勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2019年09月

ダブルキャストで東京オリンピック史を綴る大河ドラマ「いだてん~オリムピック噺」が一桁台という低視聴率にあえいでいる。直近の35話で6.9%。第32話では5.0%という、大河ドラマ史上最低の数値を叩きだした。今回は、この理由について考えてみたい。


ドラマ自体は典型的な宮藤官九郎パターンだ。これを13年に放送され、大ヒットした朝ドラ「あまちゃん」との比較から考えてみよう。



宮藤官九郎の作品構造


「あまちゃん」の特徴は、①多くのキャラクターが登場する。それぞれのキャラクターは多少なりとも主人公と関連付けられはするが、むしろ独立したかたちで描かれるほうに比重が置かれている。「あまちゃん」では母の天野春子(小泉今日子)、足立ユイ(橋本愛)、鈴鹿ひろ美(薬師丸ひろ子)、荒巻太一(古田新太)などのキャラクターの物語が独立したかたちで描かれた。しかもこうした脇役たちの関係を綴ったエピソードも頻繁に登場する。②ほぼ登場人物が等身大のキャラクター。いわゆるビルディングス・ロマン、つまり主人公が一介の人物から功成り名遂げるというお約束のパターンを採用しない。「あまちゃん」では’のん’(当時、能年玲奈)演じる天野アキは、最後まで成長することはない。むしろ成長しそうになると元に戻すという展開が繰り返される。③クローニクル(年代記)のスタイルを採る。リアルタイムの進行は2008年から11年までだが、春子、鈴鹿、荒巻を巡るもう一つの歴史が80年代のアイドルシーンをベースに繰り広げられる。この二つの時代が平行して、しかも大量の史実と共に描かれ、そして最終的に結びつけられる。


「いだてん」も同様の構成だ。①のキャラクターについては金栗四三(中村勘九郎)と田畑政治(阿部サダヲ)のダブル・メインキャストで、さらにここに嘉納治五郎(役所広司)、増野シマ(杉咲花)とその家族、古今亭志ん生(ビートたけし・森山未來)と弟子の物語が並行して展開される。②については、やはりキャラクターは等身大の描かれ方で、偉人のそれではない。二人の主人公にはエネルギーこそあるものの、そこに威厳を感じさせるものはない。これについては柔道の創始者である嘉納治五郎までが「偉い人」ではなく、いわば「オリンピック・オタク」として描かれている。③については前半が金栗四三によってオリンピックと日本の関わりの起源を、後半では田畑政治によってオリンピックの日本誘致の歴史がそれぞれ濃密に語られる。ただし、わかりづらい。また、二つの関連付けも、現状では曖昧だ。


要するに「いだてん」も典型的なクドカン・パターンなのだが、「あまちゃん」のような大ヒットにならないどころか、大河ドラマ至上最低の視聴率に陥っている。この原因は1.大河ドラマというカテゴリーからすれば逸脱しすぎており、常連の保守的な視聴者には理解不能で嫌われたこと、2.クローニクルに視聴者がリアリティを抱けないこと、の二つに求められるのではないだろうか。



大河ドラマのスタイルにそぐわない

それぞれについて、クドカン・ドラマの要素との関連で考察してみよう。

先ず「大河ドラマスタイルからの逸脱」について。既存の大河ドラマでも多くのキャラクターが登場するが、これらの人物は原則、主人公と紐付けられており、独立したドラマとして組み込まれることはほとんどない。言い換えれば、それぞれの脇役の横関係については展開されず、もっぱら主役との関係で脇役が紐付けられていく。こうすることで、ストーリーは単純なトップダウン、ヒエラルキーの構造を備える。そしてこの伝統的な構造に常連の視聴者たちは馴染んでいる。


ところが「いだてん」はこうしたトップダウンの構造にはなっていない。複数のストーリーが展開され、それによってドラマの世界が編み上げられる。方法論としては逆のボトムアップ、つまり先ず様々な情報、エピソードをばらまいて、それを次第に統合していく。言い換えると、少々謎解き=ミステリー的な形式になる。これは「お約束」「いつもの図式」を前提にしている大河ドラマ視聴者からすれば、極めてわかりづらい。「なんだ、この下手くそなシナリオは」ってなことになる。だが実際にはシナリオはよく練られているので、理解できないのはクドカン・ドラマのリテラシーがないからということになる。



