勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2016年01月

SMAP騒動に終始を打つべく急遽行われたSMAPの謝罪会見について、メディア報道とBLOGOS論壇?との間の見解の違いが興味深い。メディアはとにかく「よかった、よかった」、一方BLOGOS論壇の趨勢は「まったくもって、納得がいかない」と正反対。ちなみに後者の問いは、SMAPのメンバーが「何を誰に謝罪したのかわからない」といったメディア報道が伝えているSMAPメンバーの対応についての「納得がいかない」のではなく「なぜ、SMAPのメンバーが謝罪する必要があるのか」という、もっと根本的なものだ。
で、僕も概ねこの論壇の論調に同意したいと思う。明らかに、おかしい。そこで、この疑問がなぜ生じるのかについて今回の騒動をダイジェストでまとめるかたちで考えてみよう。

老害の構図

ジャニーズ事務所の勢力争いが生じた。マネージメントの勢力図はジャニー喜多川、藤島ジェリー景子、飯島三智。ただし、実質的なイニシアチブを握っているのはジャニー喜多川の姉であり、藤島ジェリーの母であるメリー喜多川。当然、飯島は外様。

ところが飯島は才能があった。なかなか売れないSMAPを、アイドルとしての芸風を様々な分野に拡大する(SMAPがSport Music Assemble People”、つまり多方面に展開するタレントという名称であることがこれを象徴している)。そして、SMAPはジャニーズ事務所の中でも飛び抜けた国民的アイドルとなり、マルチに芸を発揮するのがデフォルトとなったその後のアイドルのスタイルを作り上げ、ジャニーズを巨大な芸能プロダクションへと変身させた。当然、飯島とSMAPはジャニーズの大いなる貢献者である。

ところがメリー喜多川はこれが気に入らない。一族経営が基本?と考えるのか、このプロダクションは娘の藤島ジェリーがメインでなければと考える。そこで飯島を事務所から排斥しようと考えた。

しかしSMAPとしては自分たちを育ててくれた飯島には恩義がある。そんなお家騒動もどきのゴタゴタで恩人を裏切るわけにはいかない。そこで飯島に忠誠を尽くし、彼女についていこうと、木村拓哉を除く四人はジャニーズ事務所からの離脱を考えた。

これにメリー喜多川が激怒。芸能界での活動の圧力をかけようとした。それが解散報道として大々的に取り上げられることに。

ところがファン、いや国民からの反応は予想外に大きかった。いまやSMAPは「日本人の必需品」的存在であったことが、図らずもこの騒動から露呈したのだ。このことに気づいたメリー側が事態の収拾を目論見始めた。ただし、「お家継承」が安泰であるという条件づきで。その結果、行われたのがSMAPの緊急記者会見、つまり「公開処刑」だった。

ザッとこんなところになる。


SMAPの屈辱

この山本一郎による「公開処刑」という表現は秀逸だ。まあ「カノッサの屈辱」ならぬ「SMAPの屈辱」と言い換えてもよいかも知れない。ここでの処刑を命じたのは、もちろんメリー喜多川。処刑されるのはSMAPだ(いや、木村は処刑人を兼ねているのかもしれないが)。

では処刑=謝罪は誰に向かってなされたのか?表向きは国民に向かってである。つまり、「みなさんにご心配をおかけしました。ご迷惑をおかけしたのは私たちです。責任は全て僕たちにあります。申し訳ありませんでした。」

しかし、国民は誰もそんな謝罪を望んではいないし、そんなふうには思っていない。むしろこれを理不尽な「公開処刑」と受け止めた。なぜか?

いうまでもない。今回の騒動を引き起こしたのはメリー喜多川だからだ。だから謝罪するべきは会社の側であって、板挟みに遭ったSMAPが謝罪する必要など、どこにも無いのである。SMAPが謝罪をする理由はシンプルだ。そうしなければ、自分たちの存在が失われてしまうからだ。だから先ほどの謝罪内容を深層で言い換えれば、

「僕たちは謝罪しないとクビになります。芸能界から干されます。それでは困ります。愛してくださっているみなさんにも申し訳が立たない。だから僕たちが悪いと言うことにして事態を収拾します。ちなみに自分たちが悪いだなんて、本当は思っていません。」(中居正広の「腕白坊主が屈辱に耐えている」という風情が美しかった)。

