勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2015年10月

インターネットの議論は必ずしも民意を反映していない~「ネット住民」と「ネット観客」

本ブログでしばしば指摘していることだが、インターネットでの議論は必ずしも民意を反映してはいないと僕は考えている。このことは、たとえばBLOGOSなどのコメント欄をあちこち立ち寄ってみるといい。あることに気づくはずだ。それは……ジャンルによってかなり限られた層の読者によってコメントが繰り返しなされている点だ。同じコメント者が何度も登場する。コメントは「コメントをすることに積極的な一部の人々によって行われている」と考えた方が納得がいく。便宜上、この層を「ネット住民」と呼ぼう。

これはもちろん、ネットをブラウズしている人間が少ないことを意味しない。スマホの普及もあり、もはやネットのブラウズなど、われわれにとっては日常的な行為の一部。TVよりもネットへのアクセスの方が多いという人間もかなりいるだろう。ちなみに僕が大学で教える学生たち(毎年受講生数100人程度にテレビとネットとどちらのアクセス時間が多いのかについてアンケートをお願いしている)は、もはや八割以上がネット派だ(テレビとネットの形勢逆転は3年前だった)。

しかし、こういったネットブラウズする人間の層とネットに書き込む層=ネット住民はそのままイコールというわけではない。言い換えればブラウズする層の一部がネット住民となり書き込んでいる。その傍証が例えば先ほどあげたBLOGOSのコメント欄というわけだ。むしろブラウズする人間の大半はROM、いわゆるリード・オンリー・メンバーだろう。そこで、こちらの方は「ネット観客」と呼ぼう。そしてネット住民とネット観客をつなぐ相関性や因果性は明らかではなない。いや、こういった人たちの意見を世論と断定するのは、ちょっとアブナイだろう。ネット住民という、同じ少数の人間たちが循環させる意見やネット論壇は民意を反映しているとは必ずしも言えないのだ。

ネット住民の意見はマスメディアが掬い上げることによって大きな力を持つ

ただし、だからといってネット住民に力がないというわけではない。書き込みを行う少数派は場合によっては強力な力を持つことがある。それは、書き込みを行い、これがそれなりに珍しかったり、盛り上がったりした場合だ。ただし、それだけでも、まだ強力とはいえない(炎上などのネットいじめを除いては。で、これは炎上と言うより一部でくすぶった形で発生するので、いわば「小火」)。これだけでは必要条件でしかない。これが世論として大きな力を持つのは、盛り上がった内容をマスメディアが取り上げた場合だ。つまりこちらが十分条件。とりわけテレビは議題設定機能を持っている。テレビがネットのネタを取り上げて拡散することで、結果としてネット住民のモノノイイがさながら世論のように展開されるのだ。つまりメディア・イベント(もちろんマスメディアが取り上げても盛り上がらない場合も多々あるが)。たとえばペヤングソース焼きそばやマクドナルドの異物混入事件などは、その典型だろう。小保方、佐村河内、佐野といった人間へのネットいじめもこれに含まれると言ってよい。

で、こういった「ネット住民の意見は世論を反映しない」という原則は、BLOGOSのようなネット論壇以外のところでも、ネット上のあちらこちらに共通してみられるものであると僕は思っている。つまり、これはネットの一般的な特性と僕は考えている。

オタク世界を作るネットの島宇宙化

このようにネット住民の書き込みがあるところで盛り上がると、ちょっと不思議な事態が発生する。世論を反映していなくても、一部で盛り上がってしまい、そこに小さな世界、いわばタコツボ、島宇宙的なスモールワールド、オタク領域が誕生するのだ。で、これはこれでそれなりの中小規模の市場を形成することも現在では当然のように発生している。そして、その典型こそが旅の情報サイト、Tripadviserの情報だ。

