勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2016年09月

アメリカでものすごい勢いで普及している乗り合いタクシーUber。日本でも首都圏ではアクセス可能だが、今のところ爆発的な勢いとまでには至っていない(というか、あまり知られていない)。今回はUberの日本での普及の可能性についてメディア論的に考えてみたい。

Uberは「白い白タク」

最初に、先ずUberについて簡単に紹介しておきたい。「乗り合いタクシー」と最初に表記したけれど、これを解りやすくするために、似て非なるものとの比較で説明しよう。それは「白タク」だ。ご存じのように白タクは営業許可を得ていないタクシーのこと。この名称が生まれた頃、タクシーには色がついていて、一般の自家用車の主流が白だったことから命名されたらしい。要するに一般人が勝手にタクシー業をやってしまうことを指しているのだけれど、いろいろと問題があって禁止されている。問題とは、これが暴力団の資金源になっていたりしたこと。またメーターがないので適正価格がなく、場合によってはボッタクリに合うというトラブルが発生することなどが挙げられる。モグリなので事故に遭遇した場合の問題も当然、ある。

Uberも一般人が自家用車を利用してタクシー業を始めてしまうのだから、この部分では白タクと同じだ。だが根本的に異なるところが一つある。白タクと違ってトラブルフリーのシステムが徹底されているところだ。現在僕が暮らしている米ロサンゼルスの状況を踏まえながら説明してみよう。
先ずドライバーについて。これは白タクと同様一般人。たとえば僕の知り合いも仕事の合間に「Uberで一稼ぎ」ってなことをやっている。ただし、採用にあたっては審査がある。犯罪歴、所得、事故歴などがチェックされる。だから一般人だからと言って、白タクみたいにドライバーがアブナイ人になるかもしれないということはない。

次に料金。完璧にクリアーなシステムで支払いが管理されている。利用者はUberアプリをスマホにインストールしサインアップする。その際、支払いのためのクレジットナンバーなどの請求先入力を要求される。利用に際しては、現在地と目的地をアプリで入力し(MAPをタッチするだけ。グーグルマップでの検索をイメージしていただきたい)、車のカテゴリー(ベーシックなものからゴージャスなものまで。また乗り合いを許可するかどうかの選択も)を選ぶと乗車料金が提示される。これを選択し予約が完了すると、やってくる車の車種(色も)とドライバーの写真が現れ、およその待ち時間が提示される。まあ、かかっても5分以内だ。支払いは、アップに提示された料金のみ。チップはない。そして決済はアプリを介してなのでドライバーとの金銭のやり取りはキャッシュもクレジットカードも一切無い。ドライバーは料金を決定できないし、その場で受け取ることもできない。つまり金銭の授受はすべてアプリを介したやりとりになる。だからドライバーは一切悪いことができないのだ。乗車後には即座にメールを介して領収書が発行される。「領収書ご入り用ですか?」なんてやり取りも、もちろんない。税金対策も簡単だ(笑)

いや、この素人ドライバーの管理はこれだけに留まらない。乗車後にはドライバーについての評価を五つ星で要求されるが、もし仮にこの評価が低ければドライバーはクビになってしまうのだ。加えて乗客の安全も確保されている。全て保険に加入済み。ようするに一般の白タクが悪徳かつ危険で、これを「黒い白タク」と称するならば、Uberは「白い白タク」ということになる。

早い、安い、安全

そして、ここからがスゴイところなのだが、とにかく料金が安い。現在、自分が住んでいるトーランス市のアパートからロサンゼルス空港までは15キロメートルほど。一番安い乗り合いを利用すると、料金は二人で$15程度。これがスーパーシャトルというミニバンの送迎サービスを利用した場合、価格は同程度だが課金は一人あたりなので$30を超える。タクシーなら$45ドル+チップで$50程度になる。そうUberはバカ安なのだ(ただし渋滞やニーズが高いときには料金がそれに合わせて変更される。もちろん高くなる)。ちなみにスーパーシャトルの場合、ずいぶん前から予約を入れなければいけないし、タクシーもそれなりに待ち時間がかかるけれど、Uberはホントにすぐにやってくるので、乗り込む場所に到着してから予約するということになる。

