勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2019年07月

さながら芸能界の巨悪が露呈したかのように、ジャニーズ事務所と新しい地図(元SMAP三人、稲垣・香取・草彅)、吉本興業と宮迫・ロンブー亮(そしてこれにレプロと「のん」こと能年玲奈の問題も含めることができるだろう)を巡って、メディアで混乱が発生している。だが、これらのトラブル、実はメディアの大きなパラダイムシフトを発生する可能性を秘めているのではないか。というのも、今回の出来事は、いずれ芸能界からテレビ、そしてメディア全般に至る領域まで影響を及ぼすかもしれないからだ。

一連のトラブルはメディアに関する三つの側面を教えてくれる。そして、それらは表層から深層、ミクロからマクロという形で重層的に繋がっている。

芸能界は大手が牛耳る構造

先ず表層かつミクロな側面について。これはもちろん、芸能プロダクションとタレントの問題、そしてわが国における芸能プロダクションの構造の問題だ。男性アイドル業界においてはジャニーズ事務所、お笑い業界においては吉本興業が巨人であることは言うまでもない。そして、これらはそれぞれの分野では市場をいわば寡占あるいは独占した状態。だから、タレントが一旦ここから離脱すると、メディアへの露出が限りなく難しくなる。ご存じのように締め出しを食らってしまうのだ。元SMAP=新しい地図の三人がジャニーズから離脱した瞬間、レギュラー番組のほとんどが終了し、メディアへの露出が極端に減ったことは周知の事実だ。現在、出演が可能なのはNHK(草彅=ブラタモリ)、欽ちゃん&香取慎吾の仮装大賞、そしてサントリー(香取、稲垣)とミノキ(香取、草彅)のCMのみだ。これらは前者二つは対抗する権力(NHK=タモリ、萩本欽一)によって支えられ、後者二つのCMはジャニーズの息のかからない分野(大手代理店でなくサントリー自体が制作している。あるいは代表の飯島三智と懇意)だ。宮迫と亮が今回の記者会見後にどうなるかはまだ不透明だが、二人の会見は離脱どころか反逆になるゆえ、現状のままであれば芸能界のメインストリームで活躍する可能性は新しい地図以上にほとんど不可能になるだろう。だが今回、二つのトラブルはこの独占、権力構造を世間に晒すことにもなった。公正取引委員会によるジャニーズ事務所への注意、宮迫、亮二人による結果的な吉本への反逆、暴露がそれだったというわけだ。

テレビメディアは共同正犯

次に第二層、つまり中層かつミドルな側面について。現在、この二つのトラブルがメディアで頻繁に報道されているが、報道それ自体が看過している、あるいは意図的に語らない(イヤ、ひょっとしたら思考停止している)側面がある。「そもそも、こうした市場独占、権力構造を可能ならしめたのは誰なのか?」が、それだ。言うまでもなく、それはジャニーズや吉本から多大な恩恵を受けているメディア、とりわけテレビに他ならない。ジャニーズ事務所と吉本興業は、あからさまにこうした「離脱=反逆タレント」をテレビが登用することにクレームをつけることは、おそらくしてはいないだろう(だから公正取引委員会はジャニーズ事務所を「注意」するに留めている。状況証拠しかないからだ)。二つの権力はそんなことをするほどマヌケではない。「どうぞ、ご自由にお使いください。ウチから離れただけですから」というスタンスをとっているはずだ。しかし、これはあくまで口先だけ。もし、テレビが「そうですか。それでは、これまで通り使わせていただきます」なんてことをやったら、プロダクションお抱えのタレントたち(膨大な数のそれ)の出演を断ってくるのは目に見えている。もちろん、二つに関係はないというタテマエで断るのだけれど。だから、権力側に何も言われなくても、テレビは勝手に忖度して離脱タレントの起用をやめてしまう。まあ、これこそが、最も典型的な権力構造なのだけれど。

これはとどのつまり、こうした構造を下支えしたのが結果としてテレビというメディアであることを意味している。タレントを閉め出しているのは独占企業プロダクションとテレビ。つまり、二つは共同正犯なのだ。にもかかわらず、テレビ局はそうした責任性を顧みることもせず、自らのことはさておき他人事のようにこれら一連の報道を続けている。とはいうものの、どうもおっかなびっくりという印象もありありで、ジャニーズ、吉本への批判については歯切れが悪い。まあ、僕には、日和見かつ無責任の、みっともないことこの上ない存在に映るのだが……。