旅オタクの情報サイト、トリップアドバイザー

Tripadviserはブラウズする人間たちの書き込みやサイトのとりまとめによって日々更新される旅の情報ガイドだ。ホテルやレストランの紹介が最も大きなコンテンツだが、世界中の旅行者たちがここに情報を書き込んでいる。ただし、ここにも一部の書き込みを頻繁に行う人間=ネット住民と大多数のROM=ネット観客が存在する。で、あたりまえの話だが、観光地の情報環境は、こうした一部の書き込みを積極的に行う人々によって構築される。そして、それはしばしば現地での評判とは異なった「書き込みを好む旅行者たちによって構築されるもう一つの観光地、観光名所」を作り上げてしまう。つまり、Tripadviserは旅オタクの情報としては正解だが、それが現地の情報を必ずしも反映しているとは言えないのだ。僕は海外に赴く際は航空券を購入し、宿屋レストランをTripadviserで検索、検討する旅スタイルを散々やってきたが、まあ、本当にその結果は微妙と言わざるを得ないという経験を何度もしてきた(なのでTripadviserは、参考程度に利用することにしている)。

一例を示そう。今年の3月、僕はポルトガル・リスボンからバスで一時間ほど南に下ったところに移置する丘の上の村パルメラに宿泊した。ここでのTripadviserでの人気ナンバーワン・ホテルはポウサーダ・カステロ・デ・パルメラ。ポウサーダと名のつくホテルは城や寺院、要塞などを改造したもので(景観のよいところに位置する場合もある)、かつては国営だった。スペインのパラドールのポルトガル版と思っていただければよい。ここに五日間ほど滞在し、レストランを食べ歩いたのだ。もちろんTripadviserのランキングに従って。だが、このランキングがどうもおかしい。一位がポウサーダ内のレストラン、二位はポルトガル料理なのだけれど客はほとんどポウサーダ宿泊。四位はなぜかハンバーガーのお店だ。

ところがホテルからちょっと歩いて街の中央あたりに来たところの路地にぽつんとあるレストランをみつけた時のこと。ここは昼のみの営業なのだけれど、とにかくものすごい客でごった返している。もちろん観光客なんかいない。全部、いわゆるジモティだ。Tripadviserの認定マークもなし。ここは魚料理専門のレストラン(看板にも魚の絵=アイコン?が描かれている)。まあ、魚料理といっても焼くだけ。種類は太刀魚、鰺、サーモン、カジキといったところ。これに前菜とワインととサラダとそして食べ放題のパンとデザート。さらにコーヒーまでついてたったの€8.5。ちなみにメニューのチョイスは魚だけで、それ以外は皆同じ。デザートなどは店の中央のテーブルに大型のパットごとドカンと置いてあり、客は好きなだけ取り放題。ワインもまたものすごい量をデキャンターに入れて持ってくる。カミさんと二人分で一リッターのデキャンタにすりきりで入れてきた「昼からこんなに飲めるか」と思ってしまったほど。魚好きでもあるので、当然一回訪れた以降は病みつき。昼はここと決め込んでしまった。

さて、なぜTripadviserにこれが掲載されていないのか?それはMAPを見てみると簡単に判明する。上位のレストランはすべからくポウサーダから至近距離にあるのだ。つまり簡単に歩いて行ける。パルメラのポウサーダは城を改造したもので前述したように海外の旅行者たちにはすこぶる人気。パルメラにやってくる旅行者の多くがここへの宿泊を目的としている(もちろん、僕もそうだ)。ただし、宿泊客たちは街のあっちこっちを巡ってレストランを物色し、私のベストを探すなんてヒマなことはしない。宿泊してもせいぜい2泊3日程度だからだ。しかも、その間、パルメラを基点に周辺のワイナリー見学とか、すぐ手前の港町セトゥーバル観光に行ったりする。だからパルメラでの食事の回数(朝食はポウサーダで提供されるので除く)はトータルで二回程度になる。レストランなど、まあ観光でのそこそこの要素程度にしか考えていないのだ。
で、こんな旅行者たちが「パルメラで旨いレストランはどこかな?」と考えた時に、思いつくのが当然、Tripadviserのレビューだ。だが、そのレビューはかつての旅行者たちが同じようにポウサーダのすぐそばを散策してみつけたレストランばかりが掲載されている。そして上位三位のレストランを訪問すると……当然、この上位のポウサーダ至近のレストランの評価ばかりが高いものとなってしまうのだ。

