勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2016年08月

アメリカもびっくり

リオ・オリンピックの閉会式は、ご存じの通り日本のショーが全部持っていってしまった感がある。まあ、日本のメディアは騒ぐのはいつものことだから(過剰に「世界に通用した」的な煽りをやるのが常。どんだけ欧米コンプレックスがあるんだろうか。おもわず「欧米か?」と死語でツッコミを入れたくなってしまう(笑))相手にしないが、この騒ぎは現在、僕が滞在しているアメリカのテレビ実況でも同じ。アナウンサーと解説者が思わず叫んでしまうという状態だったのだ。日本語の解説が入らない分、逆にこのアナウンスの叫びと、スタジアムの熱狂がしっかりとこちらに伝わってきた。

そこで、今回はこの東京オリンピック紹介の海外へのインパクトがどのように考えられるかについてメディア論的に考えてみたい。インパクトを与えた先=対象は二つ。一つは国外=世界。目的は「日本文化の認知」、もう一つは日本国内。安っぽく表現すれば「日本人が、自分が日本国民であることの認知」といったところだろうか。それぞれについて、この企画がどのような効果をもたらしたかについて考えてみたい。

最も知られていて、最も知られていないマンガ・アニメ・ゲーム文化

先ず日本文化の認知について。日本文化を海外に認知させるにあたって、このショーでは概ね三つの日本的要素が組み込まれていた。

一つ目は「ベタな、そしてオリエンタリズムでエキゾチックな日本」。これは神社仏閣、和服、伝統芸といった「和風」を強調するもので、いわゆる「ゲイシャ、フジヤマ、スシ、ニンジャ、ゼン、ブシドー」といったカテゴリーに属する要素を並べられた。おそらく、ある意味で対外的には最もイメージしやすいベタなステレオタイプの日本の姿だろう。

二つ目はテクノロジー。最初に日の丸とともにロボット(モドキ)が登場。さらに東京のテクノポリス=技術に彩られたメトロポリスのイメージが強調されていた。都心の林立する高層ビルの真上からの俯瞰、渋谷のスクランブル交差点、そして最後に模型で登場したスカイツリー。オマケに新幹線。このイメージ=ステレオタイプも80年代には成立していたもので(たとえばアメリカのロックバンド・Stixは曲”Mr.Robot”(1983)で、このロボットがメイド・イン・ジャパンであること、ドイツ・Kraftwerkはアルバム”Computer World”(1981)の中で”Dentaku”という曲を挿入し、日本語で歌うなど)、対外的には解りやすい。

ただし、ここでの主役はやはり三つ目のマンガ・アニメ・ゲームキャラだ。そして、これは実質的には最も知られていていながら、日本文化としては最も知られていないものだろう。登場したのはキャプテン翼、ドラえもん、ハローキティ、マリオ、パックマン(オマケを加えればセーラー服)。ここで注目して欲しいのはアンパンマンやジブリ、NARUTO、ワンピース、ドラゴンボールなどが登場しないこと。このチョイス、日本文化の認知を狙う点では正解だろう(ポケモンが登場しなかったのは企画が間に合わなかったということらしい。企画は今年の一月頃には決定していたらしいので。もし、ポケモンGOが2015年中にリリースされていたら、おそらく間違いなくポケモンが登場しただろう。現在、世界中が熱狂している状態。アメリカ人も狂ったようにやってます)。

で、なぜこんなことが言えるのか。登場させた四つのキャラは、ようするに他のキャラよりもはるかに認知度が高いからだ(マニア・オタクレベルではなく、一般にという意味で。言い換えれば一般人もよく知っているという意味で)。キャプテン翼はサッカーが盛んな国ではもはや定番中の定番マンガとして知られている。ブラジルのネイマール、フランスのジダン、アルゼンチンのメッシが子ども時代、これを読んでモチベーションを高めていたなんてエピソードがこれを裏付ける。開催地がリオでブラジルでは大人気であったことも選ばれた理由の一つだろう。ドラえもんは東南アジア中心にもう二十年以上も親しまれている。そしてハローキティやマリオ、パックマンはもはや世界中で知られている。ただし、この「知られている」というのが問題。知られているのはそのキャラクターのことであって、これがメイド・イン・ジャパンであることは案外知られていないのだ。だって、フツーにそこにあるんだから。あまりに知られすぎているのだ。だから、三つの日本的要素のうち、最も日本とつながりが薄い、でも最も知られた存在なのだ。(ジブリなど他のキャラクターは、これらのキャラに比べると世界的に認知度が低いので(マニアは多い!)、出したところであんまりパッとはしないだろう)。

