勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2016年07月

インターネットは語学学習のための最高の環境

本気で語学(今回は英語に焦点を当てている)を学ぶ気があるのならば、はっきりいって、現在では現地まで行かなくても十分学習は可能だ。インターネットを中心としたメディア環境が十全な学習環境を用意してくれるからだ。ネット上にはタダで学べる教材が山ほど転がっているし、Skypeを利用すれば格安でマンツーマンの英会話授業が受けられる。現地、たとえばアメリカで使われている句動詞やイディオムを学びたければ、映画を見て字幕(英語)を参照しながら覚えればいいだけの話だ。さらに熟達したなら応用練習として欧米のテレビ番組をチェックすることもできる。ようするに、その気になれば語学、とりわけ英語はタダ同然で学習することが十分可能なのだ。

では、留学しないでどうやって勉強するか?関心のある方はその参考例として有子山博美(ウジヤマヒロミ)さんのサイト「Romy’s English Cafe~英語学習お助けサイト~」をチェックしてみて欲しい。彼女は語学留学することなく上記のような方法で英語ペラペラになった御仁だ(TOEICも満点。ただし本人は「こんなものは、実践英語にはなんの役にも立たない」と一刀両断している。あんな「お上品」な英語は、はっきり言って使いものにならないというわけだ)。ちなみに彼女の実力、そしてその方法を手短に知りたければHapa Eikaiwaの「Hapa 英会話Podcast66回」(http://hapaeikaiwa.com/2015/07/31/第66回「インタビュー:国産バイリンガル(romy)」/)が参考になる。ただし、このインタビュー、全部英語です(もちろんPodcastでも聴ける)。

「英語を学ぶ」前に「英語を学ぶ学び方を学ぶ」必要がある。

もちろん、英語をどう学んでいけばよいのかについてのスキルは絶対に必要。つまり、語学を学ぼうとする人間は「語学を学ぶ」よりも先ず「語学を学ぶ学び方を学ぶ」必要がある(僕は英語のプロパーではないので、この学び方を結局、アメリカに来てから三ヶ月ほどでリサーチした格好になった)。だから、これを知らなければネットのどの教材を使っても、Skype英会話をやってもダメ。もちろん語学留学してもダメ。逆に言えば、やり方を知っていさえすれば、どちらでもうまくいくし、カネと時間に余裕があるのだったら、もちろん、海外の方が「カンヅメになる」「コミュニケーションチャンスが広がる」という点でアドバンテージが出てくるけれど。まあ「学び方を学ぶ」環境、インフラができていないのは語学だけでなく、全ての課目がそうなんだけれど(ホリエモンが「大学は不必要」なんて辛辣なことを言っているのは、こうした教育環境のダメさ加減にツッコミをいれているわけで、今回取り上げた「英語勉強しようと思ったら現地に行く必要はない」というのと、まったく同じことだろう。要は方法論の問題のわけだ。で、それがネット時代の今なら、やり方次第で、いかようにもなる)。

語学産業に踊らされるなかれ

現在の日本は「国際人=語学が堪能」といったとんでもない勘違いが一般に定着しているし、英語ができる人間はグローバルな人材などと勘違いされている。一方で、大学を卒業した人間からすれば英語を10年間も学んできてこのザマということで、そのコンプレックは強い。この弱みにつけ込んで、やれ語学留学だ「聴き流すだけの英会話」だ(みなさん、間違えないでくださいね。聴き流すだけで英語ができるようになるなんて絶対ありえませんからね)、二週間の集中特訓だ(フィリピンで盛ん。二週間で英語が喋れるようになるなんてのは明らかにウソです(笑)。英語を使う度胸がつく程度)なんてビジネスが市場を賑わしているわけで。

語学を学ぶ「目的」と「方法」を明確化しよう 

語学の学習を考える際に必要なことは結局、二つだろう。

一つは「なんのために語学をやるのか」をはっきりさせること。いいかえれば設定するレベルをあらかじめ決めておくこと。海外旅行を楽しむレベルならそれこそシチュエーションだけを覚え、後はカタコトで話せれば事は足りる。仕事上で必要ならば、その範囲でだけ技術を磨けばそれで十分。ネイティブ以外とコミュニケーションするなら1500語だけでコミュニケーションを行うことを推奨するグロービッシュで十分だろう(グロービッシュでは、英語を「言語」ではなく、たんなる「道具」と割り切っている)。カネがあるなら通訳をつけてもいいだろうし。

