勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2018年04月

福田前事務次官を巡るセクハラ問題、そしてTOKIO山口達也氏のわいせつ問題がメディアを賑わせている。しかし、この二つのメディア報道、あまりに稚拙、無知といわざるを得ない。しかも害悪。どれだけこれが酷いのかを、わかりやすいよう小学校社会科で学ぶ学習項目「基本的人権の尊重」「三権分立」で説明してみよう。題して「小学生でもわかるセクハラ問題報道の誤り」。

福田前事務次官の人権保障は当然

先ず基本的人権の尊重の点から考えてみよう。これは「人間は誰でも生まれながらに備えている人間らしく生きる権利が尊重されなければならない」という、誰でも知っている日本国憲法の三大基本原則の一つ。この視点から考えると福田事務次官のセクハラ疑惑についてはセクハラという前に、先ず人権問題として捉える必要がある。言い換えればセクハラ、パワハラといったハラスメント全般は人権問題のサブカテゴリーだ。麻生財務大臣は「福田の人権はどうなるんだ」とコメントしたが、これは「人権尊重は国民全体に向けられるべきで、セクハラ被害を受けたとするものもの、セクハラをしたとされるものも等しく人権が守られなければならない」という意味だ。それゆえ麻生大臣のこのコメント自体は憲法的にはしごくまっとうだ。野党やメディアがこの発言それ自体を非難するのはお門違いも甚だしい。ネガティブな文脈を勝手につけて非難しているだけだ(大臣のその他の不用意な発言については話は別だが)。だから、この人権尊重に基づく「疑わしきは被告人の利益(あるいは「疑わしきは罰せず」)」を適用すれば、どれだけ疑惑があったとしても福田事務次官の人権も守られなければならない。ところがメディアは確たる証拠もなく福田次官を「クロ」と勝手に認定し、バッシングを展開した。いうまでもなく、これは人権蹂躙、つまり憲法違反。だから、後に福田氏が人権侵害としてメディアを訴えたとすれば勝訴の可能性が極めて高い(これは仮に福田氏がセクハラを行っていたことが確定したとしても同様だ。事実を踏まえず被疑者を攻撃した事実はセクハラの有無とは関係がない。「疑惑の銃弾」でバッシングを受けた三浦和義氏が起こした数々の訴訟の件を振り返ってみれば、これは容易に想像がつく。三浦氏はほとんどの訴訟でメディアに対して勝訴している)。もちろん、福田氏のパワハラが実証されたならば、もはや「疑わしくはない」ので、叩くのは問題ないが(もちろん、事実に基づかなければならないけれど)。

財務省は福田氏を裁けない

でも、財務省が今回の件をセクハラ認定したから問題ないじゃないの?いや、そんなことはない。福田氏についての人権は、それでもまだまだ有効だ。少なくとも本人が否定しつづけるうちは。なぜか?それは日本が三権分立に基づいているからだ。三権分立は司法(裁判所)、立法(国会)、行政(内閣)がそれぞれ独立し、互いを牽制することで権力の一極集中を回避するシステムだ。ということは、裁判沙汰の白黒は最終的に司法がやるべきこと。財務省がセクハラ認定したところで法律上はセクハラ確定にはならない。言い換えれば福田氏が裁判に訴え出て、そこで初めて白黒がつくのだ。そして、万がいち福田氏側が勝訴した場合には、損害賠償が発生する。その賠償金を支払うのは誰?いうまでもなく国民、つまり税金によって賄われるわけだ。これは言い換えれば財務省が腹を括ったということでもある。

実際、セクハラ認定は極めて難しく、慎重を要するものなのだ。僕は職業柄(大学教員)、あちこちの大学内でのセクハラ問題についてはしばしば耳にするのだが「極めてクロに近い」としても、最終的に裁判でハラスメントを受けたとされる側を擁護した大学当局側が敗訴する(つまり被告の勝訴)例は多いのだ。それは「疑わしきは被告人の利益」という原則に沿っているからに他ならない。