つまり、利用する側にとっては「早い、易い、安全」と、いいところしかない。一方、利用してもらう側からも、手軽にカネ稼ぎが可能という点では一般人にとって便利この上ない(営業時間をドライバーが自分で決められる)。使われていない自動車を有効活用するという点でもメリットは多い。

都市の活性化ツールとしての可能性

いや、それどころかUber、場合によっては社会構造に大きな影響を与える可能性も高い。たとえば交通インフラが充実していないエリア、言い換えるとクルマがないと生活できないエリア、その典型は地方都市だが、では人々がこれを利用して廉価で街中を歩き回ることが可能になる。一例として、僕が以前生活していた宮崎市を挙げてみよう。宮崎市の繁華街は郊外のイオンなどに客を取られてしまった結果、典型的なシャッター街となっている。これは駐車スペースが十分ではないところにも大きな理由がある(かつての商店街なので駐車場が少ない。しかも料金を取られてしまう)。その一方で飲み屋街としての勢いは続いている。比較的遠くから飲みに出てくる人間の典型的なパターンは自動車利用。だが、当然帰りは運転できない。そこで代行タクシーが普及しているのだけれど、これがUberに取って代われば不要になる、といった具合だ。また駐車場が確保できなくても人々がショッピングにやってくることができる。要するに街を活性化させるツール=メディアとしても機能する可能性を持っているのだ。これは最近、コミューターとして再注目されつつある市電なんかよりももっと現実的だ。初期費用は僅かで済むし、利用者はどこでも拾えるんだから。

Uber普及を妨げるもの

というわけで、とにかく便利この上ない交通手段Uber。日本でもすでにいくつかの場所で登場しているが、残念ながら普及していない。日本はタクシー料金がバカ高なことで有名。だったらもうとっくに普及していてもよさそうなものなのだけれど(たとえばタイ・バンコク市内だったらUberの普及はかなり難しい。初乗り35バーツ(100円)で400メートルおきに6円ずつあがっていくバカ安システムなので)。

理由は二つある。ひとつは一般人がUberを知らないこと。僕みたいにたまたまアメリカなどの外国でその利便性を知った人間がブログなどで紹介するようなことをしてはいるけれど、一般人にはなんのことやらさっぱりわからない。ヘタすると「白タクじゃん、それ!」ってなことになる。ところがシステムを理解して利用するようになると、Uber利用は不可逆的なものになっていく。つまり、一度使ったらもうやめられない。タクシーなんかバカバカしくて使えない、ってなことになるくらいUberは魅力的な交通手段なのだ。だから、先ず存在を認知させることから始めなければならない。

ただし、認知しようにも何処で使えるのかすら解らないというのが現状。こういったUberインフラの整備を妨げているのが、ようするに行政なのだ。行政としては既存の産業の保護をする必要がある。つまりタクシー業界を守らなければならないという前提がある。実際、もしUberが普及するようなことがあれば、ものすごくたくさんの数のタクシー業社が倒産するだろう(実際、大アメリカ大都市圏での移動手段利用についてはドラスティックな変化が今起きている。とりわけクルマがなければ暮らしていけないようなロサンゼルスはその典型だ)。いやタクシー業という職種自体が消滅する可能性すらある。そうなると、これを保護するのが政治屋さんのお仕事ということになる。だから、かつての音楽配信サービス(サブスクリプション・サービスと呼ばれる定額聞き放題サービス)と同様、政府とか既存の民間がタッグを組んで、これを徹底排除するという図式が出来上がっていると考えるのが妥当だろう。そして、そのひとつとして、とにかくUberの存在を一般人に知らしめないというやり方が、現在やられていると僕は見ている。そう「寝た子は起こさないようにしよう」というわけだ。

オリンピックがUberというパンドラの箱を開ける?