ところがゴロツキ英語産業は「こうすればペラペラ」「ネイティブと渡り合うことができる」(ネイティブって誰?ただの米国人コンプレックス?)とベラボーに高い設定をこちらに投げかけてきて、英語産業の商品群購入を脅迫してくる。しかし、これら産業が「めざせ!」と煽っているレベルは学習者のほとんどが到達不可能なレベルであることは覚えておいた方がいい。もっとも、これだけ高い設定をしておいて顧客を引き込めば、延々とカネを巻き上げることができるという仕掛けなのだけれど(TOEICやTOEFLも、この片棒を担いでいるといえないこともない。TOEIC900点以上を取得したところで、ネイティブの英語は全然わからないはずなので。ネイティブはあんなに上品な英語は喋りません。”in and out”は「インナナァ」、”one of them”は「ワナブゼ(ム)」ですよ。ほとんど「揚げ豆腐(I’ll get off”)」「掘った芋いじくるな(What time is it now?”)」の世界。ちなみに「今何時?」は”Do you have the time?”が訊き方のメイン)。

そして、もうひとつは前述したように、まず最初に「学び方を学ぶ」こと。良心的な語学ビジネス、だからこそ儲かる語学ビジネスってのは、実はこの「学び方を学ぶ」ことを教えるビジネスなろう。ここに目をつけられないってのも、語学産業がまだ成熟していないってことなんじゃないんだろうか。でも、これって解ってしまうと、実は語学勉強にカネは必要ないということもわかってしまうんだけど。

海外で1年語学を学んでも、その成果は……

最近、大学で留学と称して語学研修、とりわけ英語学習のために海外に一年間ほど出かける学生が目立って増えてきた。実際、僕の周りの学生たちもこの流れに乗じている状態。ただし、その成果はどうだったかというと……「なんだかなぁ?」といったところが正直なところなのだ。アメリカ、カナダ、イギリス、オーストラリアなどで語学学校に通ってみたのはよいのだけれど、まあなんというか、ほとんどモノになっていない。日常生活での簡単なやり取りはできるようにはなったけれど、込み入った話とかはほとんど無理。リスニングも苦手というパターンが実に多いのだ。

もちろん、例外もある。面白いのは、その多くが途中で語学学校をドロップアウトしていることだ。つまり「こりゃ使いものにならない」と学校に三行半をつきつけてバイトなどに精を出し、そこで現地や他の国からやって来た若者と仲間になり、あるいはハウスをシェアするなどして、自らを英語漬けの環境に置いた一群だ。恋人ができて、これがネイティブだったりすると「無料の(ある意味、有料だけど(笑))専属トレーナー」になるわけで、そりゃ、すこぶる語学の上達が早い。

しかしなぜ語学学校に行っても、多くがたいしたことにはならないんだろうか。その理由を、今回、僕は身をもって理解した。

現在、僕はロサンゼルスの隣町トーランスに滞在している。ご多分に漏れず、僕も語学はてんでダメといった「自信」がある人間。なので「じゃあ語学学校でも、とりあえず行ってみますか」と、半ばフィールドワーク(つまり「学生たちが語学が上達しない原因」を探る)も兼ねて三ヶ月ほど通ってみた。で、その結果は「あ、こりゃ、ダメだ。使えん!」という結論。はっきりいって、限りなく時間の無駄。自分でやった方がはるかに早い。当然、辞めました(もったいないので、授業はマジメに全部出席しましたが(笑))。そして、なぜ、語学学校に通っていた連中がうまくならないのかも解ったような気がする。そこで、実験台となった自分の環境についてお話ししたいと思う。これはあくまで僕の事例に過ぎないが、どうも一般性があるように思える。というのも、語学学校経験者(教え子等)の話と僕の体験が実にうまく一致したからだ。

同じで異なるレベルの生徒が同居する

見つけたのはアパートから徒歩圏内にある語学学校。とはいうものの、細々と経営しているという学校ではなく、国内にいくつもの学校を抱え、教科書も自ら開発している(出来はなかなかすばらしい。ライティングのテキスト(パラグラフ・ライティングの技法)などは、翻訳すれば十分、文章の書けない日本の学生を指導する教材として通用する。教育システムについてはきちんと整えられたところだ。