オタク文化というメディアを通して日本文化というメッセージを伝える

これをひとまとめて日本、東京オリンピック、そして日本文化を伝えるメディアにしてしまったのが今回の企画の最も優れたところだろう。

表向きの主役はこのマンガ・アニメ・ゲームキャラだ。前二つの要素は、はっきり言ってこれを際立たせるための道具=脇役でしかない。つまり、ゲイシャ、フジヤマのベタな日本と、テクノロジー国・日本というよく知られているステレオタイプは、まず日本を想起させるための道具=メディア、導線だ(よく知られているので、そこから日本文化を想起するのは容易)。そしてその延長線上にアニメ・ゲーム文化という、前者二つよりもはるかによく知られているけれど、あまりに日常的すぎて、これが日本のものであることはあまり知られていない隠れた日本文化、マンガ・アニメ・ゲームキャラを登場させる。

当然、「あ、これ日本の文化だったのね」となるわけだ。

そして、ここで主役は交代する。表向きの主役である「マンガ・アニメ・ゲームの認知」がメディアとなって、「日本文化」というメッセージが伝達されるのだ。ダメ押し(というか、これが思いつきの発端だったらしいが)はMARIOとRIOの語呂合わせ。リオと東京(正確には日本)のつながりを音で示している。だが、肝心なのはここから。この応用として、おしまいに登場する文字「RI」がミソなのだ。ここでは「RIO」と「感謝」を意味するOb「RI」gado(オブリガード)、そしてこれを日本語に訳したA「RI」gato(ありがとう)とMA「RI」O(マリオ)を含めて四つのRIが出現し、その連続性、つまりマリオ(アニメ・ゲーム文化)ーリオデジャネイローありがとう(日本文化)を一直線上に結びつける(ブラジル、ポルトガル人にとって最も覚えやすい日本語は「ありがとう」(アリガート。「ガ」にアクセントがある)だ。音がほとんど「オブリガード」(こちらもアクセントは「ガ」)と同じだからだ。ここでも音の語呂合わせがある)。前二つの日本文化のステレオタイプ(ベタなオリエンタリズムとテクノロジー)はキャラクターを際立たせるためのメディアになっている。だが、そのキャラクターが、今度は日本文化を際立たせるためのメディアになっているという「入れ子構造」を成しているのだ。

アベマリオの対外訴求力は「安倍」でなく「首相」にある。

これをオーソライズするのが首相・安倍晋三をマリオにしてしまうことに他ならない。「みなさんご存じの日本のキャラクターたちを、よろしくね」と国家の首相がそれに扮してやってしまえば、それこそ、「この文化はお墨付き」ということになる。そして、こうやって日本を紹介することで、東京オリンピックが「本気である」というメッセージを十分に伝えることができる(ここで、本当に本気であるかどうかは問わない。メディアの効果として、少なくとも受け手にはそう映るとご理解いただきたい)。安倍が登場したことに批判を加える論客たちのモノノイイは「安倍はオリンピックを利用して自己顕示を行っている」的なものが多いが、これは的を射ていない(仮に本人がそのつもりであったとしても、実は自己顕示としての効果は薄い)。聴衆(スタジアム、テレビ視聴者)が見ているのは「首相安倍晋三」のうちの「首相」の方であって「安倍晋三」ではないからだ。「僕らのヒーローを生んだのが日本という国の文化で、今、それを日本の『首相という権威』が認めている」。こうなると、これらキャラで育ってきた世界中の人間たちが日本という国・文化にインティマシーを感じることになる。「日本って、すごいじゃん!オレたちのこと、よくわかってるじゃん」となるのだ。その一方で「アベ」の名前なんかすぐに忘れるはずだ(まあ本来の効果を考えれば、それで十分なんだけれど)。

そして、この目論見は見事に成功した。スタジアムは熱狂し、たかが10分程度の日本紹介が閉会式のメインどころを持って行ってしまったのだから。アニメ・ゲームキャラ=日本文化として認知させた点で、日本文化の世界へのアピールは絶大だったといえるだろう。

日本人のアイデンティティをくすぐる?