現在、わが国でUberは「黒船は浦賀までやって来ているが、まだ通商条約が締結されていない」といったところだろう。ただし、いずれパンドラの箱が開き、一気に普及する状態になるはずだ。そもそも、現時点で大幅に規制が緩和されUber自体が大々的に普及に乗り出せば、一気に普及してしまうだろう。一度使ったらもうやめられない。Uberはそれくらい利用する側にとってもされる側にとっても不可逆的で魅力的な新しいシステムなのだから。いずれ行政や民間も抗うことができない状況がやってくるはずだ。何かのきっかけで、堤防は必ず決壊する。で、こういった新しいシステム(そしてインターネットが生み出したシステム)、賽が投げられるのは早ければ早いほどよいと僕は考えている。

ただし、現実的に考えた場合、実質的なUber普及元年がやってくるのは2020年あたりだろう(もちろん、これに遡って普及が始まるのだけれど)。言うまでもなく、これは東京オリンピックの開催年。おそらく、海外からやってくる客の利便性を考慮し、様々な規制がどんどんと撤廃されるのがこの時期なのではなかろうか。

ただし、それによってタクシー業界は運営方針を見直さなければならない、あるいは廃業せざるを得ない、あるいはまたUberに吸収されていくことになる、ということになるのだろうけれど。システムとは、そしてメディア(この場合ヒトやモノを運ぶメディアという意味で)とはそういうものなのだから。

映画の世界では数年前から4D映画というカテゴリーが登場している。ご存じ3Dはメガネをかけて立体映像を楽しむものだ。4Dは”four dimension”なわけで、名前からすればリアルワールドを超えてしまうのだが(笑)、4Dは3D技術に各種の体感が付け加えられたものを指している。4DXは風、水しぶき、香り、煙、風圧、雷、雨、泡、それにシート可動などの効果が。最近では地響き、霧、カラダへの感触、シートの突き上げが加わったMX4Dというシステムもあるらしい。

先日アメリカ・フロリダにあるウォルトディズニーワールド(以下WDW)のバックステージ(バックステージ=キャスト=スタッフのみが入り込むことのできるエリア)を覗く機会があったが、そこで4Dにまつわるちょっと面白いエピソートをキャスト=スタッフから聞くことができたので紹介したい。

最新技術の導入を志向し続けたウォルト

ウォルトがアニメ映画、そしてテーマパークを中心としたエンターテイメントビジネスの第一人者となった背景には、これらをより魅力的に見せるために、様々なテクノロジー、しかもこれまで使われてはいなかったものに次々と手をつけていったという事実がある。最もよく知られているのはミッキーマウスのアニメで、ミッキーの出世作『蒸気船ウイリー』(1928)は、アニメとしては実質的に初のトーキー(音入り映画)だった。これ以前にも、すでにトーキーは存在したが(アニメ映画初のトーキーは『なつかしのケンタッキーの家(Old Kentucky Home)』(1924年)実写映画初のトーキーは”Jazz Singer”(1927))、本作は音の映像が完全に一致し、しかもその組み合わせによって新しい表現方法を開拓していた。それが結局、後の技術のデファクト・スタンダートとなっていったことで「実質的に初のトーキーアニメ」と呼ばれるようになった。ウォルトは技術を志向し、そしてそれを世に放つときには作品に新風を吹き込む完璧なものにすることに余念が無かったのだ。

ウォルトは終生、こういった技術に対する執着が止むことがなかったが、その志向の一側面は、いわば「4D技術に向けて」と表現するのがふさわしい。歴史を辿りながら、このことを確認してみよう。

70年以上も前にアニメに4Dを取り入れようとしていた

一つ目は3D的な技術の追求について。これについては1933年に開発され、37年の二作品『風車小屋のシンフォニー』(原題”The Old Mill”)、『白雪姫』で初めて使われたマルチプレーン・カメラがある。原画と複数のセルを直接重ね合わせるのではなく距離をおいて浮かせ、真上からカメラ撮影するというもので、それぞれのセル画を上下することで微妙な立体感を作り出すことに成功している。その技術がよくわかるのは『ピノキオ』『バンビ』の冒頭シーンだ。とりわけバンビは秀逸で、森のシーンなのだが、思わず実物、あるいは3Dメガネなど不要と思いたくなるくらい見事な立体感が作り出されている。

