勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2016年12月

除夜の鐘、鳴らすのやめました。えっ?

除夜の鐘を鳴らすのを自粛している寺があるという。東京小金井市の八幡山千手院や静岡県牧之原市の大沢寺などがその典型で、鳴らすのをやめたり、あるいは「除夕の鐘」として夕方に鳴らしたりしているらしい。自粛理由は単純で、周辺住民から苦情が出たからだ。「深夜に鐘をガンガン鳴らすのは迷惑」というわけだ。しかし、これ、ちょっと違うのでは、いや、自粛するのはむしろおかしいのではないだろうか。

「弱者こそ強者」という矛盾

権利意識の増大に伴って、現在、妙な逆転現象が起きている。「弱者こそ最強の強者」という状況がそれだ。平等がいわば「機会」の平等ならぬ「結果」の平等となっていて、弱者の立場にいる側がクレームをつけると、それがデフォルトとして採用されてしまうような現象だ。たとえば小学校での授業。児童の間では、当然ながら学力には優劣がついてしまうが、この時、成績のかんばしくない児童の保護者が「教育が不平等に行われている」とクレームをつけると、今度はこの児童のためにクラス全体のレベルを下げるといった対応が行われたりする。この場合、今度は成績のよい児童が犠牲になるのだが、それはもう「言った者勝ち」なので、割を食うのは成績のよい子どもとなる。弱者の勝利だ。ただし、もし成績のよい子どの保護者がこれについてクレームをつけたりした場合、学校側は、今度はこちらへも対応することを余儀なくされ、その結果、教員負担、そして教育費用の膨大化という事態を生む。当然、ここには税金が投入されるわけで。

弱者が強者となるメカニズム

この「弱者こそ最強の強者」という図式はネット社会によって一層拍車がかかったとよいだろう。匿名で何らかのクレームをつけ、それを他の人間も興味本位で煽り立てることで炎上が発生する。で、ここで留まっていればよいのだが、炎上したものから今度はマスメディアが安易にピックアップして大仰に報道する。こうなるとクレームをつけられた側は、つけられた内容が事実であろうが難癖であろうが対応を余儀なくされることになる。典型的な事態はオリンピックのエンブレム事件で、採用された佐野研二郎の作品は、その疑惑が立証されることもなく採用を取り消された。ネット上での炎上→メディアのピックアップ→JOCがビビった→採用取り消しという流れ。そう、これこそがいまどきの弱者による強者叩きのメカニズムに他ならない。この循環によって、弱者は時に最強の強者となることが可能となったのだ。「除夜の鐘ヤメロ」というクレームもまったく同じ構造だ。匿名の弱者=超マイノリティに属する一群のクレームによって、大多数の人間が期待しているイベントが中止されるのだ。

文化の否定と消費の肯定

但し、除夜の鐘の中止に関しては、事態は深刻と考えた方がよい。超大多数が支持する行事、つまり1000年以上も続く文化に対する否定だからだ。これまでが否定されてしまうのは、はっきり言って異常事態だろう。自らが拠って立つ文化の恩恵を受けている一方で、自分にとって都合の悪い文化を否定するのだから。そのくせ、こうやってクレームをつけている側が、ハロウィーンだクリスマスだと言って、街中で大騒ぎして平気という事態も、ひょっとしたらあるかもしれない。だとすれば、これは明らかに矛盾している。ちなみに、今、同じような例としてあげたハロウィーンは大々的にイベントを開催している地域の近隣住民にとっては大迷惑の可能性が高いのだけれど、こちらについてはあまり触れられることはない。むしろ大々的かつポジティブに報道される(迷惑であることが報道されることもあるが、これはきわめて小さく取り扱われる。事の構造はこれも同じであるのだが)。これもまたメディアのせいだろう。こちらは「儲かるので、あまり騒ぎ立てない方がいい」といった認識が無意識理に働いている可能性が高い。しかも、これは本来の文化ではなく、あくまで商業主義に基づいたメディア・イベントにもかかわらず、である。

