける。費用対効果がそれなりに期待できるのだ。だから、勝負に出る。


警察署玄関での謝罪を必要としないのはインフラ・リッチの芸能人

だが、その芸能人が大物で、最終的に元のポジションに戻るほどの充分なインフラを備えている場合は、警察署玄関での謝罪は必要がないということになる。


今回の沢尻の件について歌手・小柳ルミ子は「カメラが怖いのだろう。だが保釈されたときこそチャンスだったと思う」的なコメントを述べている。彼女もまた、沢尻が多くの人(とりわけ大河ドラマのスタッフ・キャストに焦点を当てている)に迷惑をかけたというロジックだが、前述したように、これは完全に的が外れている(ちなみに、本件になぜ小柳がコメントする立場にあるのかも無根拠だ。彼女もまた、現在のコメンテーター的な立場を利用してメディアに露出する、芸能界サバイバル戦略を展開中であると考えれば納得がいくが(笑))


言い換えれば、何も対象を指し示していない「皆様」に対して、大物女優(知名度、そしてインフラ的に。まあ”親方エイベックス”なので)である沢尻エリカが「警察署玄関で謝罪する」、つまり「芸能界サバイバル装置を作動させる」必要などない。むしろ彼女のインフラストラクチャーに身を委ねた方が、はるかに安全な芸能界復帰方法なのだから。


※本ブログは「警察署玄関謝罪の機能」について記号論的に展開しているのであって、沢尻エリカという芸能人を擁護しているわけではないことを含み置きいただきたい。強いて、個人的な沢尻観を述べておけば「エネルギー過剰な芸能人」くらいかな。

ブラタモリは事実関係が間違っている?

『ブラタモリ』が高視聴率を得て長期化するにあたり、タモリがぶらつくエリアは東京近辺から全国、果てはイタリアにまで広がっている。ただし、広がれば広がるほど綻びが見えてくることも確かだ。先日(12/7)の花巻特集も大分ガタガタしていた印象は拭えない。

番組は宮澤賢治の足跡を辿ることに軸に置いていた。賢治が生徒たちにオルガンを弾いて聴かせたこと、花壇を作って販売を試みたことなどが語られていた。賢治はそれ以外にも生徒たちに楽器を演奏させたり、レコードを聴かせたりしているが、なぜそんなことが可能だったのかについては番組では一切触れなかった。

実は賢治は高利貸しの息子なのである。というか、宮澤家一族は花巻一の大地主(現在もそうらしい)で、要するにお金持ちのボンボンだったから、オルガンやチェロ、レコードを買ったり、花の種を取り寄せたりすることが出来たわけだ。ただし、これはタモリも指摘していたように、こんな人間はこの時代、とりわけ農村部の保守的な人々にとっては受け入れがたい存在で、まあ変人扱いされていた。これらの活動主体であった、私邸を改造した私塾「羅須人協会」の活動もたったの七ヶ月だ。番組ではこうした背後の事情は一切語られることはなかった。多分、視聴者の多くがハッとさせられたのは、『銀河鉄道の夜』の列車が蒸気機関車ではなく電車(当時、花巻駅から花巻温泉、および西鉛温泉に延びる花巻電鉄。細いので「馬面電車」と呼ばれていた。)であったことくらいではないか?銀河鉄道999は蒸気機関車だったし。ちなみに花巻は妻の実家で30年以上、年2回ほど通い続けている。

というわけで、まあイイカゲンと言えばイイカゲンなのだが、実はこれにツッコミを入れることは正直、意味がない。この番組を丁寧に見ている視聴者の中から、しばしば、この「イイカゲン」という指摘を耳にするのだけれど、はっきりいって、それは「あなた何か間違ってませんか?大人気なさ過ぎると思うんですけど」と、僕はツッコミを入れたくなる。

先ず、『ブラタモリ』はどのカテゴリーに属する番組なのかということを考えてみて欲しい。これは「バラエティ番組」なのだ。言い換えればタイトル通りタモリがブラブラ歩いて勝手なことを喋り続けるというエンターテインメント。だから、事実関係についての厳密性は二の次で良いのである。以前『進め!電波少年』のコーナー「猿岩石ユーラシア大陸横断ヒッチハイクの旅」で、沢木耕太郎の『深夜特急』を踏襲するかたちでヒッチハイクだけ(『深夜特急』はバスだけ)で香港からロンドンまで行く企画があったが、実はバンコクからコルカタまでは空路で移動していたことが露呈し問題になったことがあった。だが、この時プロデューサーの土屋敏夫は「この番組はバラエティですから」といって一蹴し、さらに空路で猿岩石が渡ったビデオを特番で放送している。

つまり、これを「史実や事実に基づいた番組」と考えている方が間違っているわけだ。逆に言えばブラタモリの面白さは、そうした事実確認や発見ではなく、タモリがブラブラ歩いてあらぬ事を言い続けるところにある。ま、そんなことは一般人ならわかっていることだとは思うけれど。



『いだてん』は時代考証が間違っている?

これが、もっと酷くなると『いだてん』への批判になる。二つの東京オリンピック(一つは未開催)を巡った群像が展開されているだけれど、番組では嘉納治五郎(役所広司)は、ただのオリンピックオタクだし、金栗四三(中村勘九郎)が聖火ランナーになるためにオーディションに参加したなんて事実も、もちろんない。いや狂言回しとして登場する古今亭五りん(神木隆之介)にいたっては完全に架空の人物だ。ところがこうした「事実の歪曲」を気に入らないと言い出す輩か存在する。

これも同じように「大人気なさ過ぎると思うんですけど?」とツッコミを入れたくなる。

『いだてん』は歴史を参考にしたファンタジーである。ファンタジーは事実はどうであれ、勝手にフィクションに仕立て、面白ければそれでよいという「ファンタジーの文法」があるわけで、目くじらを立てる方がやはり大人げないと言えないだろうか。

たとえば、ファンタジーの典型に『スターウォーズ』がある。あれは、根拠も何もない壮大なほら話であって、われわれはそれを楽しんでいる。科学的考証もメチャクチャ。なんせ宇宙のどこに行っても引力があるんだから。増して言わんやディズニーアニメなら動物と人がベラベラ喋るんだよ(笑)。『水戸黄門』も同様だ。水戸から出たこともない光圀公が全国行脚をする。これは真っ赤な嘘、しかも、歴史に忠実にシーンを描こうとすれば御老公、助さん、格さんは(二人は架空の人物)当時の日本人の一般的な歩行スタイルであるナンバ(右手右足、左手左足が同時に前に出る)でなければならない。ところが彼らは明治以降に培われた近代的歩行術を身につけている。

まあ、これらはわれわれが「完全な嘘話」と認識しているから、何の不満も起こらないのだけれど、では時代劇、取り分け大河ドラマのそれはどうだろう?何のことはない、これもメチャクチャでしょ。当然、『いだてん』もまたこれら過去の大河ドラマの立ち位置で視聴者はファンタジーとして捉える必要があるのだけれど、なまじ、これが近現代史なので話が生々しく、そこで事実関係との齟齬にツッコミを入れたくなる輩が登場するのだ。


バラエティはバラエティ、ファンタジーはファンダジー。科学や事実に基づくのではなくエンターテインメントとして楽しむおおらかさが必要じゃないんですか?この手の間抜けなツッコミがレビューには多すぎるような気がするので、ちょっとツッコミを入れてみました。


いやー、『ブラタモリ』も『いだてん』も傑作。本当に面白い!

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