4Dの技術に乗り出したのは1940年に上映された、セリフゼロ、クラッシック音楽に合わせて映像が流れ続ける実験的作品『ファンタジア』だ。映画館内に多数のスピーカーを配置し、それぞれ別の音を出させることで、立体音響、つまりサラウンドを可能にしようとする試みだった。この技術には「ファンタサウンド」という名称が与えられた。ただし、技術的には可能でもこの設備を映画館内に設置するには膨大な費用がかかるため、結局、ごく一部の映画館だけで、しかも3chでの立体音響になったという話は有名だ。ただし、録音は9トラックで行われていたため、戦後のリバイバル上映に当たっては立体音響が実現し、好評を博したという。また、現在販売されているDVD/Blu-rayでは、このサウンドが英語は7.1ch、日本語は5.2chで楽しむことができる。

さて、ここまでの情報は結構よく知られた話だ。しかしWDWのキャストの説明によれば『ファンタジア』制作に際しては、もう少し話が込み入ってくる。ウォルトの欲望はサウンドだけには留まらなかった。構想にはサウンドの他に、前述した4Dの技術も織り込まれていたのだ。具体的に思いついたのは風と煙。ただしこれは却下された。当時は映画館内でこれらを実現することは経費的にも技術的にも不可能だったのである。会議の席では他のスタッフから「映画館を火事にするつもりですか?」とたしなめられたという。

ただし、これくらいのことではめげないのがウォルトで、こういった4Dへの志向は映画制作を飛び越し、結局テーマパークの建設によって実現することとなる。1955年オープンのディズニーランドはこの時点ですでに蒸気で走る本物の機関車がパークを一周していた。また機械仕掛けの人形=オーディオ・アニマトロニクスという技術は音(オーディオ)、動き(アニメーション)、技術(テクノロジー)を一体化させたもので、これによって1963年、音に合わせて鳥が歌い踊るアトラクション『魅惑のチキルーム』が誕生した。現在、その最先端のひとつはWDW・マジックキングダム内のニューアトラクション”Seven Darfs Mine Train”で見ることができる。これは鉱山列車型のジェットコースターに乗って『白雪姫』の物語の一部を覗くものだが、ここに登場するこびとたちは完璧にセリフを喋る。台詞に合わせて口が「パクパク」するのでなはく、英語を「喋って」いるのだ。これはキャラクターの内側から映像をあてて動いているように見せているとの説明を受けたが、キャラクターには外側から光が燦々と浴びせられているにもかかわらず、口元はクッキリと見える。なので、説明されても実際のところ技術的にどうやっているのかサッパリ解らない。

ディズニーランドは4Dランド

4Dに向けた技術の革新はウォルトの死後も続けられ、その多くが現在ディズニーが運営するテーマパーク内で稼働している。「動き」についてはアトラクションなので言うまでもないが、それぞれのアトラクションでは熱や風、冷気、水しぶき、振動、地響き、煙、雷、まあとにかくいろんな仕掛けが登場する。パークはウォルトの4D志向の結晶したものといってよいだろう。

最後に、パーク内にある、ちょっと面白い4Dを紹介したい。それは「におい」についてものだ。ディズニーのテーマパークのアトラクションには「におい」のでてくるものがいくつかある。ハングライダーに乗ってカリフォルニアや世界の旅行体験ができる『ソアリン・アラウンド・ザ・ワールド』(旧『ソアリン・オーバー・カリフォルニア』、上海ディズニーランドオープンに伴ってワールドに変更された)では森の上空で森のにおいが、旧『カリフォルニア』ではオレンジ畑でオレンジのにおいが出てくるという具合だった(もちろん、同時に風も吹いている)。またフロリダのアニマル・キングダムやアナハイムのカリフォルニア・アドベンチャーにある、昆虫の地下世界に潜り込む『イッツ・タフ・トゥー・ビー・ア・バグ』やフロリダ、エプコットにある『ジャーニー・イントゥ・イマジネーション』で放たれる「におい」は、なんと「おなら」だ。