今回の企画、サブカルチャーと呼ばれていたマンガ・アニメ・ゲームがもはや日本文化の本丸になったことを印象づけたことは確かだろう。かつて、消費文化の権化、典型的なくだらない低レベルな存在と蔑まれ、しばし排斥されてきたマンガ・アニメ・ゲーム。つまり「文化でも何でもない」と一蹴されていた。一方、これまで戦後日本は著しい経済復興を遂げ、世界レベルに達することができたが、「経済やテクノロジーはよいけれど文化発信力に欠けている」と常々指摘されてきた。そこで音楽や芸術の側面で世界に匹敵しようといろいろ努力したけれど、まあことごとくダメだった。その傍らで政府がテコ入れしたわけでもないマンガ・アニメ・ゲームが「日本の文化」として認められることもなく世界にジワジワと定着していった。それが、今や国家を支える重要な文化的なコンテンツとして認められることになったのだ。「世界に誇る日本文化がここにある。だから胸を張ってよい」というふうに、多くの日本人(60歳以下)には映ったはずだ。それが日本国内に向けての効果,つまり「日本人が、自分が日本国民であることの認知」だろう。これもマンガ・アニメ・ゲーム文化をメディア=媒介にして日本文化を国内に認知させたということになる。(もっとも、これがそのまま国威発揚に繋がると短絡するのはあまりに脳天気すぎるが。事はそう単純には行かないだろう。これを見て安倍がヒトラー的と懸念するメディアもあったが(恐らくベルリン・オリンピックをイメージしているのだろう)、ちょっと軽率すぎる解釈。時代も状況も全然違うんだから)。

たしかにそうだ。もはやマンガ・アニメ・ゲームは世界中を席巻している。先月初旬、ロサンゼルスでアニメEXPO2016が開催されたが、四日間の開催中の入場者は26万人に達している。そこにはキャラクターはもちろん、日本語もあちこちに見ることができた。日本の文化の勝利といっても過言ではないほどに。

しかし、これもまたちょっと違うのである。アメリカのこういった日本発のオタク文化はクレオール化、ローカライズ化され、もう日本のとはちょっと違ったものになっている。アメリカ人がピザやパスタ、寿司を日常としているのと同じだ。これらはいずれもオリジナルとはちょっと違っている。だからこそ、それが生まれたところなどには関心がないということになるわけで。こっちはこっちで勝手に普及する。だから、まあ日本の文化が広がったことをうれしく思うのはよろしいけれど、メディアが執拗に喧伝するような、さながら「日本の文化が世界を制覇した(笑)」的なモノノイイは無視した方がいいだろう。

いずれにしても、このショーが日本文化を内外に知らしめることについては大いに貢献したということは認めるべきだ。ちなみに、それがよいことなのか悪いことなのかについてはここでは議論しない。そして、オリンピックは国家ではなく都市が開催するのが原則。でもどこでも国策みたいにやっているということも念頭に置いておいた方がよいだろう。

この演出は、メディアの効果としては傑作なのである!

IT mediaビジネスONLINEのサイトで『「PCが使えない学生が急増」の問題点』と題した記事が掲載された(8月4日、甲斐寿憲氏)http://www.itmedia.co.jp/business/articles/1608/04/news084.html)。
要約すると「PCを使ったことがない新社会人が急増している。社会人の必須スキルとしてのPCを使えるよう、高校生や大学生のうちに所有したり、使ったりすることが必要」と主張するものだ。

大学教員としてメディア論を専攻し、また学生たちをずっと観察してきた人間からすると「これ、ちょっと、違うかなあ」という印象を抱いた。むしろ「いや、パソコン、若い頃は持ってなくてもいいんじゃないの?」と思えないでもない。かえって無駄じゃないの?これをメディア論的に考えてみよう。

昔の学生はパソコンスキルに長けていた?