これで、おそらく国民の必需品であるSMAPの商品価値は傷つけられただろう。しかし、メリー喜多川はそんなことお構いなし。自分という、そしてジャニーズ事務所という「世界で一つだけのアタシ」がいれば、それでいいのだ。国民やSMAPなど問題ではない、というわけだ。

そう、まとめてしまえば、これは老いた権力者が、その権力にすがるために、しばしば至ってしまう「老害」以外の何物でもないのである。その「屈辱シーン」を支持者の国民たちの前に晒したのが、この記者会見という公開処刑だったのだ。自らの商品を自らの欲望のために傷つけるという醜態。
メディアという、もう一人の老害に侵された
公開処刑人
しかし、である。こんな老いぼれた老害をまき散らす人間こそ駆逐されるべきなのではないか?SMAPは国民の必需品、われわれのものなのだから、われわれからすれば価値観の比重は当然SMAP>ジャニーズ事務所である。ならば、SMAPはさっさと事務所から離脱してしまえばよいのだけれど……。世論の支持からすれば、当然そうなるはずだ。だが、それを許さないもう一人の公開処刑人がいた。そう、それこそがメディアだったのだ。

今回のSMAP騒動の報道のされ方、明らかにおかしい、不自然だ。前述したように、今回の記者会見についてメディアは「解散に至らないでよかった」と声を揃えている。また「SMAPガンバレ」とわけのわからないエールを送っている。その一方でBLOGOS論壇が指摘するような「老害」を指摘する報道は一切ない。つまり、どのメディアもジャニーズ事務所側を批判しないのだ。

その理由は、言うまでもないだろう。メディアとて事務所側に楯突いたら痛い目に合うことをよく知っているからだ。仮に一つのTV局が事務所批判をやったとしたら、その瞬間、こちらにも老害が波及することになる。つまり、ジャニーズタレント全ての出演や取材をボイコットされる。嵐、TOKIO、V6、Kink Kidsなどなど錚々たるメンバーが使えなくなるのだ。これは、いまやジャニーズ頼りのテレビや雑誌にとっては死活問題。だったら黙っておいた方が身のため。むしろ、この際だから言われた通りにしておけば、こちらの利益にすらなるとまで考える(フジテレビが緊急記者会見を開いたのは「なにをか言わんや」なのかもしれない。紅白のトリがジャニーズの長男マッチだったことも同様だ)。メディアもジャニーズ側と同じ価値観、SMAP<ジャニーズ事務所。言い換えれば、メディアもまた保身に身を固めた老害体質を抱えているのだ。こうやって二人の年老いた処刑人によって「SMAPの公開処刑」、あるいはカノッサならぬ「SMAPの屈辱」は執行された。

老兵は消え去るのみ?

しかし、メディアはよく考えるべきだろう。こういった公開処刑の執行は、もはや民意とは全く逆のところにあることを。BLOGOS論壇も示すように「われわれは何が悪いのか、誰が悪いのかを
知っている」。だから、メディアが保身に身を固めた「奥歯に物が挟まるような言い方」を続ける限り、メディアの衰退は避けられないということを。

「公開処刑」、近年におけるメディアの没主体性と迷走を象徴的に示す事態でもあったと言っても過言ではないのではないだろうか?客を見ていないから、衰退するのだ!(そして、その衰退する組織の中で癌のように実利をむさぼっているのがジャニーズ事務所なのだ)。

(※今回のブログは僕からみなさんへのお年玉。新年会の小ネタとして利用していただければ盛り上がること請け合いのコンテンツです(笑))

ちょっと違った視点からTV視聴率のあり方を考えてみよう

テレビ局の勢力交代が著しい。80年代、飛ぶ鳥を落とす勢いだったフジテレビが凋落し、その一方で、かつてほとんどオマケ扱いをされていたテレ東の進境が著しい。これは、かつてテレ東を除いてキー局では最下位だったテレ朝も同じだ(「限りなく東京12チャンネル(当時のテレ東名)に近い」と揶揄されていた)。その理由として挙げられるのがコンテンツの問題だ。テレ東がその典型で『YOUは何しに日本へ?』『孤独のグルメ』『ローカル路線バス乗り継ぎの旅』といったヒットを次々と飛ばしている。その一方で、フジテレビにはこれといったコンテンツがない。ま、こんな感じだろう。