偉くない偉人、大成しない主人公

②の「等身大の描かれ方」も同様だ。ドラマの中に偉人は出てこない。主人公の金栗と田畑は歴史を掘り返さなければ知ることが難しい人物だ。そして嘉納治五郎や高橋是清などの偉人も「偉い人」ではなく、いわば「エラい人」という演出が施されている。肩書き的には偉い人物なのだが、その振る舞いは偉人のそれではない。もっぱら好奇心の塊のような人間たちに書き換えられている。大河ドラマの視聴者からすれば、子どもっぽくて、いつまでも大成しない、偉人にならないキャラクターは不謹慎な描き方に見えてしまうだろう。むしろ、理解できない存在になってしまう。これは前作の「西郷どん」を参照してみればよくわかるだろう。あれはベタでわかりやすいキャラクター。「理想に向かってブレずに大成していく人生」というパターンだからだ。


しかし、これらだけならば「いだてん」だけでなく「あまちゃん」も支持を得られなかったはずだ。しかし、こちらは当たった。主人公を演じた’のん’に至っては歴代朝ドラ・ヒロインランキングでぶっちぎりのナンバーワンだ。しかも、この作品は「朝ドラに革命を起こした」と言われている(https://news.livedoor.com/article/detail/16549598/)。



視聴者が時代や物語を共有できない年代記

では、二つの致命的な違いはどこに求められるのか。それは③の要素、クローニクルの描かれ方だ。前述したように「あまちゃん」では2008年から2011年の東北大震災直後まで、そしてこれと平行して80年代後半のアイドルシーンが描かれた。これらの歴史は視聴者自身が体験したものであり、文脈をつけやすい。前者は当時からすれば直近のことであり、全ての世代が容易に理解可能だ。だが「あまちゃん」のクローニクルの魅力はもう一つの80年代後半の方にある。当時、30代後半から50代後半の視聴者にとって、これは懐かしい記憶。しかしながら、ドラマの中で描かれることはほとんどなかった。言い換えれば「手垢のつけられていないクローニクル」。しかも、作品の中で描かれたアイドルシーンは史実に基づきながら二つの人物が抜かれていた。ポスト聖子の一人として人気を博した小泉今日子と、角川映画の看板女優で歌手としても大成した薬師丸ひろ子だ。だが、この二人がドラマの中に登場する。小泉演じる天野春子は「アイドルになれなかった小泉今日子」、薬師丸演じる鈴鹿ひろ美は「大成したアイドル俳優、ただし音痴(薬師丸の美声はつとに有名)」。こうした配役によって視聴者は80年代後半をパラレルワールドとしてノスタルジーに浸ることができたのだ。なおかつ二つの時代はリンクしており、これが謎解きの様相を呈した。だから病みつきになった。そして、30~50代の視聴者層を獲得することに成功する(朝ドラのコア視聴者層は60~70代)。


一方、「いだてん」はこのようにはなっていない。二つの時代は1900~1930年代、1930~1960年代前半であり、視聴者のほとんどは同時代者ではない。つまり、二つとも「学習」を必要とするのだ。これが戦国時代や明治維新なら話の理解はもっと簡単だ。二つの時代は何度となく歴史ドラマで取り上げられており、視聴者にはこの時代の物語=フィクションについてのリテラシーがある。ところが「いだてん」に関しては、時代的知識や物語形式のバックグラウンドがない。それゆえ「いだてん」で初学習ということになる。しかしながら、大河ドラマ視聴者のコア層は60代より上、朝ドラよりさらに上の層だ。こうなると、もう難しすぎてついていくことが出来ない。ドラマについての前提となる知識がなく、また描かれ方も既存のものとは違うのでわからない。その結果「なんだ、こりゃ?」ということになるのだ。



二分する評価、そして大河ドラマの未来

ただし、こうしたクドカン・イズムに造詣がある層にとっては、このドラマは「酷い出来」どころか「傑作」だ。「あまちゃん」に比べると情報詰め込みすぎで、ちょっと整理が行き届いていないところも見えるが、クドカン的大河ドラマ実験は賞賛に値する。好奇心丸出しの偉くない嘉納治五郎など、却って人間的な魅力=リアリティを感じないでもない。


「いだてん」は嘉納治五郎を主人公にしてオリンピックの日本活性化のために尽力した立志伝、人物伝にすればよかったと評している記事があったが、確かに単に視聴率を稼ぐためなら、その方がよかっただろう。しかしながら大河ドラマも新陳代謝していかなければならない。60代以上の人間は、あたりまえの話だが漸次減少していく。大河ドラマとしては若年視聴者層を開拓していく必要があるのだ。それゆえ、今回のクドカン起用は大河ドラマの未来を見据えたものだろう。