ちなみに、これらのスキャンダルに対しては、これに関わる人間や組織がどのように対応するかが、今後問われることになるだろう。その一つは独占状態にある組織に所属するタレントたちの立ち位置だ。ジャニーズについては中居と木村の立ち位置が問われた。そして今回は吉本の大物芸人たちがその立場に立たされるだろう。これについてはすでに松本人志がワイドナショーの特別生番組をフジテレビにもちかけ、自らの立場を表明しているが、この対応の仕方次第で吉本の大物芸人は芸人生命の死活問題となる可能性すらあるかもしれない。

今、テレビのあり方が問われている

だが、最も重要なのは組織、つまりプロダクションとテレビの立ち位置だ。プロダクションの方はすでに大きな打撃を受けつつあり、今後何らかの対応を余儀なくされるだろう。だから、ここはしばらく様子を見てみたい。なので、ここではテレビの方について考えてみる。もし、テレビがこれまで通り二つのプロダクションに媚びを売り続けるようなスタンスをとり続けるのであるのならば、これは大きな問題だ。いいかえればテレビの信用性の問題に関わる事項となる。中途半端、あるいは「寄らば大樹」「弱気を挫き、強きを助ける」のような態度を今後もとり続ければ、早晩、視聴者の信用は失墜するだろう。タレントたちと同様、テレビにも、もはや”賽は投げられた”のだから。

そして、この問題こそが「深層のマクロな問題」に通じている。いいかえれば、テレビというメディアの存在それ自体の今後のあり方の問題。ご存じの通り、インターネットの急激な普及に伴ってテレビの視聴率は漸減傾向にある。とりわけ、テレビ離れは若年層に著しい(若者は、もはやインターネットの方がテレビよりも圧倒的にアクセス時間が多いのだ)。テレビ局はもがき苦しんだ挙げ句、テレビ世代の中高年層をターゲットとしたドラマ(サスペンス物)、あるいは低予算で制作可能なトークバラエティを中心とした番組にその中心をシフトした。そして、後者での人員(タレント)の中心を担っていたのがジャニーズ事務所と吉本興業だったのだ(場合によっては前者もそうなのだが。事実、大岡越前を演じているのは東山紀之だ)。裏を返せばジリ貧でもがき苦しむ中、視聴者維持のために必死にすがっていたのがこの二つだったのだ。いわば”蜘蛛の糸にすがるカンダタ”状態。だから後者に関しては忖度するのがあたりまえだった。

しかしながら、前者については、視聴者はやがてこの世からいなくなっていく層であり、ジリ貧は不可逆的な流れ。そして、後者についても、今度はこうしたトラブルに若者たちが嫌気をさし、テレビ離れを加速化していく可能性がある。そうなってしまえば、テレビはもがき苦しんだ挙げ句、最終的に蜘蛛の糸は切れ、地獄に落ちていくことになってしまうだろう。

テレビというメディアが生き残るためは、今後これらの構造的な問題に対して主体性を持って立ち位置を視聴者に示すことが至上命題となるはずだ。巨大プロダクションにひるむことなく、自らの方針を明確に、そしてこれらに依存しない運営を志向する必要がある。テレビは、もっと自信を持って毅然とした対応をしなければならないのだ。それは言い換えれば「クリエイティビティを取り戻せ!」と言うことでもある。今回のジャニーズ事務所、吉本興業問題は、翻ってテレビというメディア自体の問題でもあること。そのこと自覚することから、テレビはまずはじめるべきだ。でなければ、恐らく未来は、ない。

2005年、時の首相小泉純一郎は郵政民営化を巡ってその賛否を問うべく衆議院を解散、選挙を行い、その結果、小泉劇場と呼ばれる自民党の大勝を招いた。だが、今回の参議院選挙では、こうした「○○劇場」は多分、起こらないだろう。ただし、自民党は勝利する。また公明党、共産党も。そして「○○劇場」、今後発生する可能性は極めて低いとも僕は考えている。

年齢が低い方が政治への関心度は相対的に減少している

その理由を挙げてみよう。まずデータから。
総務省の統計によれば1988年から2017年の間に参議院選挙の投票率は65.0%→54.7%と15.7ポイントの減少を見せている。若干の波はあるが原則、漸減状態にある。これを世代別に見てみると20代:47.5%→35.6%で25.1ポイント、30代:65.3%→44.2%で32.3ポイント、40代:70.2%→52.6%で25.1ポイント、50代:75.4%→63.3%で16.1ポイント、60代:79.9%→70.7%で11.5ポイント、70代:66.7%→61.0%で8.5ポイントと世代が下がるにつれて投票率の低下率が上昇する傾向がある(これは衆議院選挙の投票率も同様)。つまり全般的に投票率は減少傾向にあるが、年齢が低くなるほどその傾向が高くなる。加齢とともに投票率は上がるという一般的な傾向があるが、それらを考慮しても、今後ますます投票率は低下することになる可能性が高い。

