勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2015年09月

NHKのど自慢は1946年にラジオが、そして53年にはテレビが放送が開始され、現在でも毎週日曜の昼に放送されている最も息の長い番組だ。9月26日放送の会場は岩手県山田町。そして出演はなんとSMAP。この番組は震災復興支援の下、土曜夜のゴールデン枠で一時間半の特別放送が組まれたのだが、これがなかなか魅せるコンテンツだった。まあ、あののど自慢にSMAPが出るのだから特別枠になるのはあたりまえ(まあ8月30日の秦野大会でも出てはいたが)、でもって相変わらずジャニーズ事務所は偽善に満ちているなんて陰口をたたくのは簡単だ。しかし、そんなヤボなことを言う輩はスルーして、今回ののど自慢の新しさについてメディア論的視点から考えてみよう。ポイントは素人をどう扱うかだ。

出場者を完全にコントロールしていた60年代までののど自慢

考えてみればのど自慢という番組は専ら素人を相手とすることを旨とする番組だ。ただし、当初は完全に制作側が素人をコントロールする形で展開されていた。

僕は子どもの頃(60年代後半、正確な年は忘れてしまったが、おそらく67年)、地元でののど自慢の公開録画を見に行ったことがある。番組は本番前にリハーサルが展開されるのだが(これも公開されていた)、すでにシナリオが決まっており、参加者は本番ではリハーサルと全く同じことを喋らされていた(だから本番がものすごくつまらなかったのだけれど)。このスタイルは、恐らく現在でも踏襲されているだろう。ただし、スタイルは同じでも、状況はだいぶ異なっているのではないだろうか。それは、素人が必ずしも制作側の指示通りにはならない、あるいは指示に従ったとしても、カメラに対する対応の仕方を学習しており、番組進行に素人側がある程度介入することができるようになったこと。さらには、こういった素人側の介入を番組の中に取り込んでいくというスタイルを番組側が採用するようになったことだ。いわばNHKのコントロール下にあってもある程度、アドリブによるジャムセッションが繰り広げられるようになった。こういった番組編成の柔軟化がマンネリであるはずののど自慢を長らえさせてきた理由のひとつでもあるだろう。

サンフランシスコ大会の奇跡

2002年、のど自慢は会場を海外、アメリカのサンフランシスコに移して行われた。これが偶然「感動のサンフランシスコ大会」となってしまったことは、知る人ぞ知る事件。単身アメリカに上陸しハリウッドスターを夢見ながら歌う若者、元ロッテの外人助っ人レオン・リーの娘の熱唱(会場にリーがいて、友人の北島三郎がステージから声をかけた)、亡き日本人の妻を偲んで彼女の好きだった曲を歌い上げる白人老人。彼らはアドリブこそ飛ばしたわけではないが、自分の人生を背後に抱えながら曲を歌い上げる。会場は次第に異様な雰囲気に包まれ、感動の涙の渦と化す。ゲストだった北島は感極まり「この大会は普通ののど自慢ではありません」的なコメントを思わずしてしまう。この時、まさに歌がその人たちのライフヒストリーを語ってしまうという、番組始まって以来の前代未聞のアクシデント=ヒューマンドラマを発生させたのだ。

ヒューマンドラマを巧妙に挟み込む

さて、今回ののど自慢。やはりポイントはSMAPを登場させたことだろう。そして、時間枠は一時間半へと拡大。この二つの要素が加わることで、番組はヒューマンドラマをを中心とした展開を色濃くしていった。出場者が歌を披露する前に、事前に収録した参加者の日常が映し出されるのだが、これがSMAPによる訪問という形を取ったのだ。もともとこういった素人の中に入り込んで話し込むというスキルについてはプロ中のプロであるSMAPのこと。NHKのスタッフとしては、ただカメラを回してSMAPのメンバーに勝手に参加者たちとやりとりをさせれば、それで生き生きとしたドキュメントが撮れてしまう(もっともNHKのスタッフもSMAPに口を挟むことなど出来ないだろうけれど)。そして視聴者側は出場者のヒューマンドラマをコンテクストに歌に聴き入ることが出来る。もちろん、それが上手いとか下手とかいうレベルは大した問題ではない。人生が語られているかどうかの方がはるかに重要なのだ。つまり素人の「素人ライフ」を徹底的に主役にする。そして、これを盛り上げるのがSMAPのメンバーに他ならない。司会は小田切千アナだったが、ほとんどどうでもいい存在にまで引っ込められ、進行は実質中居正広(紅白司会、金スマ等司会)、香取慎吾(仮装大賞司会)、草彅剛(ぷっスマ進行)この三人のゴージャスな「司会者」による展開となった。で、これを盛り上げたのが木村拓哉と稲垣吾郎で、とりわけキムタクは徹底的に出場者に荷担するというヨイショぶりで会場を盛り上げる。