確かにこういった指摘は否定できない。ただし、今回はちょっと視点を変えて、全く異なったところからテレビ局の勢力図変化の理由を考えてみたい。しかもきわめてメディア論的に。

突然偏差値が上がった僕の所属する学部

僕の勤めている大学の学部は今年度の入試で突然、偏差値がアップした。つまり応募者が増えた。じゃ、中身=コンテンツが変わったからかと言うと、そうではない。変わったのは看板。僕の所属する現代社会学科は「文学部」の一学科として位置づけられていたのが、これが独立し「社会学部社会学科」となったのだ。つまり形式=フォルムが変わった。こうすると入試の偏差値表で社会学部の欄に掲載されるのだ。つまり、「あの大学、社会学部あったのね」ということになった。教育内容、そして募集定員も変わっていないのだから、理由は恐らくこれくらいしか考えられない。そういえば、FとかBFランクの大学が受験者を増やそうと、必死にその中身=コンテンツの充実に力を入れているけれど、ほとんど功を奏していないという話を聞く。まあ、「なんだかなあ」というか、「そんなもんかな」という感じではある。要は中身=コンテンツではなく形式=フォルム、つまりメディア性によって人気というのは左右されるのだ。

テレビのリモコンに着目する!

で、テレビ局である。ここではあえてコンテンツを一切無視して考えてみたい。
ご自宅にあるTVのリモコンを手に取ってみて欲しい。ボタンレイアウトの基本構成は1.左上に電源ボタン。これは基本右手で操作することが前提とされているから。右上だと、あたりまえの話だが親指を右上に持っていくという作業がひとつ増えて面倒。左上ならリモコンを握った右手親指をいちばん伸ばしたところにあるのでラクなのだ、2.その下にチャンネル選択ボタンをメインの利用用途としたテンキーがある。で、問題はこのテンキーなのだ。

テンキーは左→右で一列目が1、2、3、二列目が4、5、6、三列目が7、8、9、四列目が10/0、11、12となっている。

さて、ご存じのように、キー局のTVの割り当ては以下のようになっている

1=NHK
2=NHKEテレ
4=日テレ
5=テレ朝
6=TBS
7=テレ東
8=フジ

5という究極のポジションをゲットしたテレ朝

この配列、つまりメディアの形式が視聴率とダイレクトに関連しているのではないか?
再び、あなたが手(右手)に取っているリモコンを見てほしい。今、あなたが握っているリモコンで、何も考えずその上に親指をおいたら、どこに行くだろうか?……当然5、つまりテレ朝になる。つまり、テレ朝はリモコンのポータル。これで勝ちである。

親指の扇形の動きにフィットするテレ東=7

そしてリモコン・テンキーの操作は5を中心に展開することになる。このホームポジションで親指に負担なく移動が可能なキーは3と7、そして1である。手のひらはリモコンを握っているので、何気に親指を動かすとそれは90度の扇形で移動する。だから5から下へ移動すれば、そこは7、つまりテレ東になる(テレ東さん、おめでとうございます)。1は指をちょっと左上に伸ばすだけ。(NHKさん、よかったですね)。

横の動きで快適にザッピングできる日テレ=4とTBS=6

じゃ、4=視聴率で三冠の日テレはどうなんだ?6=TBSは?これは5の左右に平行してキーが配置されているので、指の動きとしては移動がラクなことが勝因に繋がっている。

パソコンの日本語キーボードには英語の配列とJIS配列の2つが印字されているが、今どきJIS配列なんて使っている人間がいるんだろうか?でも、よく考えてみて欲しい。英語配列での日本語入力はローマ字。母音以外は原則2ストロークを必要とする。ところがJISは、たとえば二段目を見てもらえばわかるが「たていすかんなにらせ」とあり、1ストロークで入力が完了する。入力数のエコノミーからすればJISが覇権を握ったはずだ。でも、そうはならかった。なぜか?理由は簡単。ひらがなは46あり、これを全て配列するとキーボードの四段を占めることになる。これ、メチャクチャ打ちづらいのである。特に第一段目と四段目の間が遠すぎる。つまり楯の動きがやりづらい。だからローマ字にして上下移動は三段に限定し、より移動が簡単な(というか5本の指を使うので移動の必要がほとんどないんだが)横の動きでこれをまかなうというスタイルが普及したというわけだ。