ディズニー流、究極の4Dとは

だが、さらに究極の「におい」がある。それは、フロリダ、マジックキングダム内のメイン・ストリートUSA(TDLのワールドバザールに相当するテーマランド)にあるスターバックスがテナントとして入っているお店「メイン・ストリート・ベーカリー」にある。ここはいつも客で賑わっている。一般のスタバ同様、コーヒーの他にサンドイッチにもありつけるのだけれど、店内、そして店の前はつねに焼きたてパンの香ばしい香り=「におい」が漂っている。まあベーカリー=パン屋だからあたりまえと思ってしまうのだが、ここにはパンを焼く設備はない。あらかじめ作り終えたものを運んできて提供しているだけなのだ。パンは地下にあるユトリドールという通路を使って搬入されている。ということは、この「におい」はいったい?実はこれもまた人工的に作られた「におい」なのだ。ユトリドールの天井に「におい」を出すボンベが取り付けられ、そこから店内と店の前ににおいをばらまくという仕掛け。言い換えれば、誰もこれが偽物だとは気づいていない。で、こうなると店の前のにおいがいちいち妖しい気もしてくるわけなのだけれど(笑)、これはさすがに驚いた。究極の4Dとは、もはやそれが4Dであることがわからない世界ということになる。

二つの対照的な身障者を取り上げた番組

8月28日、奇しくも同時間帯に身体障害者(以下「障害者」。しばしば障害者や被災者には最近、この後に「方々」という言葉が付け加えられるが、僕はこの表現がかえって「腫れ物に触る」差別的なものと判断しているので、以前に使われていたように呼び捨てで表記させていただく。その理由については後述)をメインに取り扱った二つの番組が放送された。一つはご存じの日テレ「24時間テレビ」(取り上げられるのは障害者だけではないが)、もう一つはNHKの「バリバラ」だ。二つの番組は同じテーマを取り扱いながら障害者へのアプローチが正反対に見える。

「24時間テレビ」のアプローチは、先ず障害者を弱者としてとらえ、そういった弱者が艱難辛苦を乗り越えてがんばって生きているという、健常者を優位に立たせて上から目線で捉えるもの。この扱いは、近年では「感動ポルノ」という言葉で批判されているアプローチだ。「弱者である障害者」は辛い境遇にあるが、それでもがんばって美しく生きているという、お定まりの美談仕立ての物語にしてしまう。一方、「バリバラ」の方は、これに対するアンチテーゼ的な展開で、障害者にも別の側面があると言うことを示すべく、番組をバラエティ仕立てにし、障害者で笑わせたり、あるいは障害者の性を取り上げるといったアプローチを展開している。

一見すると前者が偽善に満ちた批判的な対象で、後者の方がより真実を映し出しているように思えるが、この二つはある意味、同じ次元での展開だ。マクロ的に見れば「バリバラ」も「24時間テレビ」と同様、感動ポルノの文脈にあるからだ。「24時間テレビ」との差異化のために無理矢理ネーミングを与えれば、これは「お笑いポルノ」「障害者の性ポルノ」ということになるだろうか。

二つに共通するのは、いずれも障害者を異物=「異なもの」として扱っている点だ。これについて障害者ダンサーである森田かずよ氏は「障害者としてではなく個人として扱って欲しい」と指摘している(引用元:https://www.buzzfeed.com/satoruishido/24hourtv-or-baribara?utm_term=.pqNgdY2xaQ#.goQGME9gR1)。つまり、健常者と同じ扱いになっていない点については二つも同じということになる。では、われわれは、とりわけメディアは障害者にどのように対応すべきなのだろうか。

大人に染みこむ無意識の差別感覚

障害者に対するわれわれの現状での「自然な態度」をビビッドなかたちで見せてくれるYouTubeのビデオがある(すいません、ビデオが見つかりませんでした。海外ものです)。被験者の幼児と大人をテレビの前に座らせて、テレビに映る人物の真似をさせるもの。テレビには次々とポーズや演技をする人間が登場する。大人と子供は同じように真似を続けるのだが、ある人物が登場した瞬間、幼児と大人の対応が変わる。幼児はそれまでと同じように真似を続けるのだが、大人はやめてしまうのだ。なぜそうなったのか?映っていた人物が障害者だったからだ。

幼児と大人が異なった対応を示したのは、障害者についての経験の有無に基づいている。われわれは成長につれて様々な行動や思考を学習する。それは教え込まれることもあるが、大半は日常生活の中で自然と身に付けるものだ。こうした行動や思考が定着すると、それ以外の行動や思考を「異なもの」として扱うようになる。そして、この「異なもの」は、記号論=メディア論的には自らの日常を脅かす恐れを無意識に感じさせるものと位置づけられる。だから、これを排除したり無視しようとしたりする。少なくとも身構える。