メディアは、時には「黙っている自由」を行使する方がよいこともある。

メディアが取り上げるネタの原則は「人が犬を噛んだ時」。つまり、常識外のことが起こり、それが世の耳目を集めるというパターンだ(逆に「犬が人を噛む」のは常識=日常なのでネタにならない)。今回の「除夜の鐘ヤメロ」は超マイノリティに属する出来事だが、この非常識=常識外が「人が犬を噛む」となるのでメディアは取り上げる。ただし、そうなると、次に例の「弱者による強者叩きのメカニズム」が稼働する可能性が高いことをメディアは自覚しておいた方がよいだろう。同じようなクレームが後続する可能性は十分に考えられるのだから。言い換えれば、メディアは時には勇気を持って「黙っている自由」を行使することも大切なのだ。あるいは取り上げる場合には、メディアは見識を持って、つまりこれをかき立てるとどうなるかを十分踏まえた上で取り上げるべきなのだ。場合によっては「こんなことはバカバカしいから止めた方がよい」と主張するくらいの責任性を担う文面にすべきだろう(これって、かつては”きれいごと”の言葉だけれども「ジャーナリズム魂」と呼ばれていた)。

今年、来年、そしてこれからもずっと、除夜の鐘を聞きつつ新年を迎えられることを、僕は節に希望している。

「ラーメンは音をたてて食べるべきである」は正しいか?


「ヌーハラ」とは「ヌードルハラスメント」の略で、ラーメンなどの麺類を音をたてて食べるのが国際的なマナーに反していて下品ゆえ (「海外では一般に麺類を食べるときに音をたてるのはよろしくない」というマナー。この「海外」がどこを指すのかは謎)、ハラスメントに該当することを指している。

これに対して政治家の中田宏氏は11月25日のエントリー『ヌーハラ問題。「ラーメンは音を立てずに静かに食べましょう」・・・んなワケないでしょ!!』(http://blogos.com/article/199561/)で、

「『Japan Guide.com』のサイト(英文)には「ずずっと音を立てるのは風味を引き出すので良い食べ方だ」と書いてありますし、このように日本のマナーをどんどん広げていくべきです。」

と、音をたててラーメンなどの麺類を食べることを「美味しい食べ方」「日本のマナーとしてどんどんと広げていくべきです」とコメントしていた。つまり音をたてて食べるのがデフォルトだから、異文化の人間はこれをちゃんと理解すべきであるという主張だ。

氏がこのように主張する根拠としてあげているのが以下のエピソードだ。

「私は過去にインドに行った時に手で食事をしたことがあります。
左は”不浄の手”とされ右手で食べるのですが、正直、自分の手を舐めるような変な感じがしました
これをかつて欧米人は「下品だ」と言い、また日本や中国の箸についても「下等民族の道具だ」などと言っていましたが、今では和食や中国料理が世界中にあるなかで上手くはなくても欧米人も自ら箸を使うようになりました。」

ラーメン・蕎麦・うどんを音をたてて食べるのが美味しいと感じるのは僕も同じだ。横でモソモソと音もたてずに麺をすすっている人間に気づくと、こちらが逆にヌーハラを受けたような気分になってしまう。だから、中田氏の言わんとしていることは、わからないでもない。

但し、留保がつく。それは「麺を日本、あるいは日本文化が支配的である環境で食べる場合」だ。中田氏の問題点は氏が依拠する、いわば「郷に入れば、郷に従え!」というところにある。そこで、これを今回の考え方のデフォルトとしてみよう。そうすると、中田氏は「郷に入れば、郷に従え!」を主張しながら、立ち位置を変えた瞬間「郷に入っても郷に従っていない」、つまり自家撞着に陥っていることがわかる。


現在、世界に広がる日本文化は”J.カルチャー”

その前に一旦、話を日本文化の海外への定着に振ってみたい。1960年代の高度経済成長以降、日本の知名度については「クルマや電化製品などのモノ、つまり消費や技術に関するものについては世界に知られるようにはなったが、日本の文化、つまりコト・伝統については認知度が低いまま」と言われてきた。そこで、なんとかして日本の文化を売り出そうといろいろな試みが行われてきた。ベタに「ゲイシャ、フジヤマ、スシ、ニンジャ、ゼン、ブシドー、ワビ・サビ」みたいな海外のステレオタイプを前面に出すやり方。あるいは他文化、とりわけ西欧に阿るやり方がそれだ。音楽だと英語でロックを歌って売り出すなど(フラワートラベリンバンドやバウワウ等。例外はサディスティックミカバンドで、日本語で歌っていた)。ただし、結局のところサッパリだった。