レストランの方も心得たもので、店の扉には勝ち誇ったようにTripadviserの認定シールが貼られている。店のスタッフも専ら外国人観光客を相手とするようなスキルを身につける。とにかくホスピタリティが洗練されていて、食事の内容を英語で説明してくれたりするのだ。これに舌鼓を打つ旅行者たちは満足して、そのことをTripadviserに書き込んでいき、その書き込み=レビューがさらに雪だるま式にこの上位のレストランの評価を上げていくのである。こうやって、現地の人々の味覚とは全くといってよいほど関連の薄い料理がパルメラの名物としてTripadviserと外国人旅行者によって創造されていく。いわばTripadviserおたくたちによるフィルター・バブルが、ここでは発生している。

日本にも創造された珍名所

この例はポルトガルのものだけれども、これと同じことが日本でも起こっていることに、もはや多くの人々が気づいているのではなかろうか。試しにTripadviserに掲載されている渋谷のホテルやレストランの評価を見てほしい。ベスト20にラーメン屋の一蘭、一風堂、元気寿司なんてのが登場する。ホテルに至ってはベスト10にドーミーイン、サンルートプラザ、エクセルホテル東急、渋谷東武ホテルといったビジネスホテルが目白押し。日本人からしてみれば完全に「???」のお店がランクインしているのだ。で、この「???」感覚が、実はポルトガルのパルメラの住民がTripadviserのランキングを見た時の反応だろう。つまり、Tripadviserはその国以外の書き込み好きの海外旅行オタクによって構築され、日々更新され続ける旅行情報サイトなのだ。そして、ここには新しい情報と言うより、最初に書かれた情報に上書きされる形でレストランやホテルのランキングが更新されていく。

観光とは、昔から「まなざし」が創造(ねつ造?)している。

ただし、だからといって僕は「現地の人々の世界に密着したホテルやレストランこそがオーセンティックな、つまり本物なのだ」とは決して言うつもりはない。こういった旅オタクがネットを介して創造していく観光地もまたもう一つの本物といっていいからだ。もとより、観光というものはそういうもの。100年前のバリやハワイだって、こうやってねつ造、いや創造されたものなのだから。

つまり、現地とは必ずしも関わらないところで観光というまなざしは形成され、そしてそれが自立したものとして観光地というものを作り上げていく。それを、ものすごく早回しでやってくれるのがネット世界のインタラクティブな書き込みによる情報なのだ。

もちろん、これは民意を反映していない。ま、そんなことは問題ではないんだろうが。ただし、そのことだけは知っておいた方が身のためだろう。ネットの意見は「ネット住民」という人たちが作っている。

もう、あちこちで話題になっているネタだが「はすみとしこの世界」氏がアップしたシリア難民を揶揄するイラストが問題になっている。ご存じのように、貧困状況にある人間が何の苦労もなく生きたいので寄生的に「難民をしよう」と考えているという指摘だ。つまり「こいつらはなりすまし難民の移民」といいたいわけなんだが。

当然のことながら、このイラストについては二つの点から火の手が上がった。ひとつは当然レイシズムに対する視点から。そしてもう一つはオリジナルの写真をパクったという点から。今回はこの二つの点をメディア・リテラシーを学ぶためのネタとして使ってみたい。

「はすみとしこの世界」氏がレイシストとみなされるメカニズム

まず、前者、この作者がレイシズムの固まりみたいな輩という非難について。本人は「一部の偽難民がそれを権利として思いやってくることに問題を感じ、問題定義として、偽難民についてみなさんが考えるきっかけを作りたかった」と説明している。だから本当にやむにやまれぬ難民に対して、これを非難しているわけではないということになるのだが、はっきり言って、この釈明はメディアリテラシー的には全くもってダメである。というのも「はすみとしこの世界」氏はメディア、そしてインターネット、さらにはSNS時代のメディアの機能を全然理解していないからだ。いくら「レイシストではない」と主張したとしても、現在のメディア環境では、氏の意向にかかわらず、氏には結果としてレイシストのレッテルが貼られるようになっている。こういったメカニズムに全く無知な点が問題なのだ。