人権侵害(パワハラ・わいせつ)が確定していても無罪を言い渡すメディア

一方、今回の件で人権問題的にクロが確定しているものが二つある。一つはテレビ朝日で、件の女性記者が福田氏に複数回にわたってセクハラを受けていると上司に訴えたにもかかわらず、これを握りつぶし、女性記者にただならぬ精神的な苦痛を与えてしまった。もちろん、これはパワハラ=人権問題だ。そして、騒ぎが大きくなったところでテレビ朝日側はこの件を認める記者会見を行った。この時、加害者=テレ朝、被害者=女性記者。両者は事実を認めているので、ここでテレ朝のパワハラは確定している。とんでもない人権蹂躙。しかし、報道ステーションでは「カンベンして」的なコメントがなされた。他局も新聞社もこれを大きくは取り上げない。繰り返すが、こちらは福田問題と異なりパワハラが確定している。ならばなぜ、メディアはおおっぴらに叩かないのだろう?完全に矛盾している。

次に山口達也氏の場合。これもテレ朝とまったく同じ構図で説明が可能だ。加害者=山口達也、被害者=女子高生で、加害者、被害者ともに事実を認定しているわけで、これはわいせつとしてはクロが確定している。書類送検も行われた。しかも相手が未成年なのは状況がさらに悪い。ゆえに、アイドルとしても完全にイメージを失墜させているはずだ。ところがメディアはなぜか山口氏を厳しく責めることはしない。それどころかこの問題に絡んで、メディアは山口氏を「TOKIO山口達也メンバー」という「メンバー」という敬称をつけた呼び方をする。これが極めて奇妙なのは、たとえばダチョウ倶楽部の上島竜兵がこの手の問題を起こしたら「ダチョウ倶楽部上島竜兵メンバー」と呼ばれるなんてことはないと考えればよくわかる(上島さん、すいません。いちばん不祥事を起こしそうもない人と考えたので喩えにさせていただきました)。つまり、もはや人権侵害確定の人物をここでも責め立てることをしないのだ。これまた完全に矛盾している。これは2006年に極楽とんぼの山本圭壱がおこした性的暴行事件を踏まえればコントラストが明瞭だ。山本は完全に干され芸能界へのメジャー復帰が2015年まで叶わなかった(そして、いまだにあまり露出が許されていない)。これと比較すると山口氏へのメディアの扱いは実に奇妙といわざるを得ない。状況的に同じなのだから山口氏も今後10年間くらいはメジャー復帰は叶わないはずだ。しかし、恐らく数年で復帰するだろう。だって天下のジャニーズ「メンバー」なんだから(笑)どうなってんだ、これ?

迷走するメディアの立ち位置

いや、ようするにこれはメディア全般がポピュリズム、スキャンダリズムに基づいたイエロージャーナリズムだから仕方がないと、ちゃぶ台返しをしてしまえば理解は簡単なのだろう。ここで、僕が指摘するような内容、つまり人権尊重、三権分立に基づき淡々と処理するという冷静さを、もはやメディアは失っている(ちなみに、ここで僕が展開している指摘はインターネット上ではかなりの人間が繰り広げているのだが、これをメディアは取り上げない(政治家も同様))。しかし、この問題は小学校の社会科の学習項目だけで理解できる内容なのだ。

そして、こうした報道はジェンダー、人種問題を含む人権問題全てを悪しき方向に導く恐れを備えている。メディアの報道は、むしろわれわれ一般人の「無意識の偏見」(今回の場合、女性への)を助長する可能性があるからだ。むやみにセクハラと騒ぎ立てること(この場合、責め立てる対象が政府高官という権威の階梯の最上位ゆえ、つるし上げると面白い、言い換えればジェラシーを満足させる存在への注目)、パワハラなのに女性差別問題を取り上げないこと(この場合、責め立てる対象がテレビ局という当事者ゆえ、責め立てると天に唾することになり、都合が悪いという事情)、わいせつなのに加害者をあまり責め立てず、むしろ擁護する側にまわること(この場合、責め立てる対象がアイドルかつジャニーズ事務所というお世話になっている団体とその所属員なので、責め立てると今後の営業上都合が悪いという事情)。こうしたメディアの勝手な都合、ジェンダーに対した迷走する立ち位置(しかも無意識なそれ)は、ジェンダー問題についてのより本質的な議論が知らないうちにスルーされてしまうどころか、却ってジェンダーに対する無意識の嫌悪感を生んでしまう恐れさえあるのだ。そのへんの自覚がメディアには全くない。一般女性にセクハラしているのはメディアさん、ひょっとしてあなたの方じゃないんですか?