で、「どうやったら日本文化が世界に知られるようになるのだろう?」と手をこまねいているうちに、ひょんなところから日本文化は認知されるようになった。そこで海外に定着した「もうひとつの文化」をそれまでの日本文化とはアプローチが異なるということで、とりあえず「J.カルチャー」とカタカナで表記しておこう。J.カルチャーはアニメやマンガといったオタクカルチャーからジワジワと世界に浸透していった。

J.カルチャーは、これまでの日本文化とは二つの点で根本的に売り方が異なっている。一つは「文化として売ろうとはしていなかったこと」。いいかえれば「消費物」「ビジネス」として売り出したことだ。さしあたり「カネが入ればそれでいい」という、きわめてイイカゲンな売り方だ。だから日本アニメは安売りされ、あっちこっちで放映された。もう一つは「こちらのやり方を押しつけはしないが、迎合もしない」という売り方だった。これは「買ってもらうのが第一の目的なので、文化振興云々はどうでもいい。また、いちいち手間暇かけて相手向けにカスタマイズするのもカネがかかるので、あまり手をつけない」というスタンスが、結果としてこうなったと考えればいいだろう。前述のロックバンド(七十年代前半)はこれと反対で、明らかに当時のロックシーンに阿っていた。全部英語で歌い、サウンドのスタイルも世界の潮流に準拠していた。要するにアグレッシブに「世界に出たい」と考えていたわけだ。で、阿りつつ手間暇かけていろいろ考えた。とはいっても、結局はいわば「猿マネ」で、こう言っては内田裕也さんに申し訳ないが、今聴くとかなり恥ずかしい(その代わり、テクニックはスゴかった!)。

ところが前述したようにアニメやマンガは違う。阿っていない、というか垂れ流しなので勝手に広がるだけだった。これがかえってよかった。安売りした商品がメディアに流れ、子どもが飛びつく。で、これが世代交代することで広い世代に浸透していき、気がつけばジャパンアニメは世界中を席巻していたのだ(映画『マトリックス』監督のウォシャウスキー兄弟が『マッハ go go go』(”Speed Racer”)を、ディズニーが手塚治虫の『ジャングル大帝』をパクって『ライオンキング』を制作するなんてことが結果として発生した)。

ただし、これは「垂れ流し」なので、阿ってこそいないけれど、どのようにJ.カルチャーが理解されるのかは、これを受け入れた文化に委ねられた。つまり勝手にカスタマイズされた。たとえば「ポケットモンスター」は”Pokemon”として普及した。マリオもまた同じでファミコンならぬNintendo(まったく同じハードだが)のキャラクターとして普及した。そこに日本の文化を「きちんと教えよう」なんて押しつけがましい「邪心」はまったくない。邪心は「カネ儲け」だけ(笑)。すると、J.カルチャーは「日本文化」であることも知られないうちにグローバル化したのだ(リオの閉会式のパフォーマンスでマリオやハローキティがメイドインジャパンであることを知った人間はかなり多いんじゃないんだろうか)。そう、J.カルチャーは「郷に入れば郷に従え」ならぬ”
When in Rome, do as the Romans do ”として広がったのだ。

中田氏の立ち位置では日本文化はグローバル化しない

中田氏はこの認識が抜けている。コメントの立ち位置は「麺を音をたて食べるのは絶対善」あるいは「箸を使用することは下品なことではない」というナショナリズム的な思考停止だ。あるいは「カレーを手で食べるのは下品である」という欧米かぶれ、つまり「欧米か?」とツッコミを入れられてしまうような心性だ(こちらは西欧至上主義、あるいはインド文化蔑視の態度ということになる。全然、郷に従っていない)。

文化のグローバリゼーション(この場合、日本文化の普及)は、中田氏のような立ち位置では絶対に発生しない。文化人類学にクレオール化という言葉がある。輸入文化は、それを受け入れる文化の文脈で理解され変更されることで初めて定着する。だからローカライズという洗礼を受けないわけにはいかないのだ。