4=テレ朝と6=TBSは要するに、5がホームポジションゆえ、この「横の御利益」を得たというわけだ。つまり「とりあえずボタンを押すと5。でも、コンテンツがイマイチ。そんな時、とりえずザッピング、さらにはフリッピングする対象として選択されるのが横の動きに対応した両隣の4と6なのだ。とはいっても、その動きは4→5→6、あるいは6→5→4となるので、結局、いちばんお得なポジションにいるのはテレ朝なんだけど。

三段目真ん中という最悪なポジションにあるフジのボタン

さて、件のフジである。フジはアナログからデジタルへの移行に当たって、フジのアイデンティティである8という数字にこだわったのだろうか、地上波でも8となった。しかし、である。リモコンを握るポジションからすると8はとんでもなく不利なポジションだ。8は三段目にある。ホームポジションである5のすぐ下だからアドバンテージがあるようにも思える。だが、それはマチガイ。二段目のホームポジションからすると、親指を伸ばしやすいのは三段目よりも関節を曲げる必要のない一段目なのだ(曲げるより伸ばす方がはるかにラク)。一方、フジは三段目、しかも7=テレ東のように、三段目であっても親指が縦にスムースに移動可能な扇形の流れの中にも入っていない。つまり、わざわざ親指の関節を曲げて「押しに行く」という作業をしなければならないのだ。面倒くさい!

ホームポジションから番外へ

しかし、フジは昔から、つまりアナログ放送の人気のある頃からテンキーの8の位置だったから、この話はおかしいのでは?というツッコミが入りそう。いや、そうではないのだ。この8という位置、実はかつてはホームポジションだったのだ。アナログ放送の頃のリモコン操作の位置は

1=NHK
3=NHKEテレ
4=日テレ
6=TBS
8=フジ
10=テレ朝
12=テレ東

という「四段」構成。しかも下の四段目に10=テレ朝と12=テレ東が来る。そして、現在のホームポジションの5は空きチャンネル(あるいは地方局チャンネル)。それゆえ、リモコンを持つ手のポジションは無意識にこの四段から構成されるテンキーに合わせたかたちになっていた。つまり、リモコンのにぎりは現在より5~10mm程度下にあった。そうなると三段目真ん中にある8のキーは、ほとんどホームポジションと機能していたのだ。一方、その頃、テレ朝は10で、何と四段目。しかも0と10が同じキー割り当てなので、機種によっては一段目の1を押してから、四段目の0を押すなんてややこしいことをやらなければならなかった(ただし関節を曲げる必要はなかったし、扇形の中には収まったので、さほどハンディキャップにはならなかったけれど)。テレ東は最悪で四段目の三列目。一番押しにくいところにあったのだ。ところがデジタル放送移行に伴って、前述したように、この二局はフジよりも手前のボタン、しかも押しやすいところに移行。その結果、テンキーの操作は三段で構成されるようになり、リモコンを握る手のポジションが上昇。フジは最後尾の一番押しにくいボタンという位置に置かれてしまったのだ。
フジテレビさん、変なことにこだわり過ぎた挙げ句、墓穴掘ったんじゃないんですか?残念でした(T-T)

フジテレビの視聴率を上げる方法は

じゃ、この「リモコンインターフェイス理論」からすると、フジテレビはどうすればこの苦境を打開出来るのか。これまた答は簡単だ。空いているボタン=数字のうち、5=のご相伴にあずかるキーに変更すればよいだけの話だ。その数字とは言うまでもなく3だ。現在3は地方局などが利用している(僕の住む神奈川の場合はTVK)。これは例の親指の扇形の動きの中に収まるし、しかも一段目だ。フジテレビさん、さっそくチャンネルを変更しましょう。解決策が判明してよかったですね(もちろん、制度の問題上、そんな簡単には変えられませんが……)。

さて、今回展開した「リモコンインターフェイス理論」に基づくTV視聴率のあり方、みなさんはどのようにお考えでしょうか。もちろん、メディア論的にはメディアは重層決定、つまり様々な要因の合力に基づいて、その普及が決定されるので、これだけが視聴率の原因だなんて決して言っているつもりはありません。ただし、こういったコンテンツの外部、形式、つまりインターフェイスのメディア性、十分に考慮に値することなんじゃないんでしょうか?