このビデオのテレビの中で登場した障害者は、大人にとっては「異なもの」として立ち現れた。もちろん本人が差別しているつもりはない。しかし、この時、大人は過去の無意識な学習=経験に従って障害者を「メタ的な異なもの」と捉えている。つまり、健常者の真似は問題ないが、そこに障害者が登場して少々異常な動作(ただし、この場合の「異常な」とは、健常者にとっては日常的ではないように映るという意味。障害者からすればもちろん日常的な動作)をした際には(健常者の場合には、たとえ常識的ではない動きをしても、笑いながらとかして真似を続ける)、次のような心的メカニズムが作動する。「私は調査者の要請に基づいて真似をしなければならない。しかし、今ここに登場したのは障害者だ。その動きは不可解なものである。真似ろと要請されてはいるが、ここで真似たら障害者差別になる」こんな複雑な構えが一挙に現れて(しかも無意識に)真似することを躊躇させるのだ。一方、障害者に対する経験も知識もない幼児にとってはテレビ画面に登場する人物はどちらも同じ。だから躊躇無く真似を続ける。

このビデオでの大人側の対応こそが「24時間テレビ」と「バリバラ」に共通する視点なのだ。つまり障害者は「異なもの」。だから森田氏が指摘するように、どちらも障害者を個人、言い換えれば健常者と同じように扱っていない。よって、両者はマクロ的に見れば”同じ穴の狢”なのだ。言い換えれば、二つとも差別意識として批判されるべきコンテンツということになるのだが……。いや、そうではない。二つの番組は確かに障害者を差別している。しかし、これは「なにもしないよりも、まだまし」と捉えるべきと僕は考える。障害者をもっと相対化して捉え、個人として尊重するためのステップとして。

障害者のポルノグラフィ化を撤廃するステップ

「ポルノ」とは「ポルノグラフィ」の略。ざっくりと説明してしまうと「見てはいけないけれど、見たいもの」あるいは「見たいけど、見てはいけないもの」という意味。ポルノグラフィは対象を○だけど×、×だけど○という曖昧な状況に置くことで、かえって「見たいもの」「見たくないもの」に対するイメージをタブー化し、無意識下に刷り込ませ、その欲望を継続させる機能を備えている。「24時間テレビ」は障害者の日常~それは健常者と同じく清濁併せ持っている日常だ~のうち、「濁」と普通の部分を隠蔽する。「バリバラ」は「笑い」「性」といった部分に特化し、障害者の他の日常を、やはり隠蔽する。しかし、だからといって障害者はいつまで経っても個人としては扱われないということにはならないだろう。

かつて、まだ共同体が存在していた時代、現在で「障害者」というカテゴリーに属する人々も「健常者」と同じ空間で生活していた。障害者は現在に比べれば、はるかにポルノグラフィ化されてはいなかった。だが、共同体が崩壊し、障害者が日常的空間から排除されることによって障害者は現在のわれわれが認識する意味での「障害者」として位置づけられた。彼らは「異なもの」と位置づけられたのだ。

だが戦後、民主主義の一般化とともに平等であることが是であることが広く一般に浸透する。これはもちろん障害者にも該当する。だが前述したように環境からの隠蔽によって、一般人にはもはや彼らは「異なもの」として位置づけられている。つまりポルノグラフィ化されてしまったのだ。

この認識はYouTubeのビデオが示すように、われわれの身体に深く刷り込まれている。だから変更することは容易ではない。ゆっくりとステップを踏んでいくしかないのが現状だ。このように踏まえると、二つの番組は障害者を相対化していくステップと捉えられないだろうか。「24時間テレビ」での障害者の「感動ポルノ」的な扱いは、まずどんなかたちであれ障害者の存在を世間に知らしめる機能を果たした。ただし、これがある程度認知され、紹介するストーリーが陳腐化したことで、こういった「艱難辛苦を乗り越えてがんばって生きている障害者」が、障害者の一側面でしかないことが次第に認識される。そこで、これらは「感動ポルノ」と批判されるようになった。次いで、今度は別の側面が「バリバラ」的なコンテンツによって認知された。しかしこれもまた「お笑いポルノ」「障害者の性ポルノ」といった別の側面でしかないわけで、いずれ批判の対象となるだろう。しかしそれでも、これもまた障害者を相対化する新しいステップなのだ。少なくともやらないよりはマシだった。