入学にあたって、まずいわゆるプレイスメントテスト、つまりクラス分けテストを受けた。だが、これがその後の進行に大きく影響を及ぼすものだった。試験はリスニング、スピーキング、文法、リーダーの四部から構成されていた。それぞれ25点ずつ。これで自分のクラスはレベル7のうちの6に振り分けられた(最高レベルが7)。僕がダメだったのは前半部分。後半はほぼパーフェクト。つまり後半偏重の成績。要は「聴けない、話せない」。僕と同じようなパターンで得点をとった生徒の出身者はアジア勢。韓国、台湾、タイ、そして日本。ま、中・高・大学とマジメに英語の授業を受けてきた一群(僕は研究者なので、英語が読めるのは、まあ、あたりまえ)。これをAグループとしよう。ところが、この得点配分と正反対、つまり前半パーフェクト、つまり「聴く、話す」ができて後半がダメ、でも結局獲得した得点は同じといった一群も同じクラスに組み入れられる。その多くがメキシカンやヨーロッパ勢。彼らに共通するのは、すでに数年米国に滞在していることだ。だから、それなりにリスニングとスピーキングができる。じゃあ、この連中がなぜ語学学校に入ってきたかと言えば、ようするに「読めない、文法解らない。よってスピーキングはできるが滅茶苦茶(かつての「じゃぱゆきさん」の日本語と同じ、単語が羅列されるもの。「ワタシ、コレ、ダメ、マンガ、スキネ、デモ」みたいな喋り)、リスニングも一定レベルで足踏みしている。だから立ち入った話はできない。なので、ちゃんと英語を学びたいと考えたというわけだ。これはBグループと呼んでおこう。

誰も語学が上達しない構造

そして、この二パターンが混在することによって「二重の不幸」が訪れる。授業は個人指導ではなく、クラス単位の指導(アメリカで個人指導を受けたら授業料は三倍くらいになるので、語学留学した若者は、だいたいこのクラス授業を受けることになる)。午前中いっぱいの授業が週五日続くという、なかなかハードな内容なのだけれど、ただハードなだけで効率がものすごく悪いのだ。

授業で教員はとにかく話し続ける。生徒は必死に内容を理解しようとするのだけれど、ハードルが高すぎて全体の二割も解らない(話し方はネイティブのそれよりは遅く、かつ平明な単語を使用してくれてはいる)。課題が出されるたびに生徒たちは右往左往する。聴こえないからやり方がわからないのだ。とはいってもパターンは同じなので、次第に手順だけは解るようになるのだけれど。

この中で教員の指示や話を理解できるのは当然Bグループ。こうなると授業中のコミュニケーションは教員とBグループが中心となる。教員もリアクションしやすいから、必然的にそちらに話を振るようになっていく。当然、Aグループは蚊帳の外。そして、このコミュニケーション状況に恐れをなして石化、墓標化、地蔵化?する。だからいつまで経っても「聴こえない、話せない」。固まったまま。じゃあ、Bグループには恩恵があるのかと言えば、こちらにも困難が待ち受けている。週末のテストで高得点を取るのはもっぱらAグループになるからだ。彼らにとっては、今度は文法やリーダーのハードルが高すぎるのだ。だからBグループの目標も達せられない。ちなみに下のクラス、たとえばレベル3以下となると、ほとんど日本人、韓国人、中国人からなるクラス編成になっていて、しかも母国からやって来たばかりの、いずれもAグループに属するタイプ。ところがレベルが低い分だけリスニングもスピーキングも弱いので、授業はひたすら教員が喋りっぱなしということに。でも生徒たちは解らないので、生徒の側からすれば授業は「お通夜状態」に。沈黙が続くと同時に、教員の「講義という名の読経」が流れる。そして休み時間ともなると「やれやれ」ということで、同じ国からやってきた生徒と母国語での語り合いとなり、これが仲間意識を助長して学校以外は専ら一年間母国語を使い続け、語学は結局、なかなか上達しない。というわけで「まあ、効果は低いかな?」といったのが、この学校でのフィールドワークの結論だった。ちなみに「こりゃ、もったいない」と思ったので(笑)、僕は相手が日本人であっても一切日本語は使わなかった(やる気のある連中は、これに付き合ってくれた)。