アニメはもちろん、寿司やラーメンなど、日本文化は今や着々と世界に浸透しつつある。ただし、これらは横文字の、つまりAnime, Sushi, Ramenとして。アメリカの場合をみてみよう。今年7月ロスで開催されたAnimeEXPO2016では三日間の開催期間に26万人が集結した。会場では日本語のアニソンが流れ、あちこちに日本語の文字を見つけることができ、千人を超すコスプレイヤーが会場内を闊歩していた(詳細はこちらを参照。http://blogos.com/article/182883/)。しかし、これらはちょっと日本のそれとは違っていた。そして館内に響く入場者の会話は、あたりまえだがほぼ英語だった。

Sushiも同様だ。基本は巻き寿司、しかも裏巻で、ベースになるのはアボガドやクリームチーズ、サーモン、そこにシラチャーや )ソース、ハラペーニョなどなどあやしげなソースがぶちまけられている。反面、光り物を見つけることは難しい。で、そういった勝手にローカライズされた寿司=Sushiがその辺のスーパーであたりまえのように売られている。Ramenはまだ勃興期を脱してはいないが(大都市圏を除く。インスタントラーメンは、もはや完全に定着)、チキン味を中心として、そして味も少し変わったかたちで広がっている。もちろん、音をたてて麺をすする人間を見つけることは難しい。そしてこれらはいずれも阿ったのではなく、勝手にカスタマイズされて現地の文脈に取り込まれたのだ。つまり”When in Rome, do as the Romans do ”。だから音をたてるのは原則、ヌーハラになる。

残念ながら中田氏のコメントにはこういった文化伝播のメカニズムに関する認識が抜け落ちている。文化は売り込むと言うより、勝手に広がるのだから。そして、こうした歴史はこれまでずっと繰り広げられてきたはずだ。日本文化は現在J.カルチャーとしてブレイクしつつある。いや、もうしているのかもしれない。

文化のカスタマイズは日本文化の輸出に限った話ではない。日本もまた異文化の輸入に際して同じことをやっている。例を一つ紹介しておこう。フジテレビ『料理の鉄人』に登場した中華の鉄人・陳建一の父・陳建民は日本に四川料理を紹介した人物として知られている。その典型がエビのチリソース、通称「エビチリ」だが、これは建民が四川料理を日本に定着させるために乾焼蝦仁(カンシャオシャーレン)をアレンジしたものだ。四川料理は豆板醤がふんだんに使われるため辛く、このままでは日本人の口には合わない。そこで陳は豆板醤の量を減らし、代わりにケチャップ、スープ、卵などを加えてマイルドに仕上げた。その結果、われわれ日本人にっとって四川料理はきわめてポップな中華料理の一ジャンル、エビチリは家庭料理の一皿となったのだ。

本物(=オーセンティック)の日本文化が認められることはあるのか?

話をヌーハラに戻そう。じゃあ、海外(あくまで今回議論の対象となったあやしげな「海外」限定ですが)で音をたてて麺をすするのは結局ダメなのか?(ちなみに音をたてている文化が日本以外にないわけではない)。解答の一つは「まずはダメ」ということになる。ローカライズの洗礼を受け、一般に広がる過程では、音をたてろとか、そんなことをいちいち指摘するのは「野暮」なのだ。ただし、こういった「変形したかたちでの普及=音をたてずに麺を食べる」の後、オリジナルな、つまりオーセンティックな料理や食べ方が認められることは十分にあり得る。前述したエビチリだが、これでわれわれは四川料理を知った。そしてその認知度が高まれば、今度は「本物の四川料理を食べてみたい」という気持ちも湧いてくる。実際、現在、オーセンティックな四川料理を食べさせるレストランは国内でもあちこちにある。その時、客は舌のモードをオリジナルな方にセットし直しているはずだ。日本料理(そして日本文化)も同じで、普及すれば、オーセンティックを指向するような人間もまた登場する。そして、それに合わせたかたちで海外で施設が設けられる。つまり「本物のラーメン屋」がオープンする(いや、もうしているのだけれど)。そこでは、当然「音をたててラーメンをすすること」がデフォルトとなるはずだ。ちなみに、今僕が滞在している米・トーランス(ロスの隣の都市)には十件以上のラーメン屋があるが、音をたてることについてはお構いなしだ)。

こうして文化はグローバル化していく。そして、今、日本文化=J.カルチャーは大ブレークしつつある。



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