勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2018年03月

企業が実施している新卒採用に向け活動の一つにインターンシップがある。これは、企業が自らの職場を利用してリクルート学生に一定期間、特定の職業経験を積ませるもの。米国では二十世紀初頭から始められていたが、わが国での本格的な導入は90年代後半から。近年では60%近くの企業がこの制度を採用している。
 

インターンシップはリクルート学生、企業双方にメリットがある。学生側は大学在籍時に実社会の経験が積め、また志望する職種・企業とのマッチングを図ることが出来る。企業側は学生の適性を見ると共に、学生との関係構築が可能だ。インターンシップは、いわば「お見合い」なのだ。

 

しかしながらこのお見合い、あまり功を奏していない。2000年代以降の新規学卒者の三年以内離職率が平均33%にまで達しているのです。言い換えれば、マトモに機能していないということになる。

 

この原因の一つは制度の形骸化にある。インターンシップといっても、1日だけの「説明会」でしかないものが多いのが現状なのだ。これは政府が本制度実施を企業に指導したことに対するアリバイ的な対応だろう。こんなことをやっている企業、はっきりいってお里が知れている。目先のことしか考えていないのは明かだ。

 

むしろ企業は本格的なインターンシップを実施した方がメリットを得られるはずだ。これが本当の「お見合い」ならば、互いをじっくりと観察することが出来、そこから相互のミスマッチを減らすことが可能になる。それによって入社した社員は企業に愛社精神を抱き、長期にわたり献身的に働いてくれるようになるわけで、結果として企業のクオリティ自体を高められるのだ。要は「企業は人なり」。長期的な経営視点に立つならばインターンシップの充実ほど有意義なものはないことを、そろそろ企業を自覚すべきだろう。リクルート産業に丸投げみたいなことをやっているようでは、企業の人材確保はおぼつかないのだから。

 

エスカレーターを歩くのは危険

昨年暮れあたりから突然、エスカレーターの乗り方についての議論がかまびすしい。いや、議論というよりほとんど一方的な通達みたいな感じになっているのだが。

それは

「エスカレータは本来静止し、ベルトに手をかけて利用するもの」であり、現在一般的に利用されている「片方をエスカレーターを歩く人のためにあけておくというのはおかしい」というものだ。
理由は「本来、そのようには出来ていない」「急停止した場合、歩いている人が転倒し負傷する恐れがある」「移動手すりの側の手が不自由な人が危険に晒される」などがそれだ。いわば危険性に焦点を当てた理由なのだが、それならばなぜ今まで何ら指摘がなされてこなかったのだろうか?

今回のエスカレーター問題のように、議論がメディアで展開されはじめることで問題意識が喚起され、人々の意識・無意識の認識の中に次第に行動パターンが出来上がっていくプロセスは、社会学では「アジェンダセッティング(=議題設定機能)」とそれが浸透していく「涵養効果」という言葉で表現されている。たとえば40年前、タバコの臭いや健康への影響を認識している人間はマイノリティだったが、今では「タバコは害悪」という認識が一般化し、愛煙家の居場所を限りなく奪うという状況にまで事態は進展しているが(これは明らかに喫煙の自由(=喫煙権)に抵触しているが、完全に無視される極端な事態にまで至っている。言い換えれば喫煙者の人権を剥奪する「差別」が発生している)、これは典型的な「アジェンダセッティング+涵養効果」の影響だ。そして、今度はエスカレーターの乗り方が俎上に載せられはじめた。

こうしたものの謂いを正当化する大きな権威としてあげられているのが科学に基づく「危険性」の警鐘で、エスカレーター問題ではそのことがアジェンダセッティングされている。確かにエスカレーターを歩くのは歩かないのに比べれば危険であることは間違いない。しかし、危険なものは他にもいくらでもある。それゆえ考えるべきは、なぜエスカレーターだけが突然やり玉に挙げられるようになったかにある。

論点が逸らされた「エスカレーターで歩かないことの科学的根拠」

メディアは片側を開けないのが正しいという考え方を援護するために、摩訶不思議な科学的な説明を根拠として持ちだしている。これは、たとえばフジテレビがワイドショーで実験し証明しているので、ちょっと取り上げてみよう。それは「エスカレーターという人を運ぶツールの合理性」という科学に依拠していた。実験の内容はこんな感じだった。

40名程度の人間を被験者にしてエスカレーターを使わせる。パターンは二つ。一つは、いつも通り立っている人は左側(関西は右側)、その際、エスカレーターを歩く人のために右側(左側)をあけておくという既存のパターン。もう一つは全員を立たせたままにするというもの。「人間を効率的に運搬するという点でどちらがよいか」というのがこの実験なのだが、結果は後者だった。一定時間あたりの人間の運搬数を増やすという合理性に基づけば、全員を立たせたままにしておいた方が科学的に正しいのだ。そして、これを援護射撃的な説明材料に加え「安全面で歩かないのが正しい」という主張を正当化しようとする。