氏の議論は「昔の学生はそうでなかった」という前提に基づいている。40~50代は10代ではマイコンブームがあり、「少年たちは雑誌に掲載されたプログラムを入力してゲームがしたいがために、親に頼んで高価なマイコンを購入してもらった」。また、学生時代はPCに触れる機会がなかったが「社会人になってから、会社の研修などを通じてPCのスキルを磨い」た。「アラサー世代は1990年代のWindows95、98、XPブームを経験している。学生時代にPCを買って、ワードの使い方などを習得した人が多い」という。

これ、ウソでしょ。自分はマイコンブームにハマり、BASICを学び、自腹で高価なパソコン(「PC」と表記するとMacが除外されているとみなす御仁もいるので、以降カタカナで「パソコン」と表記)を購入し、ゲームもプログラムした経験があるけど、こんなヤツはオタクなマイノリティだった。パソコンなんか高くて買えません(NECのPC9801を使えるようにいろいろ取り揃えると40万くらいした。しかもそれで使えるワープロはほとんどクソで、ワープロ専用機を別に所有していた)。費用対効果が低いから、当時の若者でも購入した層はマイノリティーだったはず。第一、ゲームしたいならプログラムするよりファミコン買えば手っ取り早かったわけで、話が完全に矛盾している(これは80年代の話です)。アラサー世代がWindowsブームに熱狂したという話も、正直言ってききません。僕が大学生を教え始めたのは90年代初めくらいからだけれど、実質的にはネットに繋げない(可能だけれどコンテンツはショボく、通信速度は遅く、通信料は高く、接続もそれなりに知識が必要で、一般には親密性の薄いものだった)。パソコンに興味をもっている人間なんて、やっぱりマイノリティだった。これは自分がパソコンユーザーだったゆえに実感がある。

ゼロ年代がパソコンを所有する理由は「インターネットに接続できるから」だった

でも90年代末くらいから、学生たちはパソコンを所有するようになる。理由は二つ。プッシュ的な要因は、大学に入学したお祝いとして親が買い与えたから。で、これはどう使われるかというと、ほとんど「寝たまんま」という状態になる。稼働するのはレポート作成時のみというのが一般的。つまり、もっぱらWORDを使うだけの「ワープロ専用機」の「お勉強道具」。「EXCEL?それってなんですか?」「EXCEL=出来れば触れたくない、勉強に特化されたソフト」「表作るだけ。でも計算の必要ないからWORDでできる」という認識の方が強い。ただし21世紀に入ってインターネット使用料が安くなると、ネットを使うというプル要因が登場する。つまりネットブラウザとして活用するようになっていった。ただし、これとてブログをやるとかショッピングをするとかという時代ではなかった。また、ゲームをやってもよいけれど、パソコン用のゲームというのはギャルゲーみたいな、ある程度マニアックなイメージが付着していたことも確かだろう。ゲームをするというのは一般のゲームハードを使用する方が普通だったはずだ。つまり、当時からあまりパソコンなんか使っていないのだ。だって、原則、勉強以外は必要ないんだから。

スマホでパソコンは限りなく不要に

で、「パソコンいらない」に拍車を駆けたのが事実上2008年に出現したスマホだった(ここではiPhoneの発売をもって「スマホの出現」とみなす)。パソコンに頻繁にアクセスする動機はインターネット接続だけ。ところが、スマホはこの環境をパソコンよりもはるかに簡単、しかもウェアラブルなかたちで実現した。また、ここにはゲームもカメラもついている。便利なアプリもついている。動画も自由に見ることができる。GPS搭載だから待ち合わせや店探しも簡単。加えてソーシャルメディアが加わった。これら新しい機能はハードを持ち運びできる点で圧倒的にアドバンテージが出てくるわけで、だったら当然チョイスされるのはパソコンではなくスマホになる。結果、スマホは様々なメディアをブラックホールのように呑み込んでいった。ゲームしかり、カメラしかり(もはや単体カメラを持ち歩くというのは一眼レフで趣味としてという場合に限定されつつある。中堅デジカメ市場はほぼ壊滅状態)、カーナビしかり、タウン情報誌しかり。

パソコンもそうだった。パソコンはインターネット機能にあまりお呼びがかからなくなり、お勉強道具、ワープロ専用機に戻ったのだ。だったら、そんなもん、要りません。IT mediaの記事は、若者にとってパソコンは高いというイメージがあると指摘しているけれど、これもウソ。Netbookはそれこそ3万円くらいからある。記事によれば「高い」と認識しているのは、パソコンでも唯一付加価値のついているMacBook(とりわけMacBookAir)だけは欲しいと思い(ドヤリングが出来るからか?)、それがノート型だとまあ10万円くらいから始まるので「高い」ということになるのだとしているのだけれど、ポイントはそこにはない。Netbookがパソコンに思えないところが問題なのだ。つまり、パソコンは「アウトオブ眼中」(「死語の世界」です)。MacBookは「パソコン」ではなくて「MacBook」という認識なわけね。

さらにWORDの存在だってアブナイ。今、スマホでワープロというかワード使えますよ。フリック入力でレポートを作成し、これをプリントアウトしたり、メール送信したりして提出する学生も多い(フリック入力早いので長文も苦にならない若者多し!)こうなると、唯一残ったワープロの機能も危ういわけで。う~ん、オワコンか?