なので、メディアの皆さん、政治家の皆さん。小学校へ行って社会科の勉強をしましょう。ちなみに、これは小学6年生の学習項目です。

421日、読売新聞で「水に流せない!“女子トイレ行列”問題」という記事が掲載された。男女平等とは何かを考えさせてくれるよい記事だ。そこで、これを引用しつつ「男女平等とは何か」についてあらためて考えてみたい。

女性のトイレ利用時間は男性の2.5倍

記事の中でトピックとして用いられているのは大正大学人間学部・岡山朋子准教授の研究で、具体的には高速道路のトイレ(おそらくサービスエリアのそれ)の現状についてだ。ゴールデンウイークともなるとこうした場所の女子トイレの前には行列が出来るのが慣例だ。その一方で男子トイレで行列という事態はあまり見ない。

この原因は女性のトイレ利用時間が男性よりも長いため。NEXCO中日本の調査では女性は男性の約2.5倍の時間がかかるという。それゆえ、現状は面積の上での男女平等に過ぎず、利便性の平等とはなっていないと結論している。

確かにその通りで、今まで「女子トイレはいつも混んでいるよな?」くらいしか思っていなかった自分がちょっと情けなくなった。そして、この問題は踏み込んで男女平等はどうあるべきかについて考えさせてくれるものでもあった。

女性を男性にしようとする男女平等

男女平等は、あたりまえの話だが「何事につけても男性と女性を平等にする」という立場だ。だが、この立場はよく考えてみる必要がある。というのも、残念ながら現状、社会は男性性を中心に構築されている。ということは、現段階ではこの前提に基づいた社会的平等は結局、女性を男性と同じレベルに引き上げる、もっと言うと女性を男性にするという怪しい立ち位置になってしまうからだ。これは女性の立場を全く踏みにじっている。

たとえば賃金格差などは最たるもので「女性は出産するから重要な仕事には使えない」みたいなモノノイイがその典型だ。これは男性が出産しないことがデフォルトになって社会構造が成立しているだけだ。もちろん政府も含めて男女共同参画社会が提唱されてはいるが、こうした平等を謳いながら、その実、男性社会に女性をはめ込むような流れがいまだに主流のままというのはやはり問題だろう(男女賃金格差や職業機会・離職率・政治参加率の相違などは、日本社会における男女差別が依然深刻であることを示している。事実、2017年世界男女平等ランキングで日本は114位、しかも前年度より3位後退している)。

言い換えれば社会は「男性社会への女性の組み込み」ではなく「人間社会への男性と女性の組み込み」でなければならない。それは男性と女性が共生可能な社会ということになる。それについて問題を投げかけているよい一例がこのトイレ問題だろう。

トイレの男女平等一つをとっても、なかなか簡単ではない

ただし、人間社会、つまり男女差を認識しつつ、双方が平等に暮らすことの出来る社会の成立のためには、もう少し突っ込んだ議論が必要だ。その難しさをちょっと考えてみよう。

まず小さな問題から。前述のトイレ問題で考えてみたい。ここでの平等はとりあえず「待ち時間の平等化」としよう(別の平等性もあるかもしれないが)。そのように考えた場合、サービスエリアでの女子トイレの数を男性の2.5倍にするだけでは不十分なことがわかる。

利用時間差が男女で2.5倍が正しいとして、これを踏まえながら平等を考えれば次のようになる。

先ず、共学の中学や高校の場合。生徒数が男女比11ならばトイレの数は2.5倍でいいだろう。ところがこれが東京ディズニーランドなら正しい比率ではなくなってくる。というのも来園者の男女比率が73だからだ。ということは7÷32.3の倍率をこれに掛け合わせて5.8倍にしなければならない(ディズニーランドはトイレ数を供給過多にすることでこれに対応している。なので男性トイレはほとんどいつもガラガラ。サービスエリアと違って自分とカミさんが同時にトイレに入っても、さして変わらぬ時間でトイレから出てくことが出来る。このへんはよく考えている)。