語学学校ドロップアウト組に待ち受ける落とし穴

ならば、とっとと語学学校を辞めてバイトやネイティブの仲間を見つけた方が勝ち。ネイティブの恋人ができれば完全勝利!というふうになるのか?というと、やはりそれもまた違っているだろう。実社会(とはいってもバイトだが)に出て、ネイティブと語り合う時間が日常になったのだから上達が早いのはあたりまえと思うのは早合点に過ぎない。というのも、こちらのコースを選んだ連中は要するに、前述のBグループに加わったわけで、日常生活のごぐごく実践的なコミュニケーションは難なくこなせるようになるけれど、基礎が養われないから喋りは「じゃぱゆきさん」のそれ(ネイティブとのコミュニケーションの際の常套パターンの”Yeah”みたいな間投詞(単語が綺麗に繋がらないので、必然的にこうなる)が頻用されるというのが共通した特徴。「なーんちゃって陽気なアメリカン」気分ってところだろうか)。結局、つっこんだ話はできない(とはいっても、実用性ではこちらのほうが明らかに上だけれども)。

でも、こうやって1年間海外で生活し、帰国してきた一群は、たとえば日本で英語を使う機会となれば、それなりに対応が可能(Aグループは控えめに。一方、Bクループは積極的。「イェーイ!」のノリが「喋れる」というイメージを自他に向けてアピールするので)。そして、その対応は、英語コンプレックスに満ちた一般の日本人から見れば「英語ペラペラ」に見える(とりわけBグループ)。そういえばYouTubeに「英語ペラペラの芸能人」的なビデオがよくアップされているけど、これが典型的なそのレベルだろう。低いレベルなのだけれど、英語苦手の一般人にはペラペラに見える(ちなみに宇多田ヒカル、シェリー、伊藤穣一なんてのは、もちろん例外)。で、このことってのは、立ち位置を変えてみるとすぐにわかる。ちょっと考えてみて欲しい。芸能界で日本語のうまい外国人って思い浮かびますか?デーブ・スペクターやパックンくらいでしょ?(この人たちの喋りは、完全にアカデミックです)。あとはみんな、ちょっと、ヘン。これをひっくり返して考えてみればわかる。そう、英語をというか「言語という文化」をナメてはいけないのだ。一朝一夕にマスターできると思うのは、とんでもない勘違いなのだ。

ちなみに、これくらいの英語でも、一定環境の中でなら、なんとかなる、というか十分に使える。僕が、いま滞在しているここトーランス市はトヨタとホンダの米国での本拠地があることで有名で、日本からこちらに転勤等で送り込まれてくる社員がいるのだけれど、この一群はちゃんと仕事ができているという(あたりまえだが)。そして英語もそこそこやれるらしい。ただし、社内のみで。というのも現地スタッフは日本から派遣されてくる日本人社員の対応に慣れている。つまり英語を母国語としない相手への話し方をしてくれるし(語学学校の英語教師の喋りと同じ)、技術面では当然共有する部分が多いからコミュケーションも可能(トーランス市で日本人向けの語学学校を30年経営しているBYB English Centerのオーナー・セニサック陽子さんのコメント。この学校はこれら会社に所属する生徒が結構いる)。日本人野球選手が大リーグに行ってもそこそこメンバーとコミュニケーションできているというのは、こういった事情による。帰国した新庄剛志が英語ペラペラだとか聴いたことはないし、現在シカゴカブスに在籍しているムネリンこと川崎宗則は大リーグ5年目だがほとんど英語ができない(彼がウケているのはパフォーマンスが面白いからに過ぎない)。でも、ここでは「野球」というもう一つの「言語」が担保になっている(まあ、コミュニケーションは言語の前にコンテンツが無けりゃ出来ないのは、英語であろうが日本語であろうが同じなので。コミュニケーション能力≠語学力という認識が必要)。(つづく)