なんのことはない。パソコン、もうある意味ではオールドメディアになっていると考えた方が早いのだ。筆者の甲斐氏には「パソコン=必需品」という無意識の前提がある(ま、氏はそういった世代なんでしょう)。もちろん、社会人としては、そうだろう。就職した瞬間、デスクの前にはパソコンが置かれているはずだから、そういった主張自体は理解できないでもない。社会では必需品であることは言うまでもない。だからといって中高校時代からそんなものを無理矢理やらせても意味がないし、よって「お勉強道具」のパソコンを与えても、ほとんど効果はないはずだ。やらされる時間が終われば、すぐさま彼らはスマホに持ち替えるはずだから。馬を水飲み場(=パソコンの前)まで連れて行くことはできても、水を飲ませることはできない。すぐ横にはもっと美味しいジュース(=スマホ)がある。言い換えれば甲斐氏の無意識の前提は、いわゆるコーホート効果、つまり同年代に経験したものについての相対化がなされていないことに由来している。自らの世代の共通認識が必ずしも一般性、普遍性を備えているとは限らないことの省察を欠いているのだ。

若者がパソコンを使えないわけじゃあ、ありません。使わないんです!

じゃあ、現代の若者、とりわけ学生は社会人になってからパソコンが使えなくて困るということになるのか?そんなことはないだろう。40~50代は、学生時代にはPCに触れる機会がなかったが「社会人になってから、会社の研修などを通じてPCのスキルを磨い」たと甲斐氏が指摘するのと同様に、現在の若者も入社してからスキルを磨いてどこが悪いのか?

そして、もう一つ甲斐氏が見落としていることがある。学生、そんなにバカじゃありませんよ。やっぱりWORDで教員がレポートを要求すれば、そのほとんどはパソコン使って作成し、提出してくれます(前述のスマホでのフリック入力という強者もいますが、別にやっていることは同じなわけで、何か問題があるんでしょうか?)。で、たとえばアパート住まいの若者のかなりの数がパソコンを持ってはいないけれど、自宅にいた頃は親がパソコンを持っていたから、それを使っていたわけでWORDはできるのね。付け加えれば、無料で自由に使えるパソコンが置いていない大学なんてないんです。それでやってれば十分でしょ。ましてや自宅住まいだったら、そのまんま親のパソコン使えばいいわけで。だから、パソコン、いらない!

パソコンからスマホへ、主役メディアの交代、パソコンは純然たる「お仕事マシーン」に

若者たちはパソコンを使えないのではなくてパソコンを所有していないだけ……でも、パソコンのスキルは上の世代に比べると落ちる?入社当初はそうかもしれません。しかしパソコンで何をやるかはスマホで勉強済みです(プログラムするとか、専門的な職種でない限り。でも、そうした職種に就いている若者は、原則的には入社してからスキルを学んでいるというのが普通です。理系の学生は除きますが。これは昔も今も代わりがありません。またデザインや編集系の仕事の職種に就きたがっている若者はパソコンを所有しています。それは「彼らの欲望を実現する必須の装置」だからです。ただしこの場合、ほとんどMacになります)。スマホというのは、いわば一般の利用においては「パソコンの進化形」。だからインターフェイスが簡略化しているだけで、やることはそんなに変わりません。つまりスマホをやればやるほど、社会人になったときパソコンのスキルアップも早い。