これが件のサービスエリアならもっとややこしい。通常であるならば現状では運転を職業とする労働者の割合は男性の方が高い。となると、この割合を鑑みる必要がある。つまり2.5倍は高すぎる。ところが、大型連休となればレジャー利用客が大幅に増えるわけで、その際には女性比率はグッと上がる。そうなると、今度はこれを踏まえたトイレの構成を考慮しなければならない。具体例として考えられるのは、たとえば可動式の壁を設けて時期に応じてこれを移動させ、男女のトイレ比率を変更するというやり方。こうした方法については現代ではビッグデータを利用すればある程度の予測は可能になるだろう。ただし、女性は小便器を利用しないわけで、これをどう考えるかも問題だ。小便器は大便器よりスペースを取らないことも考慮する必要がある。ということでなかなか難しい。

ジェンダーは変容する

そして次にもっと大きな問題。この手の問題を考えるときに前提にされているのは言うまでもなく”ジェンダー”。これは生物学的な性別ではなく社会文化的に形成された性別を指しているのだが、「社会的」という前提がある限りその位置づけは常に安定しない。文化、歴史によって絶え間なく変動する。ということは、これを踏まえて既存の女性、男性双方のジェンダー定義を不断に変更し続ける必要がある。当然ながら前述した「人間社会」という定義もこれを踏まえつつ変更しなければならないし、そこから平等の定義も模索し続けなければならない。つまり“永遠の課題”となる。トイレ問題にしても、今後用足しのスタイルが変わることもあるかもしれないし(例えば男性全員が座って用を足すようになるとか。ちなみに我が家はそうなっています(笑))、運転を職業とする労働者の女性比率が上がることも考えられる。こうなるとこれに対応した基準を再設定する、いや再設定し続ける必要があるわけだ。で、忘れていたが、実を言うと生物学的な性別とジェンダーの線引きもハッキリしていない。つまり、やっぱりなかなかややこしい、難しいということになる。

でも、やるんだよ!

議論し続けていくことの重要性

ここ一ヶ月の間に女性の立場をどう考えるかについての事件が二つほど発生した。一つは相撲の土俵に女性が上がることの是非、そしてもう一つは財務省のセクハラ問題だ。これらについて僕はブログである程度言及してきたが、双方に共通するのは、まだまだ議論が未熟であることだ。「人間社会における男女平等」への道は険しいものがある?という印象を拭えない。それでも、男女差を解消するためには、こうした議論を続けていくことが絶対に必要だ。残念なのはこれらを報道しているメディアの認識レベルがあまりに低いということだろうか。福田事務次官を批判しているテレビ朝日がセクハラの訴えを隠蔽したという事実はそのことを如実に物語っている。役人(福田)も政治家(麻生、小西・辻本などのこの問題を追及する政治家)もメディアも女性差別しているのだが、それに気づいていない。みなさん、もっとジェンダーの勉強をしましょう!(もちろん、自分も含めてですが(^0^;))

福田淳一財務省事務次官のセクハラ疑惑は福田氏が名誉毀損で告訴も辞さぬという強気の姿勢に出るという予想外の展開を迎えている。さて、この状況、どうすれば打開できるのか。

解決策はしごく簡単だ。件の女性記者名乗り出ればよいだけの話だからだ。ただし、これが問題視されている。

テレビ上ではコメンテーターたちに感情的な発言を続けているが、ほとんど意味がないと言っていいだろう。テレビが何を言おうが、現状のままならばこれは福田氏の冤罪になるからだ。というのも確たる証拠がどこにもないのだ。

「録音があるだろう!これだけで十分だ」

いや、そんなことはない。さらに、これが本人の音声であることを確認しなければならないし、会話全体のやり取りや状況から内容を判断しなければならない。現在、明らかになっているのは福田氏と思われる人物の音声だけだ。あたりまえの話だが、これだけではどうにもならない(すでに切り取られている)。そして財務省が弁護士を立てて、双方の話を聞き状況を確かめると中立的な立場?で提案をしてきた。