われわれはYouTubeのビデオに登場したような無邪気な子供ではない。社会の一員として常識、より正確に表現すれば英語訳のcommon sense=共通感覚を備えてしまっている。そして、その一つが障害者に対する「異なもの」としての無意識の認識だ。これはわれわれの中に深く染みこんでいる。だから、無邪気な子供になるのは無理だ。だったらどうすればいいか。実は、その回答の一つが二つの番組、そして「24時間テレビ」から「バリバラ」への進化といえるだろう。こうやって、障害者を様々な面から紹介し相対化していく。その繰り返しの中でわれわれのcommon senseもゆっくりと変わっていく。いわば脱構築したかたちで無邪気な子供に戻ることが初めて可能になるのだ。いわば「認識におけるバリアフリー化」。

アメリカでは障害者に対する認識については面白い事実を発見することができる。現在ではバスの多くが障害者向けの低床型になっており、乗降時にはバスが右に傾き、バリアフリーの構造が出来上がっている。歩行が困難な障害者が乗降する際には、タラップがさらに付け加えられる(これも電動で出し入れ可能)。だが、面白いのはこの時の一般人の対応だ。乗降にはある程度の時間がかかるが、ほとんど意に介する様子はない。もともとマイペースという国民性も考慮しなければならないが、日常の風景として馴染んでしまっている。これでアメリカは身障者の差別がなくなっていると楽観的なことを言うつもりはないが、少なくとも、こうした「日常」として、われわれの身障者への対応を次々と馴化させていくことが障害者を「個人」として尊重することに繋がることだけば間違いないだろう。

障害者の相対化を早めるためには

ならばどうすれば早く障害者を個人として尊重すること、言い換えれば相対化することが可能になるのだろうか。

言語学者でF.ソシュール研究の大家として著名であった故丸山圭三郎は晩年、言語学的な見地から差別用語の撤廃を提唱した(一般に「差別用語」と呼ばれているものは、実際にはメディアによる放送自粛用語でしかなく、何ら罰則があるわけではない)。全ての差別用語を青天白日の下に晒してしまえばタブー=ポルノグラフィが一挙に相対化し、差別そのものが無になるというのが丸山の主張だった。少々アナーキズム的な発想で現実味は低いと言わざるを得ないけれども、丸山が指摘するのはポルノグラフィの相対化に他ならない。丸山の主張のエッセンスとはタブーをどんどん引っぱがし、既存の差別をポルノグラフィとして成立させなくしてしまえということなのだ。そういった意味では、感動ポルノもバリバラも相対化の前身には貢献したと考えてもよいだろう。ただし、僕らは次のステップを考える必要がある。しかも、もっと相対化のスピードをアップさせながら。

「方々」をやめよう
冒頭に僕は「方々」という言葉を使わないと明言した。また、ここまで身体障害者の略称を「障害者」と表記してきた。後者については「身体の不自由な人々に『害』という言葉を用いるのは何事か!「障がい者」と表記せよ」との指摘がある。こういった「配慮」を僕が否定するのは、もっぱら「障害者を相対化した視点で捉えるべき」という前提に立っているから。これらが不自然なのは言葉を入れ替えるとよくわかる。「健常者の方々」「非被災者の方々」……実に不自然な耳慣れない言葉に聞こえないだろうか。これらのような、いちいち腫れ物に触る的な「配慮」を行い続ける限り、障害者が個人として尊重されることはない。こちらの方が差別的=ポルノ的。健常者と同じ立場を成立させることを遅らせるだけだろう。

障害者が日常の風景として認識、いや「異なもの」ではなく「自然なもの」として僕ら全てが認識できる日が一日も早くやってくることを願ってやまない。

↑このページのトップヘ