パソコンが消滅することは当分ないでしょう。ただし、全てのメディアがそうであるように、新たに出現したメディアと既存のメディアの機能が重複してしまったときには、オールドメディアは駆逐されるか、重複しない部分で生き延びるか、あるいは新しい機能を再定義されるかという道を辿ることになる。パソコンの場合、後ろの二つが該当するのかなあ?というのが僕の印象です。言い換えると「純然たるお仕事マシーン」になる(そういえばIBMって”International Bussines Machine”(=国際お仕事機械)って名前だったよなぁ。あの名称は正しかったんだ!)。ちなみにパソコンのエンターテイメント的部分の多くはスマホの他にスマートテレビみたいなメディアによって駆逐されちゃうでしょう。S.ジョブズはしばしば「パソコンを生んでブレークさせ、パソコンを葬り去って逝った男」みたいに言われていますが、積極的にスマホ、タブレットPCを推進したことの背後には、こういったメディアの法則への認知があったかもしれません(大画面スマホがタブレットPCを駆逐するというのは解らなかったみたいですけど)。

喉が渇けば、自ら水場に向かいます

学生はパソコンが出来ない?心配ありません。馬が水を飲みたくなれば水飲み場(=パソコンの前)まで自分で行きますから。社会人となったとき、彼らの前に立ちはだかるのは「生きる」「稼ぐ」という、必需品としての「水」=パソコン。すぐに必死になってやりはじめるはずです。もっとも、オフィスで使うパソコンの用途って、一般にはそんなに難しいものだとは、とても思えませんが?あるいは難しいものなら、大学でフツーにパソコンいじってても、全く使いものにならないんですけどね。特化されちゃっているから。で、これって、昔から全然変わってないことでもあります。

パソコンを学んでおけ?そんなのは杞憂なんじゃないんでしょうか?

世界中が夢中?

アプリがリリースされるやいなや社会現象となっているポケモンGO。現在、僕はロサンゼルスに滞在しているが、こちらでもこの騒ぎはリリースが日本に先行した7月の初めから始まっていた。とにかく行く先々で人々がスマホを見やりながら歩いているという異常事態が発生したのだ。ポケモンをいくつもゲットできる場所ではかなりの人間が群がっている状態。しかも夢中になっているのは子供だけではない。むしろ20~30代のほうが目立つほど。先日、ディズーランドへ出かけたのだが、ここでも状況は同じだった。ディズニーでポケモン世界にどっぷりつかっているというのは、なんとも不可思議。とにかく人々はポケモンGOに取り憑かれている。それが二週間後に、全く同じように日本でも出現したというわけだ。いや、日本だけではない。ポケモンGOがリリースされた地域ではどこも同じような現象が発生している。ポケモンGO、これは悪魔なのか?

当然、ポケモンGOにまつわる話題や議論も日替わりで登場する。これらの現象もまたポケモンGOを巡る社会現象を形成している。だが、メディア論的な視点からすると、現在のこのポケモンGOをめぐる騒ぎは決して驚くべきことではない。というのも新しいメディアが出現し、勢いをもった場合には、この手の騒ぎがつきものだからだ。テクノロジー万歳と礼讃するもの。子供に悪い、人々を白痴化させる、怪しげな事件が多数発生していると非難するものなど。「ああ、いつものあれね?」といったところだろうか。早くも「ポケモンGOはピークを過ぎた」なんて、これまたお約束の情報が流れたり。だが、新たなメディアの落ち着き先は、これらの思い込みとは全く異なったところに着地するのが常道。だから、メディアとは何か、そしてポケモンGOとは何かを考えようとする場合には、こうした議論とは付き合わない方が、むしろ現象の真相が見えてくる。

メディア研究者の立場からポケモンGOを考えた場合、これはとてつもないメディアの出現、メディア機能のパラダイムシフトを促している存在と捉えることができる。ただし、ここでのポイントはポケモンではなくポケモンGOを機能させているARというテクノロジーにある。

ARというテクノロジー

AR(Augmented Reality)、日本語に訳すと拡張現実となる。Wikipediaの定義をそのまま引用すると「人が知覚する現実環境をコンピュータにより拡張する技術、およびコンピュータにより拡張された現実環境そのものを指す言葉」となる。ちょっとわかりにくいので、ポケモンGOに利用されている技術で確認してみよう。ポケモンGOでは戸外でアプリを立ち上げるとGPSと連動したかたちで独自のマップが登場する。そこをアバター(ユーザーの分身)のポケモントレーナーが、ユーザーの動きと連動するかたちで歩き回るのだけれど、あちこち彷徨っているとポケモンが近くにいることが示される。そこでポケモンにタッチすると画面はカメラ画面に変わり、ポケモンだけがアニメのかたちで現れる。つまりリアル画面にポケモンが貼り付けられていて、しかも動いている。そこでユーザーはやはりアニメのかたちで手前に示されているモンスターボールを指ではじきポケモンをゲットする。