七十年代「ルパン三世」や「宇宙戦艦ヤマト」が初めて放送されたとき、これらはいずれも低視聴率だった。「ヤマト」に至っては裏番組の「アルプスの少女ハイジ」「フランダースの犬」に視聴者をごっそり持って行かれ、放映回数を短縮されたほどだった。しかし、その後、この二つが日本のアニメ史に重要な足跡を残したのは周知のことである。


10年後「いだてん」は、おそらく「ルパン」や「ヤマト」と同じ評価がなされているのではないだろうか。そんなふうに思えないこともないほど本作は画期的、大河ドラマのブレークスルーであると僕は考えている。


さて、今日も四三と政ちゃんと治五郎の雄叫びを楽しもうか!


新型iPhone5G機能の搭載を見送った。これについては中国国内で中華・韓国スマホに後塵を拝することになるのではとの懸念が出ている。


典型的な記事が、これだ。


”5G対応の新型iPhone、アップルは中国市場で取り残される恐れも

https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2019-09-11/PXNTI66JIJUO01



でも、これってAppleのこれまでの戦略をよくわかってないんじゃないかな?


Appleは、その戦略にあたっては二つの方向性を採用してきた。


ひとつは、このテクノロジーに将来性があると睨んだ場合には、どこよりも早く導入する姿勢だ。1991年、アップル初のラップトップ・Powerbook100ではキーボードをノッチ側に前進させ、手前をパームレストにしてセンターにトラックボールを配置(後にトラックパッドに変更)、現在のラップトップのスタイルを作り上げた。またフロッピードライブを廃止しUSBLANポート、CDドライブもどこよりも早く導入している。当初、iMacの大ヒットで大混乱を招いたが後にWi-Fi機能(これも業界初だった)を搭載することで解決した。そしてこれらがテクノロジー、インターフェイスとして普及しているのは言うまでも無いだろう。この場合、アップルは技術普及の牽引役を務めている。


もう一つは、新しい機能に他メーカーがざわついても、それが実際に使いものになるか、あるいは時期的に適切であるかを検討し、最終的に敢えてすぐには後追いしないやり方だ。典型的な戦略は2008年、NetbookというWi-Fi標準装備で既存のPCより小ぶり、ただし性能は低い安価なラップトップが流行したときのことだ。ジョブズは「あんな過渡的なものはクソだ」と無視し追従しなかった。そして、最終的にこの指摘はiPhoneiPadの出現によってNetbookが消滅することで証明された。またBlu-rayのドライブも時代遅れとして一切採用しなかったが、これはネットベースでのインストール時代の到来を見越してのことだった。


ただし、後追いをしないわけではない。する場合にはインフラの整備を見極め、それらとの整合性を突き詰め、満を持して完全な製品をリリースする。それがiPodiPhoneだった。iPodについてはアプリケーション・iTunesと連動させ、極めて容易な手順での操作を実現。それがハードディスク(今日ではメモリー)内蔵型の携帯音楽プレイヤーの爆発的普及を可能にした。iPhoneはトラックパッドの技術を援用してマルチタッチコントロールを実現している。iPadも同様で、リリースの時点でインターネットやパソコンとの整合性が高度なレベルで取られていた。ご存じのように、その操作はタッチパネルでスタイラスペンを用いなかった。いいかえれば、これは「後出しジャンケン」のパターン。ただし、万全の体制で最強の手を打ってくる。


今回、アップルの戦略は後者に該当すると判断した。いま5Gに切り換えてもコストが高くつくだけで、実質的には使いモノにならないから無用の長物。たとえば中国が5Gの整備を急いだとしても、モノになるまでにはまだ数年かかる。中郷以外の市場については5Gは明らかに時期尚早。だったら、そんな不要なものはつけず、価格を抑えて中国製や韓国製に押される市場に対抗したほうが賢明。そして、ある程度5Gのインフラが整備され、他メーカーが矢継ぎ早に商品を出している間にじっくりと検討し、リリースする際には完全なソリューションを搭載して市場を席巻する。これまでのやり方に基づけば、アップルはそう判断しているように、僕には思える。


逆に言えばiPhoneXユーザーには今回のリリースは買い控えするのが賢明と言うことでもある。もっともXより以前のユーザーにとってはそろそろ買い換え時期ゆえ、新しい写真機能やバッテリー持ちのよさなどは背中を押す要素に映るだろう。


というわけでiPhoneXユーザーの僕は、今回はパスです。


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