最後に、今回のネタは昨日、僕の幼なじみのK.片山くんとT.箕輪くんの高田馬場での新年会の際、三人ででっちあげたもの。なので、繰り返しますが、もし面白かったら、みなさんも新年会でネタとして使ってくださいね!飲み会で出てきたネタは、飲み会に還元したいと思います(笑)

あけましておめでとうございます。

僕のネタバレ映画レビューがお叱りを受けた

12月24日、僕は「スターウォーズⅦ『フォースの覚醒』で見せたJ.J.エイブラムスの手腕」(http://blogos.com/article/151592/)というタイトルでスターウォーズ新作のレビューを書いた。本ブログはネタバレが含まれているので、冒頭に「※注意:最初にお断り。本稿はネタバレ満載です。しかもオイシイところが。なので、映画を見終わった方にお奨めします。」という断り書きをいれておいたのだが、それに対しコメント欄に「ネタバレって書いておけばネタバレしていいと思っているのか?」というコメントが寄せられた。で、このコメントに僕の回答をしておけば「もちろん、思っています」だ。ただし、これだと単に相手にケンカを売ってしまうことになっり大人気がない(笑)。そこで、今回はレビューやブログでネタバレはどの場合に許されるのかについてメディア論的な立場から論じてみたい。

不意打ちはもちろんダメ

先ず、全く許されないネタバレは「抜き打ちのネタバレ」だろう。つまり読者が予告編くらいの気持ちで読んだ記事がネタバレだったという場合。これは不意を突かれたということになるわけで、想定外。これから映画を楽しみにしている人間がこれを目にしたら怒るのはあたりまえだろう。12月20日、東京新聞の紙面がやってしまったのがこれで、紙面上には新作での人間関係の相関図が示されていたという。これは当然マナー違反。

ロードショー直後でストーリーをそのまま展開するのもダメだが……

次に、「最初にネタバレあり」と示してあるが、そのネタバレがなぜ示されなければならないのかわからない場合。典型的なのは、もっぱらストーリーや相関図を示すことに終始しているようなケースだ。映画『ニュー・シネマ・パラダイス』の中で、運搬のトラブルで映画館に長編映画の後半が届かないことに腹を立てた観客に対し、観客の一人がその騒ぎをなだめるために「おれは後半を見たから、話してやる」と言った瞬間、靴をアタマに投げつけられたというシーンがあるが、まあこの感覚だろう。共通するのは、ようするに「知っているストーリーを語りたいだけ」という自己満足のために人の楽しみの芽を摘んでしまう点だ。ただし、この時点で「最初にネタバレあり」と示してある。と言うことは、それ以降を読み進むのは読者の方であり、当然、原則「自己責任」の部類に属するが。

映画をより楽しんでもらうためにネタバレをするのはOK

さて、僕が今回やったネタバレは、これらとは全く違った立場からのアプローチだ。ポイントは冒頭の断り書きの最後の部分。つまり「映画を見終わった方にお奨めします」という言葉。要するに、映画を見た方に、こちら側の分析を示し、考えてもらうことを意図していた。つまり映画を見終えた後に、映画のことをもう一度思い出し、今度は別の視点から映画を楽しんでもらえればと言うことをねらいとしていたのだ。だから、今回、新作シーンのネタバレを過去の作品シーンと比較したり、またネタバレをスターウォーズシリーズ作品群が展開する世界観の中に埋め込むという試みを行った。いうならば、マナーを守った上での「ネタバレ」。言い換えれば映画批評、エンターテイメント、すこし偉そうに言えばメディア・リテラシー啓蒙をねらってこれを書いたつもりだ。だから、もちろん「ネタバレしていい」と思っているのである。

で、こういうのを「言論の自由」というのだと、僕は考える。もちろん、これを否定するというコメントも自由ではあるが。ま、正直言って「ちょっと、『ネタバレ』という言葉の含意を理解しておられないのでは」と考えてしまうのだが。つまり「一口に『ネタバレ』言っても、実はいろいろある。」

僕の仕事の一つは映画のメディア論、記号論的なテキスト分析(過去の分析にについてはブログ『勝手にメディア社会論』の「映画批評欄」http://blogs.yahoo.co.jp/mediakatsuya/folder/1478439.htmlをご参照いただきたい)。これからも、映画好きの人々に映画を楽しんでいただくために、今回のようにマナーを守りつつ、ネタバレを続けるつもりだ。

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