私的な関心へベクトルが向かう若者たち

次にメディア論、とりわけ若者論的立場から考えてみよう。
かつて七十年代までは「大衆の時代」と言われていた。マスメディア、とりわけテレビや新聞が世論を形成し、これが選挙に大きな力を及ぼした。というのも、これらへのアクセス度、そして信頼度が非常に高かったためだ。60年代末の学生運動の終息以降、若者たちは私的な生活にそのベクトルを向け、政治への関心を失ったかのようにみえたが、実はその間もそれなりに政治的意識はあり、若者は投票に足を運んでいたのだ。その際、投票を考慮する主たる情報源がマスメディアだった。

だが全般的に政治に関心が低下すると、それに伴って若者の関心も低下していく。そして、マスメディアも消費的情報を増大させつつ、提供情報を多様化させ、これに伴って支持政党なしの無党派層が増大していく。そこで、90年代以降、こうした無党派層をどのように取り込むかが政党にとっての課題となったのだ。

テレビとインターネット(SNS出現以前)間の情報循環が「劇場」を発生させていた

これに成功したのが小泉純一郎だった。小泉自身「無党派層は宝の山」と表現していたが、まさにこれを獲得することに成功したのだ。その要因、実はインターネットの普及が大きく関係していると僕は見ている。ゼロ年代はまだスマホ出現前夜(iPhoneの発売は2008年7月)、だがインターネットはパソコンベースで徐々に普及を見せていた。ブログも普及、またソーシャルメディアもmixiや2ちゃんねるといった初期のものが人気を博していた。

そして、この時、インターネットとテレビ・新聞はまだ蜜月的関係にあった。ソーシャルメディアで話題になったものがあると、これをマスメディアがプッシュ・メディア的機能を利用してピックアップした。つまりテレビや雑誌がネット上で盛り上がっていることをマス機能を用いてバイラルした。すると今度はマスメディアが取り上げた話題が再びインターネット上に還流、さらにソーシャルメディアやブログなどでこれらが取り上げられ、それが再びマスメディアがピックアップという循環によってブームが起こるという「マスメディアとインターネットによる情報のスパイラル」が発生していたのだ。小泉劇場が発生した大きな要因の一つがこうした二つのメディアによる共犯的な循環にあったのでなかろうか。そして、この時、小泉的な「ワンフレーズ・ポリティックス」は旨く機能した(地方なら宮崎・東国原英夫の「宮崎をどげんかせんといかん!」だった)

ソーシャルメディアがテレビとネット間のバイラルを打ち消す

ところが、スマホの普及によって状況は変わってくる。ゼロ年代には有効だったインターネットとマスメディアのスパイラルによるブーム=劇場の発生というメカニズムが消滅するのだ。スマホ、そしてFacebook、Twitter、Instagramといったソーシャルメディアの出現と普及は、個人の嗜好を加速度的に細分化していった。それによって人々は自らのトリビアルな関心領域の情報を入手するようになる。言い換えれば、それは問題関心が全体的イシューから個人的なそれへとシフトしたことを意味する(社会学ではこのような状況を「再帰的近代化」(W.ベック、A.ギデンス)と呼ぶ)。また、情報発信についても、発信手段がホームページやブログからソーシャルメディアに代わることによって、誰もがネット上に自らの情報を気軽にアップするようになる。インプット、アウトプット、どちらにおいても、それぞれが関わることがバラバラになっていったのだ。いいかえれば、大衆は求心的な中心(近代)を否定してモザイク化し、さらにタコツボ化するようになった(「リキッドモダニティ」Z.バウマン)。

そして、こうした嗜好の極端な細分化が結果として、それまで発生してたインターネットとマスメディアによる情報のスパイラルによるイベント化=劇場化を無効にすることになった。