確かに、そういった「偽装難民」、存在するだろう。ただし一部であり、それを一般化することは当然出来ない。「あのクラスのAはバカだ。だから、あのクラスは全員バカだ」とは言えないのだから、あたりまえだ。そして、こういったいわゆる「フリーライダー」の類いはどんな時にも必ず存在する。また、陰で「こういる連中、いるんだよね」という話題もわき上がる。まあ、こうやって内輪でやっている分には構わないだろう。でも、普遍化は出来ない。

ただし、これをネット、SNSにアップして拡散することは別の話だ。やった瞬間、世界中に開かれているネット上では、場合によってはとんでもない勢いで拡散されるおそれがある。とりわけそれがデリケートな問題の場合には。そして今回が、その「場合によっては」の「場合」なのだ。社会的な認識の趨勢としては「シリア難民をなんとかしなければ」という正義が成立している。しかもEU圏では深刻だ。そんな重大な問題について、その気をくじいたり、逆撫でするような行為をした場合には、一気に拡散し、ネタ元の当事者がネットいじめ=サイバー・ブリーイングの餌食となってしまう。これがSNSやブログの恐ろしいところなのだ。で、今回の場合、この騒ぎが世界中に広がってしまった。BBCをはじめとする世界中のメディアがこの「はすみとしこの世界」氏のイラストを掲載し、これを非難したのだ。でも、これってあたりまえの話だろう。

そして、これがネットのみならずマスメディアでも拡散されるに至って、今度は「こんな事をやっているなんて日本人はとんでもない」というようなムードが作り上げられる。たったひとつのアップネタが、ここまで行ってしまうのが現在のメディア(インターネットとマスメディアの情報のスパイラル=循環が発生している)状況なのだ。「はすみとしこの世界」氏、なんともはた迷惑な御仁である。

これはバカッター騒ぎと同じ構造

さて、この騒ぎ、数年前にSNSを介して発生し、話題となったいくつかの事件とまったく同じ構造に基づくことにお気づきだろうか。それは、例えば「ローソン、コンビニバイトの若者が裸になって店のアイスクリームの中に横たわった」という事件だ。これも内輪でやっている分には騒ぎにはならない(もちろん、これ自体は大いに問題だが)。騒ぎになったのはこの写真をTwitterにアップしてしまったから。その結果、これがマスメディアにも取り上げられ情報のスパイラルが発生。大事件という扱いとなり、ローソンは謝罪、当該店舗とのフランチャイズを解約といった事態にまで及んでしまった。

この二つに共通することは、要するにインターネット・リテラシーの無さだ。SNSやブログに、本来なら内輪ネタで済ますべき内容を無造作にアップすれば、当然、これはサイバーブリーイングの餌食となる可能性があることが分かっていない。いわばネット上の他者の反応に対する想像力が根本的に欠けているところが共通の問題なのだ。「そんなことをしたらどうなるのか?」これがわかっていないのである。

「はすみとしこの世界」氏が叩かれる理由、それは本人がフリーライダーを指摘しレイシストだからとか、世界の社会情勢に無知だからではない(まあ、それもあるが)。いちばんの理由はインターネット世界に無知であるからだ。そして、その無知が日本人全体のイメージを穢すような事態を生んでしまっている(このメカニズムも一部の事実をあげてそれを一般化するという点では「はすみとしこの世界」のネタの展開とまったく同じメカニズムであるところがなんともいえないが。言い換えれば、これを見て怒っている人間も「一部のメディアの機能に無知な日本人がやっただけ」と相対化する必要があるということでもある)。

「そうだ難民しよう!」のデザインはパクリか?