26万人の米アニメオタクがロスに集結


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ロサンゼルス、コンベンションセンターで7月1~4日にかけてアニメエキスポ2016が開催された。これは日本アニメーション振興会が主催するイベント。第一回は1992年で、この時の入場者数は1700名程度だったのだが、今回は四日間で、なんと26万人がここを訪れた。もちろん、北米最大のフェアだ。日本のアニメは今や「ジャパニメーション」と呼ばれ、世界的にも知られているところとなったが「じゃあ、実際、アメリカではどうなっているんだろう?」と、最近のアニメにはあまり詳しくない僕も、日本独自のこの文化(かつてサブカルチャーと呼ばれたそれ。もはや、とっくにメインカルチャーになっているが)がどうなっているんだろうかと、中を覗いてみることにしたのだが……いやはや、驚きました。アニメ、マンガ、ゲーム関連の企業ブースが立ち並び、シアターやホールではシンポジウムが開催され、さらにはメイドカフェ、漫喫まで準備されている。こちらの予想より遙か先を行っていました。

訪れたのは7月3日。友人の「混んでいるから早めに行った方がよい」とのアドバイスに従って午前十時過ぎには中に入ったのだけれど、すでにセンター内は大量のオタクでごった返していた。会場周辺には二万台の駐車スペースが確保されていたのだけれど、これも正午には満杯。とにかくスゴい勢いなのだ。

会場内には夥しい数の日本語表記が、そしてブースからはアニメ声優とアニソンの日本語が鳴り響く。……ところが会場にやって来たアニメオタクやブースを運営している人間からは日本語は一切聞こえない。すべて、英語。アジア系の入場者もいるが、もちろん全員が英語。そして、やはり夥しいほどの数のコスプレイヤーがいる(もちろんカメラを向ければポーズを決めてくれる)。で、残念ながら、その多くが、こちらに造詣がない自分にはなんのキャラクターか判別が付かない。うずまきナルトやルフィ、悟空、初音ミク、ジブリキャラなんてのもいるけれど、こういったメジャーキャラは完全にマイノリティ。で、あちこちに”OTAKU”というロゴが誇らしげに貼られている。


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会場はまあコミケ的なのだけれど、そこはアメリカ流、どちらかというと巨大なパーティー会場といった趣が強く、それぞれのブースで、それぞれのお気に入りキャラに入れ込んでいる。ここにもはや「物見遊山」的なムードは一切ない。もちろん、今の日本のコミケと同様、かつてのオタクの暗いイメージもない。その成熟度はジャパニメーション、アニメオタク、コスプレオタクの裾野の広がりを強く感じさせる。どうみても、ここに来ているアメリカの若者はプロパー、つまり完全なオタクなのだ(スターウォズ・R2D2の実物大リモコンを持ち込んで通路で動かしていたなんて勘違いもあったが、これはご愛敬と行ったところだろうか。多分、絶滅危惧種(笑))。

米国発のオタク文化?

実感したのは、こうしたジャパニメーションの海外進出は、もはやクレオール化していて独自の文化と化しつつあることだ。起源はもちろん日本だけれども、ローカライズされてしまっていて、もはや別の文脈で解釈、あるいはカスタマイズされている(「オタク」という言葉が”OTAKU”と表記されているのはその典型。ただしこの表記がなされたのはすでに二十年近く前になるけれど、それがさらに一般化して”OTAKU=cool”という認識が定着しているのだろう)。

その中で気になったブースを二つほど取り上げてみたい。もちろん日本のアニメ文化がローカライズされるという意味でだが。両方のブースとも結構な数の客が群がっていた。

一つはジブリキャラクターの浮世絵化?鳥獣戯画化?のブース。広重の東海道五十三次絵の世界を設定にして、ここにジブリキャラが広重風で描かれているといった趣向。下の写真は「千と千尋の神隠し」の千とハクのこれまた和風の絵。この組み合わせは思いつかなかった。


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もう一つは、なんとディズニーキャラクターを引用したモノ。ブース運営者の名称は「18+」。つまり「18禁」=成人指定の作品群で、ディズニーアニメのキャラクターがエロに描かれているのだけれど(ディズニー以外もいろいろありました)、ようするにこれは二次創作ややおいという日本の伝統とディズニーという米国の伝統の合体といったところだろうか。下の写真は『アナと雪の女王』のエルサのエロバージョン。いわば、二次創作ややおいの形式=フォルムが米国の内容=コンテンツによって拝借され、米国独自のスタイルに変貌しているといってもよいのかもしれない。