さて、もしこのまま女性が名乗り出なければどうなるか。なんのことはない、繰り返すが福田氏の不戦勝になる。つまり福田氏側の主張が通ってしまうのだ。例えば「これは全て新潮のでっち上げにすぎない」あるいは「音声が本人のものであったとしても、それは『女性が接客をしているお店に行き、お店の女性と言葉遊びを楽し』んだだけ」。それを新潮はさながら女性記者へのセクハラへと捏造した。こんな言い分が、まかり通ってしまうのだ(もちろんこの根拠のなさは、現状での新潮の主張と同じレベルで根拠がない。双方の言い分は同じレベルの説得力で、しかも闇の中になる)。実際、女性記者が出てこず、確たる証拠が現れず、これを踏まえて福田氏が新潮を告訴したら、これへの反論は不可能で、九分九厘福田氏が勝訴するだろう。麻生大臣が言うように「福田の人権」が存在し、司法はこれに基づいて事態を処理するからだ。言い換えれば、メディアや政治家が騒いでいるだけでは何の効力もない。ひょっとしで福田氏はそれを狙っているのだろうか。

だからこそ被害者の女性は名乗り出る必要があるのだ。言い換えれば、そうした意味では麻生大臣の発言は概ねまっとうということになる。

しかしながらこうした麻生大臣のコメントも常軌を逸しているとメディアや野党の政治家たちが非難している。「セクハラを受けた側の苦しみが解っているのか?」「言い出すのがどれだけ大変なのか知っているのか?」というのがその際たる理由になるだろう。また財務省が弁護士を立てて事情を調べると言っているが、なんで加害者側の弁護士が調べるんだ?そんなのあるわけないだろうというモノノイイもある(ただし、大学などでセクハラ、パワハラなどが発生した場合、大学内部のハラスメント委員会がこれを処理するというのは常識的に行われている)。

とはいっても、とにかく事実を語ってもらわなければ話は進まない。負けてしまう。福田氏を追及する手段、そしてこのスキャンダルが捏造ではないことを証明する方法は、現状ではハッキリ言ってこれしかない。だからやってもらわなければ、どうにもならない。

じゃあ、どうすればいい?つまり女性を保護しつつ事実関係を確かめる方法は?

そこで次のような提案をしてみたい。
まず超党派の第三者委員会を設立する。その議論の中で弁護士を選定し、これに全てを一任する(つまり二次被害を避けるため財務省が弁護士を選定しない。言い換えれば「財務省も加害者」という批判を受け入れる)。名乗り出た女性記者の安全を確保するため完全匿名とし、外部にその存在が一切知られることのないような環境を設定する。例えばやり取りの音声にしても、そのままでは一般には公開しない。そして弁護士はその結果と概略のみを発表し、それを受けて財務省は福田氏に対し最終的な判断を下す。こうすれば事の次第が女性への危険を回避しつつ判明する。

このスキャンダルについていいたいことはただ一つだ。外野がゴチャゴチャ言う前に科学的かつ合理的、そして法律に則ってこれを粛々と処理すること。つまりノイズを取り払って白黒ハッキリつけるべき。メディアも政治家も含めて、どうもこれを利用しようとする下心ばかりが見える騒ぎに、僕には思えてならない。いずれにしてもテレビの報道している内容は、あまりに酷すぎるというか、レベルが低すぎる。

ファイターズからロサンゼルス・エンゼルスに移籍した大谷翔平の活躍がめざましい。いきなり三試合連続ホームラン、さらには二勝(一つは七回までほぼパーフェクト)、打率も四割近くでエンジェルスを一人で引っ張っている感すらある。日本のメディアは「アメリカ中を震撼させるスーパースターの誕生」「Otani-San」「Sho Time(「翔」と”Show”のもじり)」といったアメリカメディアの大谷フィーバーを取り上げている。

しかし、このアメリカでの人気、本当なの?そこで、地元の人間に訊いてみた。

結論から先に言ってしまえば全体的にはウソ、限定的には本当だ。

まずウソから考えてみよう。こうした「人気沸騰」という現状を日本のマスメディアは、アメリカのでの野球人気を無根拠に日本のそれと同じとみなしてところにある。つまり全国的に人気がある(最近は凋落気味ではあるが)。ところがアメリカでは野球は、もはやそんなに人気の高いものではない。アメリカ人にとって一番人気はもちろんアメフト、二番目は大学のアメフト、三番目はバスケット。野球はグッと下がってその次の次くらいといったところだろう。だから、一般には大谷のことはほとんど知られていない。アメリカは多民族国家でそれぞれの嗜好も多様だ。そして人口も32000万強で日本の2.5倍。しかも国家もだだっ広い(カリフォルニア州だけでも日本より大きい)。だから、日本人みたいに国民一丸となってスポーツを楽しむというのはほとんどない(スーパーボウルを除いては。これもハロウィーンやクリスマスみたいな“年中行事”的な位置づけだけれど)。もちろん、オリンピックにしてもさしたる関心を持っていない。「開催されはじめれば、まあ見る。アメリカの選手限定」といった程度だ(例外は1994年リレハンメルオリンピックの女子フィギュアくらい。これはスキャンダルだったから)。