さて、二つ目の非難であるオリジナル写真のパクリ問題。「はすみとしこの世界」氏の元ネタとなっているのはレバノンの難民キャンプでジョナサン・ハイアムズ氏が撮影した六歳の難民少女の写真だ。背景とタンクトップの柄こそ変更されているが、それ以外は女の子のポーズ、そしてタンクトップの皺に至るまでまったく同じだ。

ハイアムズ氏にしてみれば迷惑な話だろう。自分が訴えたかったメッセージと全く逆の立場でイラストが利用されたのだから。ただし、これをパロディと考えれば(政治性を含んだ過激なパロディだが)これはこれでありだろう。この程度でパクリだとか著作権に触れるだとか言われてしまったら身も蓋もない。そもそもパロディとは「既成の著名な作品また他人の文体韻律などの特色を一見してわかるように残したまま,全く違った内容を表現して,風刺滑稽を感じさせるように作り変えた文学作品」(スーパー大辞林)なのだから、これを否定することはパロディという行為それ自体を否定したことになってしまう。それゆえ、パクリと非難するのは誤りだ。そもそも「はすみとしこの世界」氏は、はじめからハイアムズ氏のメッセージを否定するためにやっているわけなんだから、このアップネタは見ている側にオリジナルが判明するようでなければ意味がない。で、氏はその作業、いわばネガティブなパロディの操作をやっているにすぎない。

われわれは先有傾向に基づいてオリジナル写真を解釈している

そして、ちょっと視点を変えて、ここでもう一歩メディア・リテラシーについて踏み込んだ考察をしてみたい。注目したいのは「はすみとしこの世界」氏のイラストではなく、むしろその引用元となったハイアムズ氏の写真のほうだ。実は、僕はこの写真に疑問を感じている。っていうか「新味のない、お定まりの手垢のついた写真」に思える。

というのも、この写真がシリアで悲惨を極め這々の体でレバノンキャンプへと避難してきた難民の女の子というふうに規定するには、ちょっと難しいからだ。もちろん、われわれはこの写真を見た瞬間、難民の悲惨な状況を想像することが出来ることも事実だ。だが、それはこの写真にテキストが、いわばキャプション、あるいは文脈として先行的に加えられているからにすぎない。つまり、レバノン難民+悲惨+いたいけな少女(子ども+女子=弱者というジェンダーがしっかりと刷り込まれている)という組み合わせ。ところが、もし情報がこの写真のみで一切コメントやキャプションがなければ、ただの子どもの写真でしかないのだ。言い換えれば、「はすみとしこの世界」氏が仮にこの写真を背景を含めて完全にパクり(つまり女の子も背景も写真のまま)、ここにパロディ化した文章(「安全に暮らしたい~そうだ難民しよう!」)のみを加えたとしたら(もちろんこちらがオリジナルを知らないという前提だが)、おそらく僕らはこの写真の女の子を「邪悪な子ども、餓鬼、欲望だけの存在」というふうに認識してしまうだろう。

これを概念的に説明すれば次のようになる。

先ず前提的な知識が存在する(難民問題についての情報を知っている+写真のキャプションや説明のテキストを読む)→それに基づいて写真を理解する。言い換えれば、これは解釈誘導型の写真なのだ。これをたとえば、ピリッツアー賞を獲得したベトナム戦争に関する二つの写真である沢田教一の「安全への逃避」(川の中を逃げ惑う親子)やヒュー・コン・ウの『戦争の恐怖』(爆撃を受け火傷を負いながら全裸で逃げる九才の少女)あたりと比較してみると、そのコントラストは明確だ。こちらは先ず写真がある(もちろん、ベトナム戦争という知識は前提されてはいるが)→これを見た側に強烈な印象が植え付けられる→戦争の恐ろしさを感じる。つまりこちらの場合は文脈ではなく映像に語らせているのである(ちなみに、すべてのピリッツアー賞受賞作品が必ずしもこうなっているというわけではない。超有名なロバート・キャパのスペイン内戦は実は別の写真で、しかも撮影したのはキャパではないし、硫黄島での星条旗を掲げる写真は撮り直しであることが判明している)。

写真は真実を語らない

こうやって今回の問題をパクリ、そしてパロディという視点からメディア・リテラシー的に捉え直してみると、オリジナルの写真も「はすみとしこの世界」氏のアップネタのイラストもきわめて恣意的で、読者に映像を誘導的に読み取らせようとしているという立場からすれば大差がないということになる。