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正直なところ、これらがメイドインUSAなのかメイドインJapanなのかは解らない(ネットで調べてみたが、該当するサイトは米国のそれだった)。だから、僕の勘違いであったならばオタクのみなさんにお詫びをしなければならないけれど、これがメイドインUSAのものであったとするならば、ジャパニメーションやアニメ、マンガ、コスプレオタクの文化は、その起源である日本を離れ、独自の文化を築きつつあることになる。すくなくともアニメEXPO2016の異常なほどの賑わい、訪れるオタクの本気度から察する分には、これがメイドインJapan生まれのメイドインUSA文化と了解してもよいのでは……そう思わずにはいられなかった。

もし、こうやって文化というモノが輸出され、輸入された文化の中に流し込まれ、一般化したとするならば、実を言えばそれこそが日本文化の世界への浸透であることの証明ということになるんだろう。日本車(米国の通りは日本車がマジョリティ)、寿司→SUSHI、ラーメン→Ramenといった、もはや米国では日本を感じさせることすらなくなりつつある文化のように。(ちなみに、これら定着したメイドインJapanも、米国では、ちょっと日本のそれとは違っている)。

オヤジが若者をfacebookから追い出した?

6月22日のYOMIURI ONLINEの記事でITジャーナリストの高橋暁子氏が若者のfacebook離れの現状について分析を行っている(http://sp.yomiuri.co.jp/fukayomi/ichiran/20160622-OYT8T50037.html?page_no=1)。分析資料のもとになっているのはジャストシステムのアンケート調査で、これによると16年4月のfacebookの10代アクティブユーザーが27%で、前年同月の45%からは大幅に減少しているという結果が出ている。

この結果について高橋氏はfacebookが「中高年の交流の場」になってしまっていることが大きな理由と指摘している。曰く、「十代が友達と楽しく盛り上がっているところに親が介入してきたり、学校の先生から指導が入ったりするようになる。そこで、親や先生にやりとりを見られたくない若者たちは、Facebookから離れ」るようになったのだという。また中高年たちのリア充ぶりをアピールする、つまり自慢話を繰り広げるのにウンザリしているのもfacebook離れをさらに進めている。そして、これは「facebookが普及しすぎたがゆえに若者が離れるという構造」なのだとしている。

高橋氏の議論は一見もっとものように見えるが、議論としてはかなりアブナイと言わざるを得ない。この主張は「老害」ならぬ「中高年害」、つまりオヤジの絡みやすく、それでいて自慢話は繰り広げるという前提に基づいて無理矢理十代のfacebook離れの原因を引き出しているからだ。つまり「結論先にありき」。いいかえれば我田引水の議論でしかない(まあ、オヤジイジメというところだろうか(笑))。

ことはそう簡単には進まない。現実は、もっと複雑だ。なので、ここではジャストシステムのデータが正確であるという前提に基づいて、複数の要素を絡めつつ「若者のfacebook離れ」の原因をメディア論的に考えてみたい。

新メディアが旧メディアを押しやっていく

二つの側面を提示してみたい。一つは技術的側面だ(もう一つはユーザー層の特性に関する側面だが後述)。新しいメディアが出現した場合、そのメディアと機能を重複させる旧メディアは主として二つの運命を辿る。
一つは消滅。つまり機能が完全に重複し、しかも新しいメディアの方が技術的にも利便性的にも優れていたがために、既存のメディアが飲み込まれてしまうというものだ。近年だとモールス信号による電信とか、おそらくこれからそうなるであろう白熱球(これをメディアと考えればだが)がその典型で、前者はデジタル化によって難受信エリアでも受信可能になることで、送受信をモールス信号でする必要がなくなり消滅。白熱球も寿命、電気消費量の点でLEDに全くかなわず、しかもLED電球が低廉化することで、その場所を失ってしまった。

もう一つは、新しいメディアと重複しない部分、つまりディスアドバンテージとならない部分で生き残るというもの。ラジオはマスメディアとしての機能をほとんど失いつつあるが、災害時やローカルメディアの分野にその活路を求め、現在も続いている。ほぼ消滅に近いがなんとか続いているのがポケベルやPHSといったところだろうか(電波による医療機器への害がないというアドバンテージで医療現場で生き残っている)。