そうはいっても州単位ではJリーグみたいにご当地チーム的な人気があるんじゃないのか?つまり地域おこしの道具になっている。残念ながらこれもまた違う。たとえばドジャースであっても、それに関心のない南カリフォルニアンにはどうでもいい存在だ。より限定的な話をすると、先の平昌オリンピック・スノーボード女子ハーフパイプで活躍した韓国系アメリカ人クロエ・キムはロサンゼルス南の都市トーランス(人口13万、韓国人と日本人の割合がそれぞれ一割程度)出身だが、彼女が金メダルを獲得してもトーランスで記念式典やパレードが催されることはなかった(日本は必ず開催する)。

さて大谷である。ロサンゼルス・エンゼルス所属だが、ホームグランドはロサンゼルスから高速で南に40分ほど下ったアナハイム(ディズニーランドで有名)にある(正式名は”ロサンゼルス・エンゼルス・オブ・アナハイム)。大谷が暮らすアパートはさらに南のアーバインだが、どちらでも大谷フィーバーが起きているといることはないらしい。つまり、扱いはクロエ・キムと同じなのだ。というか、これがアメリカ人の関心の持ち方なのだ。まずは個人主義。

しかし、日本では、大谷は「アメリカ中を震撼させている」ことになっている。そして、それを傍証する報道やスタジアムでの熱狂が伝えられている。いったい、これはどうしたことか。

その答えが「限定的には本当」ということになる。南カリフォルニアンで野球好き、かつエンジェルスファンの間では大谷は大人気なのだ(ちなみにこのエリアはトヨタ、本田、エプソン、ヤマハ、三菱など、日本企業のアメリカ本社が多数存在し、当然日本人もそのファンの一部構成している)。僕がトーランスに暮らしていた時は、たとえば和食店では「マエケンが勝ったら天丼半額」みたいなことをやっていた。

日本では、こうしたアメリカでの「一部の限定的な熱狂」を取り上げ、これをキー局や大手新聞・雑誌などのマスメディアが取り上げることで、大谷はあたかも「アメリカ中を震撼させるスーパースター」であるかのように仕立てられている。確かに映像や記事は存在するのだが、これを大仰に報道しているわけだ。このような「メディアが事実を作り上げること」をメディア論ではメディアイベントと呼んでいるが、ここで行われている報道は、まさにこれに該当する。ということは、大谷がこ10勝以上をあげ、3割、ホームラン10本以上を打ってベーブルースの記録を抜いたとしても、それに興奮=震撼するのは3億人の内の野球好き、しかも南カリフォルニアンの一部だけということになる。

まあ、日本人としてはこれを楽しめばよいわけで、それはそれでよいかな?という気もする。ちなみに、アメリカで本当にスゴい日本は日本食とポケモンだ。この二つは明らかに「アメリカ中を震撼させている」。ただし、前者は都市部に顕著であることも加えておかなければならないけれど(ド田舎へ行ったら寿司すらなくなる)。ということは本当にスゴいのはピカチュウってことになるのだろうか?これは本当に、スゴい!知らない人間がいない(これにマリオを加えてももちろんオッケー)。

大谷の存在は現状では、そして未来においてもアメリカでは絶対にピカチュウにはかなわない。ポケモンより知名度が落ちるセーラームーンやワンピース、NARUTOよりもはるかに下。これが正しい認識の仕方だろう。

でも、やっぱり大谷の活躍はワクワクする。せっかくだからこのメディアイベントに乗っかってしまおうか?

財務省の福田淳一事務次官が複数の女性記者にセクハラ発言をしていたことが物議を醸している。そして今回、バーでやり取りした女性記者との音声データが公表された。「おっぱい触っていい?」「手縛っていい?」といったベタにセクハラ的な次元の音声がそれだ。こうした「音声」という決定的な証拠がある以上、もはや福田氏のセクハラは明らかだが、さて、じゃあ「これで更迭」とバッサリ切ってしまってよいものだろうか?