これは典型的なAR技術だ。リアルな画面にヴァーチャルな画面を貼り付けて連動させ、さながら新しい現実、あるいは拡張されたもう一つの現実として認識、あるいはその環境をコントロールする。このリアルとヴァーチャルの連動が、実に新鮮というわけだ。

セカイカメラの失敗

ただし、このテクノロジーだけでポケモンGOが成功した言えば簡単に突っ込みが入ってくる。というのもARを利用したもの、しかもスマホを利用したものはすでに存在していたからだ。2010年に(株)頓智ドットがリリースしたセカイカメラがそれで、これはユーザーが街のあちこちにエアタグというヴァーチャルなタグを使って情報を貼り付けるものだった。一旦、タグづけされたものは、他のユーザーが同じ場所でセカイカメラをかざすことで閲覧することができる。当初、セカイカメラはその可能性を非常に期待され、そこそこの人気を博した。期待されたポイントは、こうやってあちこちにエアタグが貼り付けられればそれが集合知となり、多くのユーザーがその場にスマホをかざすことで詳細な情報を入手することができる。そして、このような環境が遍在するようになれば「どこでもドア」ならぬ「どこでも情報」と言った環境が構築され、大きなビジネスチャンスを生み出すと考えられたからだ。つまりソーシャルメディアと同様、リアルにヴァーチャルが付随することでリアルワールドをより活性化できる。だがセカイカメラは2014年1月をもってサービスを中止してしまった。

意味不明のグーグルグラス

同じような試みとして世界的規模でARの展開を図ろうと目論んだのがグーグルが開発したグーグルグラスだった。グラスという名のメガネを装着すると、そのメガネガラスに自分の見ているものの情報が出現するというしくみで、やはりこれも「どこでも情報」を志向したものだった。2013年鳴り物入りでリリースされたものの、結局はまともに日の目を見ることはなく、2015年1月には一般向けの販売を中止した。つまりセカイカメラもグーグルグラスもAR技術を利用したもだったのだけれど失敗に終わってしまったのだ。ところが同じAR技術を用いながらポケモンGOだけは社会現象に至るまでの成功を遂げている。

ポケモンGOはシンプル、そしてお手軽

この理由はいくつかの要素が絡んでいるのだけれど、解りやすいように、前述した二つの失敗例との違いから指摘してみよう。
先ずセカイカメラとどう違うか。セカイカメラを利用していると、だんだんウンザリしてくる事態が発生していた。ユーザー数があまり多くなかったこともあるので、エアタグがないところは全くないという状態だったのだけれど、一方あるところは片っ端からタグづけされていた。秋葉原や渋谷なんてのが典型で、とにかくカオスでしかなかった。ユーザーよってリアルな映像にタグが埋め尽くされたのだ。しかもその情報はユーザーが任意に貼り付けられた管理されていないもの。なので「クソゲー」ならぬ「クソ情報」が多数出現した。有用な情報を確保するためにユーザーは情報を再編集しなければらなかった。そして、それよりもスマホで情報検索した方がはるかに早かったのだ。
一方、ポケモンGOはカオスではない。集める情報はポケモンだけだ。つまりシンプルイズベスト。そして、これらポケモンの配置についてはある程度、任天堂の方で管理がなされている。つまりカオスにはなっていない(広島平和記念公園に位置しているジムに「ピカドン」と命名されたピカチュウがいて不謹慎だと問題になった程度)。つまり、ものすごくやりやすいというかARの本質的なところ、基本的なところだけを操作すればよい。この「シンプルさの追究」について任天堂は以前から心得ている。1983年、同社がファミリーコンピューターを発売し、これが家庭用テレビゲームの事実上のデファクトスタンダードとなったのは機能を思いっきり削除し、徹底的に操作を単純化してしまったからだ。ソフトはカセットロムをスロットに装着するだけ。コントローラーも十字型ボタンと丸ボタン二つ。コントローラーのかたちはペラペラで踏んでも壊れない。しかもコードで繋がっているのでなくすこともない。おまけにコントローラー(二つ)を収納するスロットまでもが本体に用意されていた。一方、他のゲームハードはキーボードを備えていたり、パソコン代わりになったりなど多機能だったが、代えってそれが操作が複雑化し、実態を解りづらくし、ユーザー気を引くことができなかったのだ。ポケモンGOはシンプル+管理、この二つがARという馴染みにくいテクノロジーに人々を引き寄せたのだ。