LINEとカブったfacebook

さてfacebookである。SNSの中でも最大であることは言うまでもない。ここには、たとえばビデオ電話も写真のアーカイブも、グループでのクローズドでのチャット(若者はこれを使えばオヤジ害を排除できる)も、ファイルの転送もといったかたちで、まあいろいろと機能がある。しかし、機能満載で使いづらいところがあるのも事実だ。恐らくほとんどのユーザーは機能の一部、メッセージやフィードくらいしか使いこなしていないだろう。煩雑で面倒くさがりのユーザーには少々使いづらいのも確かだ。

ここにLINEのような単純なSNS(LINEはプラットフォーム化を狙って通話やタイムライン、アプリ、マンガなど様々な機能が加えられてはいるが、基本的にチャット=トークと通話に特化されていると言ってよいだろう)、しかもスマホベースのそれが登場すればどうなるか。当然、使い方簡単で、メッセージボックスを利用してチャットを繰り広げるという点ではパソコンベース(facebookのインターフェイスは明らかにパソコンベースで、スマホ用としてはちょっと扱いにくいし見づらい)よりスマホベースのLINEの方が圧倒的に優位であることは言うまでもない。それゆえ、スマホベース、単純機能ベースのユーザーはこちらに流れる。そして、そういった流れたユーザーに、パソコンなどほとんど使わずスマホを所有したユーザーが飛びついていく。その多くは若年層だ。オヤジ臭に嫌気がさしてこちらに移動した若者も、まあ、いないこともないだろうが、それはマイノリティだろう(オヤジ臭を放つユーザーにウンザリしているのは、オヤジ臭を放っていない中高年ユーザーも同じこと。だから、この理屈であればオヤジ臭にウンザリしたオヤジもfacebookから撤退するはずだ。だがデータ的には必ずしもそうはなっていない)。一方、中高年はパソコン利用に慣れている。だからパソコンベースのfacebookの方が何かと使いやすい。つまり中高年のSNS、とりわけfacebookの利用はパソコン>スマホ、若者はパソコン<スマホ。こういったかたちで棲み分けが起こる。だから若者のfacebook離れ、あるいはfacebookを利用する気にならないのは、ある意味当然ということになる。

社会圏、社会性が分けるSNS利用

もう一つはユーザー層の特性に関する側面だ。中高年と若者、とりわけ若年層の年代的な違いは、ズバリ社会圏の広さと、それに伴う社会性にある。当然、中高年の方がともに高い、言い換えれば社会的成熟度が高い。

で、facebookはこの側面でも若者にとっては扱いにくいSNSなのだ。中高年がfacebookにハマる理由は、一つは本人が抱えている人的インフラにある。つまり既存のリアルな知り合いが個人的な付き合いであれ仕事上のそれであれ多い。こういったリアルな社交と社会圏を活性化するヴァーチャルな装置としてfacebookはうまく機能するのだ(学校時代の旧友がゾンビのように復活したりする(笑))。また、大人ゆえ公私の分別が可能。だから、実名制であったとしても、節度をわきまえるわけで、例えばTwitterで炎上したり晒されたりするようなバカッター的な状況にはなる可能性は低い(リア充ばっかりやっているマイノリティもいるので、これはこれで迷惑千万な話だが)。また、仕事上の関係等でデータをやり取りしたりといったこともやりやすい。これはLINEでは難しいし、第一若者はそんな「大人の仕事」に用はない。

一方、こういったfacebookの利便性は若者にとっては不便なものになる。大人と違って社会圏、社会性が低い。友達は限定されているし、社会的成熟度が低いから公私をキチッと分別する能力も弱い。だからSNSの利用にあたってはLINEを利用して身内仲間でしっぽりとやっているのがよいわけで、しかもLINEのトークならクローズドなので、炎上と事態は起こりづらいし(メンバー間でのイジメはあるだろうが)、バカッター的にひっかかるということもない。つまりLINEは「安心ケータイ」ならぬ「安心SNS」なのだ。しかも前述したように若者の必携ツールであるスマホを前提としたインターフェイスになっている(パソコンでも使えるが、LINEのパソコンアプリを使用している若者は少ないはずだ。スマホがあれば、それで事は足りるので)。

ということで「若者がfacebook離れを起こしたのはオヤジ臭にウンザリしたから」と言うのは、かなり無理があるということがおわかりだろうか。

そうは言ってももちろん、このオヤジ臭には僕もウンザリしている。こういうリア充自慢のオヤジは、公私を区別できてないわけで、ようするに実のところ「子供」なのである。

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