たとえば、ゼロ年代のようにマスメディアがブログ、2ちゃんねる、そしてソーシャルメディアから話題となっている情報をピックアップし、この情報をバイラルしたとしよう。ところが、ソーシャルメディアによって細分化されたインターネット領域では、マスメディアによってプッシュされた情報は、むしろソーシャルメディアのユーザーたちによる情報発信によってかき消されるように作動するのだ。インターネット上、とりわけソーシャルメディア上の話題がマスメディアに取り上げられても、すぐさま、これを否定する見解がソーシャルメディア上から提示される。しかも、様々な方面から。いや、それだけではない。その次にはこの「否定する見解を否定する見解」まで、さらにその次までもが出現する。だから、一定以上の広がりが難しくなるし、話題の有効期間も限りなく短期化されてしまうのだ。

最近発生したこの典型的な例は、大津で発生した園児を死傷に追いやった交通事故だろう。事故発生直後、散歩に連れて行ったレイモンド淡海保育園が行った記者会見で、マスメディアは保育園を加害者的な立場見立てながら質問を行った。これがソーシャルメディア上で批判されることになる。すると事故死した児童の親から保育園を援護するコメントが。次いで、このコメントをマスメディアが取り上げると、今度はソーシャルメディア上でマスメディアがコメント全文のうちのどこを省いていたかが各マスメディアごとに晒されていた。そこで形勢不利と考えたのか、マスメディアは本件については口をつぐむようになった。これじゃ、盛り上がりようがないだろう(する必要もないけれど)。

選挙も、結局これと同じメカニズムが発生することになる。つまりブームになる前にこれをかき消す情報が様々な形でソーシャルメディア上に挙げられ、雲散霧消するのだ。だから、お祭りは盛り上がりそうになった瞬間、かき消されることになる。「年金の他に2000万円が必要」という騒ぎも、しばらくすれば忘れ去られるだろう(ひょっとして、ソーシャルメディアはガス抜きの機能も果たしているかもしれない。「(100年安心のはずが2000万円必要だって?ふざけるな」と、ソーシャルメディア上でコメントしてしまえば、これで満足してしまうといったような……)。

政治オタクばかりが選挙に行くようになれば……自民、公明、共産、そしてれいわ新撰組が勝利する

では、そうなると次回参院選はどうなるのか。当然ながら、無党派層は全くなびかない。そして個人化=私的生活にベクトルが向いているので、公的な活動である選挙に関心を抱くことはなく、投票には行かない。その一方で、政治にもともと関心を持っている層が、やはりソーシャルメディア等を媒介にして結びつく。そうなるとインターネット=ソーシャルメディアは支持政党ありの人間にとっては政党への支持意識を強化する方向に働くことになる。

必然的に投票率は下がるが、いわば「政治を趣味にする層」は必ず投票に行くことになる。だから結局、勝利するのは基礎票がしっかりしている自民党、公明党、共産党なのだ。いいかえればインターネット→スマホ→ソーシャルメディアの普及というメディアの流れは政治への関心を加速度的に減少させるが、その反面で政治オタクを発生させ、その層によって選挙が展開されることになるのだ。

だが、この「政治オタク化」は既存の「支持政党あり」の層だけを指しているわけではない。無党派層の中にも「政治を趣味にする層」、言い換えれば嗜好が多様化した中の一つとして「政治に(趣味として)関心を持つようになった層」が、これまたソーシャルメディアを介して結びつくようになる。ただし、これもまた多様化した層の中の一部の層でしかないために母集団が小さい。だから小泉の時のような「劇場」にはならない。「トリビアルなオタク集団」ゆえ、せいぜいが町内会祭りの神輿担ぎ程度にしかならないのだ。しかし、ネットを介して全国からかき集めれば、これはそれなりの力を得ることにはなるだろう。おそらく、こうした層は「ワンフレーズ・ポリティックス」ではなく「ワンイシュー・ポリティックス」、つまり限定された争点を前面に打ち出し、これを深く展開して、萌えた政治オタクからの支持を取り付けるだろう。いうまでもなく、このやり方で「新しい無党派層」を掘り起こしている(しかし、絶対に政党的には巨大化することはない)のが山本太郎率いるれいわ新撰組だ。おそらく、れいわは「政治オタク」の票を取り付けることで、支持基盤のはっきりしない党の中で唯一勝利するだろう。

だが、それは選挙というシステムが機能不全を起こしはじめたことを意味しているということでもある。選挙や政治もまたオタク化していくというわけだ。そして、この傾向は不可逆的な現象だ。ソーシャルメディア的なものが個人化を進めれば進めるほど政治は「一部のオタクのもの」になっていくのではなかろうか。




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