次にグーグルグラスとどう違うか。これは言うまでもないだろう。あんなメガネを誰が装着したいと思うだろうか?というより、それだけのためにメガネを装着することの理由が見当たらない。しかもスマホと同価格(というかむしろ高額)。で、なんのために使うのかすらわけらないものに人は食指を伸ばしたりはしない(唯一、わけのわからないもの近年手を伸ばしたガジェットがAppleWatch。これは「Appleだからなんかやってくれるに違いない」というApple信者向けのグッズだったからだろう。ただし、Appleの新開発商品としては売れ行きはすこぶるよろしくない)。
一方、ポケモンGOは高額でないどころかタダだ(ゲーム内課金あり)。もちろんスマホは必要だけれど、もはやスマホの所有はもはやあたりまえなので、ようするにカネがかからない。で、いつも持っているのでやりたいときにサッと取り出してやることができる。手間いらずなのである。

ポケモンGOが涵養するわれわれのARメディアリテラシー

こうやって考えてみると、ポケモンGOがわれわれに涵養、つまりジワジワとたたき込もうとしている新しいメディアの姿が見えてくる。それがARなのだ。これまでなんだかわけのわからなかったもの。ところが、これを普段所有しているスマホを使って実にシンプルなかたちでその使い方を教授してくれる、それがポケモンGOなのだ。言い換えれば、われわれはポケモンGOに熱狂しながら、実はARという新しいメディアテクノロジーをわれわれの日常に置こうとしているのだ。

ARはセカイカメラやグーグルグラスが志向したように、大きな可能性を秘めている。ポケモン自体はエアタグと同じ機能だが、これがセカイカメラのように様々な情報のタグとなったときにはわれわれのメディアライフを変えてしまう可能性が高い。つまり、どこかにいって何かを調べようと思ったときに、まずやろうとするのがスマホのカメラをそこにかざすということになる。もちろん、情報が管理されていること、言い換えればコスモスが用意されていることが前提になるけれど(そうしない場合はセカイカメラの二の舞になる)。

そしてもう一つ、ポケモンGOのARだけがヒットした理由がある。それは、コンテンツがポケモンだったからだ。30台半ばより下はポケモンに馴染んでいる。当然、ポケモンの遊び方も知っている。それがスマホを利用することでリアルワールドで遊ぶことができる。自分もサトシになれる。だからやりたくなる。夢中になる。だがポケモンGOに熱狂しているとき、ユーザーにはARを操作している認識はこれっぽっちもない。彼らは純粋にポケモンをゲットしている。かつての任天堂のドン山内溥は「人は機械が欲しくてゲーム機器を買うんじゃなくて、ゲームがやりたくて機械を買うのだ」と断言していた。そのとおりで、今回もユーザーはポケモンGOがやりたくてやっているだけ。でも結果としてARを操作している。だから、ARというわけのわからないテクノロジーに恐れることもない。いや、恐れを知らないのだ。だって、いつもの「ポケモン、ゲットだぜ!」なんだから。

ただし、そこにこそポイントがある。こうやってポケモンGOに熱狂する。もちろん、いずれこのゲームが飽きられるときが来るだろう。ただし、ユーザーに共通して残るものがある。それこそがARを操作するスキル=メディア・リテラシーだ。これが無意識のうちに身についてしまえば、あとはどんなARが出現しようが難なく手を伸ばすだろう。洗濯機を、電子レンジを、そしてスマホを操作するように。先頃アップルのCEOティム・クックはポケモンGOの成功を讃え、Appleが今後AR技術に注力していくことを発表したが、これは完全に正解だ。いずれわれわれはAR世界の中に身を置くことになる。ポケモンGOは、その効用を実感させられた瞬間なのだ。われわれはポケモンGOというコンテンツを借りながらARの使い方のトレーニングを受けている。これが、ポケモンGOがわれわれの近未来のメディアライフに与える大きな変化だろう。

ポケモンGOはわれわれにARライフとというパンドラの箱を開いたのだ。

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