「はすみとしこの世界」氏の行為は、結果として、われわれに「映像は必ずしも真実を映し出さない」という教訓を与えてくれる。いいかえればオリジナルの写真の虚構性を剥ぎ、これを相対化するきっかけを提供している。もちろん氏自身のメディアリテラシーからすれば、そんなことは知る由もないことだろうが。

自分の映った写真を見た時、「これ、自分じゃない」と思ったことがしばしばあるんじゃないだろうか?その一方で「このオレ(アタシ)、イケてるよな」という写真もあるんじゃないんだろうか。でも、この時、私たちは私たちがイメージする自分自身に基づいて写真に写った自分を評価しているにすぎない。そう、写真はどのようにでも解釈されるように出来ている。そして、そのイメージがメディア(マスメディアやインターネット)を介して流通することで、それは「真実」というフィクションを構築する。このことは肝に銘じておいた方がいいだろう。

今回はイオンモールの存在について考えてみたい。イオンモールはイオンが運営する店舗(モール、タウン、スーパー、ショッピングセンター)の内、大型ショッピングセンター、つまり最も規模の大きいカテゴリーを指す。商店街が全天候型の屋内施設にすっぽりと収まっていることをイメージしていただければわかりやすい。その多くは横長で片方にかつてのスーパー的(=俗的)なもの(スーパーマーケットや衣料、電化製品など)を、もう一方にアミューズメント的(=遊的)なもの(シネマコンプレックス、ゲームセンター、書店)を置き、その間を通路にしてブランド店や雑貨店、レストランを配置している。まあ、「商店街のテーマパーク」といったらよいだろうか。ちなみに、イオンモールくらいの規模となると、それ以外にカルチャーセンターやスポーツクラブ、英会話学校といったものまでが店舗としておかれており、まさに商店街、いや街そのものだ。

イオンモールは地方に置かれる場合、その多くは県庁所在地が立地となる。しかも既存の商店街からはちょっと外れたところに建設されるのだけれど、これが地方にできると、地域の人間のライフスタイル、もう少しはっきり言ってしまえば消費生活がすっかり変わってしまうという現象が起きる。ちなみに、この現象は首都圏郊外よりも地方都市郊外にイオンモールが出来た時に顕著だ。

みやざき人の生活を一変させたイオンモール宮崎

僕の経験をお話ししよう。
2005年6月、宮崎市の郊外、宮崎港の近くにイオンモールがオープンする。完成時には九州最大の規模で、あまりの大きさに「こんなもん作って大丈夫なのか?ただでさえ、宮崎は凹んでいて、中央の商店街は閑古鳥が鳴いているというのに」と思わず思ってしまったほど。

ところがこれは杞憂にすぎなかった。イオンモールは活況を呈したのだ。

オープンして1年ほど経った2006年の9月、僕はふとしたことから当時の店長と会談する機会を持った。その時の店長の話が忘れられない。曰く、「宮崎の商圏は50万人規模。ところが、このモールはがんばってしまって70万人規模の大きさにした。さすがに大丈夫かなと思えないでもなかったが、フタを開けてみれば現在90万人規模の勢いで顧客が推移している」。その理由として、それまではショッピングといえば鹿児島、熊本、博多へと出かけていた宮崎住民(いずれの都市にも格安バス路線が運行している)を、ここに留めてしまったこと、さらには商圏を超えて顧客がやって来たことをあげていた。もちろん、これで元々あった宮崎駅周辺の商店街は消費者金融と飲み屋と団塊ジジイの趣味の店、そしてシャッターの下りた店だけになってしまったのはいうまでもない。イオンモール、恐るべしである。

ヴァーチャル東京という魅力

でも、なんでここまでイオンモールは地方の人間を惹きつけてやまないのだろう。

それは、そこにヴァーチャルな東京が存在するからだ。

価値観の多様化の一方で社会の規格化、平準化もグローバル規模で進行している。例えばネットにアクセスすればいろんなものにアクセスすることが出来るが、ネットにアクセスするという行為は原則スマホを使ってということになる。つまり、世界中がネットを見るためにスマホをいじるという規格化された行為を行うようになる。また、消費や流通の徹底した効率化が図られれば環境もまた平準化する。空間はコンビニ、ファーストフード、ファミレス、家電や紳士服の量販店といったもので埋め尽くされるようになるのだ。気がつけば全国津々浦々、まったく同じような空間が構築されるに至った。三浦展の言うところのファスト風土化が進行しているのである。
そして、この規格化、平準化を消費の側面で最も強力に推進しているのがイオンモールなのだ。