しかしこのレトリックが誤りであることにお気づきであろうか。
問題はそもそも目的の設定が根本的に異なっている点に求められる。つまり「通行者は何のためにエスカレーターを利用するのか?」に関する議論が巧妙にすり替えられているのだ。現状ではその利用は二つの目的に基づいている。一つは階段の上り下りの負担を軽減すること。これだけのことを重視するのであれば、確かに全員が立っているのが正しい。しかし別の目的を持っている利用者も存在する。それは、いうまでもないが「急ぐ人」だ。この用途の人間はかなりの割合を占める。そして、この二つの目的を達成するという目的に基づけば、科学的に合理的なのは、もちろん現状の利用法の方だ。絶対数はともかく二つのニーズが満たされる。ところが、この実験は安全性(加えて運搬の効率性)という言葉を錦の御旗に立てて、後者の目的に基づく利用者を抹殺しているのだ。つまり「急ぎたい」という権利の剥奪。これは喫煙権の剥奪とまったく同じ構造、言い換えれば議論のすりかえになる。

危険とは何か?

しかし今、われわれの日常生活の中に染みこんだこのエスカレーターの使い分けが危険性という前提の下に否定されようとしている。なぜか?。実は危険性という言葉自体にも巧妙なトリック=すりかえが隠されている。

前述したようにエスカレーター以上に危険なものは山ほどある。例えば電車のプラットフォームや自転車の右側運転は、ある意味エスカレーターよりも遙かに危険だ。前者はすぐ目の前をものすごいスピードで列車が駆け抜けるし、後者は歩行者の危険度をアップする(実際、事故が多発している)。ところが、これらについてはほとんど指摘されない。

その理由は二つ考えられるだろう。一つは費用的な問題。プラットホームにホームドアと呼ばれる自動開閉式の落下防止ドアを設けるためには膨大な費用がかかる(ホームひとつあたり10億円程度)。現状ではたとえば飛び込み自殺によってダイヤが混乱するほうが経費的に安く済む。自転車の取り締まりも同様だ。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」ではないが、自転車に関する交通法規を無視している利用者はとんでもない数に上る。これを厳しく取り締まろうとするならば膨大な数の警官を増員しなければならないし、利用者への徹底した教育システムも用意する必要がある(教育に関しては、現状では自動車免許書き換え時に自転車法規遵守を促す簡略なビデオを見せる程度)。だからスルーするのだ。一方、エスカレーター問題はこれらに比べれば遙かに少ない経費で可能。メディアでキャンペーンし、世論を形成すればよいだけだ。だから「危険」のカテゴリーとして取り上げられるのだ。

もう一つは責任性に関する問題。プラットホームの飛び込みも、自転車右側通行も、一旦事件が発生した際には当事者、すなわち飛び込んだ人間と自転車運転者側に責任が発生する。原則、鉄道会社、そして管理する警察と自転車メーカー側に責任が及ぶことはない。つまり利用者の自己責任。一方、エスカレーターの場合、ひとたび事故が起これば利用者ではなく設置者・管理者側に責任性が発生する可能性がある。アメリカ並みに訴訟社会化しつつある日本ではこのリスクは年々高まっている。そこで、こうしたリスク回避のために現状のエスカレーター利用法を「危険」とするのだ。何のことはない、施設を用意する側の都合で危険(この危険を「リスク」と呼ぶことにしよう)が設定されているである。

「危険」という言葉の危険性

そういえばディズニーランドが朝オープンする時、パーク内に入るとキャスト(従業員)が必ず「走らないでゆっくりとお進みください」という言葉を連呼していることを思い出した。しかし、多くのゲスト(入場者)は、そんなことは無視だ。誰も物理的に制止されることがないことを知っているからだ(そんなことよりファストパスをいち早く抜くことが重要だ)。でも、それでよいのである。ディズニーランドがこの一声をかけた瞬間、万が一、そこでゲストが転倒しケガをしたとしても、制止を促していた事実が担保になり、運営側のリスクが回避されるからだ。この一言は要するには「運営側は責任を取りましたよ。ケガの場合は自己責任」というメタメッセージに他ならない。そしてこの声がけ、早く中に入りたいゲストにとっても運営するディズニー(オリエンタルランド)側のリスク回避にとっても好都合、いいかえれば双方の目的にとって科学的かつ合理的なのである。

エスカレーター利用法変更促し問題は、結局のところ「危険とは何か」についての存在論的問いをわれわれに投げかける。「危険」という言葉をメディアや権力者、あるいは社会運動を行っている側が発するとき、われわれは一度、この危険認識がどのような立ち位置に基づいているかをよくよく考えるべきだろう。得てして危険は「利用者」ではなく「設置者・運営者」に配慮して設定されている。つまり「危険回避」ならぬ「リスク回避」。

「危険」という言葉。実はかなり「危険な言葉」なのだ。

↑このページのトップヘ