朝のニュースやワイドショーをチェックしてみると、もはや福田氏は完全にクロである。麻生大臣も「事実ならアウト」としているし、それ以前に「処分を考えていない」と明言したことに対し、今度は大臣自身の責任問題まで指摘されている。つまり「やることが遅いんだよ!」という文脈。

実際、メディアの福田氏に対する報道はすでに「アウト」という前提で展開されている。その際、福田氏の経歴が紹介されている。東大法学部を卒業し大蔵省に入省、財務省で辣腕を振るう。性格は豪放磊落であるなどなど。しかし、これらはどうみても「エリートだから世の中をよく知らない」というベタで偏見に満ちた前提、学歴コンプレックスの人間の溜飲を下げるような展開だ。

こうした報道の仕方、ちょっと問題ではなかろうか?そこで、ここでは敢えて、いったん福田氏を擁護する形で議論を展開してみよう。ただし誤解を招かぬよう僕の立ち位置を最初に示してから。つまり「福田氏は、いずれにしてもセクハラ」。

こんな文脈で福田氏を擁護してみよう。今回のスキャンダルもちろん森家計問題に端を発している。そこで女性記者が事実関係を掴むべく事務次官にアプローチした。ただし、接近してきた女性記者たちがあまりに執拗で事務次官はウンザリしていた。そこで、なんとかこれを拒絶する方法はないだろうかと事務次官は考えた。

「そうだ、セクハラまがいの話をして話を煙に巻こう!」

そして福田氏は実行に移した。

ただし、福田氏はこの戦略の副作用を予想できていなかった。女性記者の一人が音声を録音していたのだ。肝心のネタをゲットできなかった件の記者。それなら、この「セクハラ発言」はスキャンダルとしてはもってこい。で、報道。事は大騒ぎになり、麻生大臣は「事実とすればアウト」とコメント、メディアは「すでにアウト」という辞令を発するに至った。

実は、メディアがやっていることは、この時点で人権蹂躙だ。鬼の首を取ったかのように取り上げることが出来る根拠は音声データにある。だから「間違いない」というわけだ。

そんなことはないのだ。たとえばメディアのインタビューで、インタビューイーがある人物についてコメントを求められたとしよう。そしてインタビューイーが「あいつはバカだ!」とコメントしたとする。ところが、この「バカ」という発言は当該人物への親密さや凄さ、規格外れの大胆さを表現する褒め言葉だった。しかし、これを取材した側はインタビューイーと当該人物が揉めているように演出したいがゆえに「アイツはバカだ!」だけを音声的に切り取り、それを擁護するようなコメントを拾い集め、他の賞賛している部分を全てカットして報道した。必然的結果としてインタビューイーの意図とは異なるインタビュー記事が出来上がった。つまり音声や映像、それ自体は事実であったとしても真実を語っているかどうかは別なのだ。そこには編集者側の加工が存在する。

これと同じ危険性が、今回のスキャンダルにはある。音声が事実でも、意図は別なところにある可能性があるからだ。もし、これが完全にセクハラで更迭に値するならば、メディアは明確な証拠を提示しなければならない。その方法は「女性記者と福田氏のやり取りの音声を全て公開すること」だ。それで白黒はハッキリする(女性記者の匿名性を確保したければ音声を変更すればよい)。つまり女性記者があまりにしつこく事務次官に突っ込んでいたら、我々は「こりゃ、酷いな?」ということになり、文脈を理解することが出来る。逆に、そうでないとすればこれは完全にセクハラ、福田氏は更迭だ。

現状の女性記者の音声を省略した報道はメディア側の文脈に基づいた悪意的なそれでしかない。だから、事実がハッキリしていない現状でメディアがやっていることは人権蹂躙なのだ。もう少しまともな報道をやって欲しい。

ただし、である。福田事務次官の戦略は女性記者を退散させる方法であっただけであったとしても、それでも十分にセクハラだ。懲戒には十分値するだろう。更迭レベルかどうかはさておいて。

さて、福田事務次官、どういったコメントをこれからするのだろうか。

ちなみに、もう一つ事務次官がセクハラであるかどうかをハッキリさせる方法がある。それは「福田氏が本件について男性記者に対してどうコメントしていたか」だ。

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