イオンモールは、こういった規格化されたユニットをブロックとしてビルトインさせた巨大な商店街(そしてこれももちろん規格化されている。だから他のイオンモールに行くと、しばしデジャブに襲われる)。その中にはUNIQLOやGAP、ニトリ、スターバックス、カルディ・コーヒーファーム、シネコンといった店舗がズラリと並んでいる。そして、これは郊外に点在する量販店に行くよりも快適だ。なぜって、いったんクルマでイオンモールにやってくれば、あとはモールの中を歩けばいいからだ。クルマで移動する必要なんかない。しかも全天候型、つまり屋根がついていて空調が効いているから実に快適。

イオンモールの魅力をさらに助長するのが「東京的な情報」だ。これ、間違っていただいては困る。「東京の情報」ではない。あくまで「東京「的」な情報」のこと。この二つの違いは次のように説明できる。東京的な情報とは、要するにメディアを介して構築されるイメージとしての東京の情報だ。これがイオンモールという商店街にはギッシリ詰まっている。規格化された店舗(マックやスタバ、UNIQLOを典型とするような)からなる商店街が「東京的な情報」を放っているのだ。で、ここに地方の人間がクルマで乗り付けてくると、当然のことながら彼らは「東京的な生活」を享受できる。一方、「東京の情報」は、これとはだいぶ違っている。東京(そして近隣)の人間が向かうのはモールではなくスーパーやその他の店だ。点在する店に用途ごとに向かうのだ。だから情報は結構バラバラ。つまり昔ながらの生活。そして東京人は、ここにクルマではなく、歩きや自転車で毎日のように出かけて商品を購入する。

つまり、地方の人間は次のようなサイクルによってイオンモールに吸い寄せられていく。メディアが媒介する東京的な情報に魅力を感じる→それを具現化する場所としてイオンモールにまなざしが向けられる→実際に向かうことでこれら情報を購入できる→さらにモールという空間を周遊することで「東京的なイメージ」に浸ることが出来る→この東京的なイメージはメディアを介して再生産される→イオンモール通いが嗜癖化する。

で、こうなるとかつては東京に魅力を感じていた若者も、イオンモールという「今そこにある東京」を確保できるわけなので、もはや実際の東京はどうでもいいい。東京なんか行ったとしても知らない人ばっかり。でも田舎にいれば、田舎のぬっくい感じと、都会の気分を両方とも味わえる。どうして東京へ行く必要などあるのだろうか、ということになる。そう、マイルドヤンキーの誕生だ。

「東京的なもの」へと変貌する東京

さて、こうなると東京とは何なのか?という根本的な問題にたどり着く。東京人のスノッブな上から目線からすれば「あいつらはニセの東京を掴まされて喜んでいる可哀想な連中」ということになるのだけれど。いや、そうではないだろう。規格化、平準化が進む社会、実はもはや本物の東京よりは、もっと本物らしい東京=メディアに媒介されて構築されたイメージとしての東京の方がよりリアルなのではなかろうか。つまり「東京」と「東京的なもの」はもはや立場が逆転している。「東京的なもの」こそがむしろオリジナルになっているのだ。

そういえば東京自体も、次第に東京的なものによって環境を駆逐されつつあるのでは?僕は、こういった全国的な「東京的なもの」への変貌を「イオン化傾向の高まり」と呼ぶことにしている。都会的な生活とは、今やクルマでイオンモールへ日参し、UNIQLOやニトリ、スタバな生活をすることなのだ。

最後に、さて、じゃあ東京はどうなる?僕は東京が「首都」から「趣都」(森川嘉一郎)へと変貌することで、その機能を再定義されるのではないかと考えている。つまり東京こそ「オタクの殿堂」になるのだ。

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