まさにSMAP出ずっぱりなのだが、このメンバーたちがスゴいのは、結局、自分たちより出演者をゲストとして盛り上げていたことだ。そして最後は参加者、会場が一体となって「世界で一つだけの花」を合唱。参加者、会場、そして視聴者全員を満足させることにも抜け目がない。

こういった構成、ある意味NHKらしい。型にはしっかりはめてはいる。しかし、かつてと違い詳細まで型にはめるのではなく、大枠だけを徹底的に固め、あとは参加者に委ねるような、さらにはSMAPという芸達者たちにアドリブをさせるような余裕のある演出を展開しているところが、かつてとは違う。いわば「素材を引き出す」という演出法がここにはある。
型にはめながらもドキュメント的な、そしてあまりヤラセにならないヒューマンドラマ的な、つまり「ナマを取り出す」という手法。現在のところいちばん長けているのがNHKなのではないのだろうか。ちなみにこの手法、「ファミリーヒストリー」「鶴瓶の家族に乾杯」「キッチンが走る!」「サラメシ」といった番組でもしっかり採用されている。

毎度繰り広げられる韓国人の大騒ぎ

タイ、リゾートのプールでここ十数年、毎回と言ってよいほど見かける「お馴染みの風景」。それは韓国人たちの他の客を無視した大騒ぎだ(中国人も同様だが、ちょっとスタイルが違う)。原則、仲間内でやってくるので人数が多い。だから当然、盛り上がっているのだが、プールの周辺でのインターナショナル・ルールは「静かにしていること」。白人を中心とした客は読書したり、スマホやタブレットをいじったり、はたまたナンクロや数独、クロスワード・パズルといったゲームを楽しんだりして、それぞれにくつろいでいる。
ところが、この静寂を韓国人が打ち破るのだ。その瞬間、「アダルト・テイストな空間」は「開放された小学校のプール」へと変貌する。

次の写真を見てほしい。

イメージ 1

リゾートホテルのプールで水球をする韓国の若者。他の客はプールから出てしまった。後ろに呆れ顔の白人観光客の姿が見える。


これは先日、僕の目の前で起こった「お馴染みの風景」だ。韓国人の若者たちが10人程度でやって来た時から「こりゃ、マズイかな?」の懸念していたが、案の定、いつもの事態が発生した。プール内で水球を始めたのだ。プールは彼らの独占状態。当然、他の宿泊客はうるさいし、泳げないのでプールから退散した。こうなると、今度は貸し切りゆえ、やりたい放題。大きな声を上げて騒ぎはじめる。まさに「開放された小学校のプール」状態。

しばらくして業を煮やしたプールサイドの白人宿泊客がプール担当スタッフを呼びつけ、クレームを付ける。ここで、やっとスタッフが彼らに注意に入った。

「静かにしてください」

彼らは素直に言うことを聞くのか?ある意味、そうだった。しかし言葉の本質を理解してはいない。彼らは水球を続けたのだ。ただし「文字通り」の指示に従って無言で。

なんで、こんな迷惑な行為を平気でやってしまうんだろうか。もちろん、彼らに悪意はないのだろうけれど。

リゾート・リテラシーの問題?

これは、いわば「リゾート・リテラシー」の低さによるものだろうか。韓国は海外旅行が一般化してから、まだ歴史が浅い。かつて70年代に日本人が大挙して海外を訪れるようになった時に顰蹙を買ったように(農協の団体がヨーロッパに知れ渡った)、旅行者としてのマナーがまだ身についていない。だから、いずれなんとかなるのでは?

だが、この解釈は当を得ていない。現在、日本人は海外旅行者としてはきわめてマナーがよいことで有名だ。つまり80年代以降、海外旅行が一般化する中でリゾート・リテラシーが身についた。ということは、韓国人もそろそろマナーを備えるようになるのではないかと期待をしてもよい頃だ。しかし、この大騒ぎ、以前と全く変わるところはないのだ。相変わらず彼らは世代、年代にかかわらず同じことを続けている。だから、これはリゾートリテラシーの高低よりも、他のところに主たる原因がありそうだ。

文化の衝突

色眼鏡をかけず、先ず間違いなく言えることは、ここに「文化の衝突」が発生しているということだ。リゾートエリア、とりわけプールという空間は前述したように白人文化圏の中で培われたもの。だからこの空間は個人主義を基本とするところ。それぞれが相手に迷惑をかけないという前提で気ままに振る舞うことが許される場所。そして彼らが持ち込んだこういったルール=マナーがインターナショナルなコードとして成立していった。つまりリゾートプール文化は白人文化なのだ。なので、この環境に足を踏み入れたものは「郷に入れば郷に従え」で、このルールに準じなければならない。

ところが韓国人の多くがこのことを理解していない。彼らにとってリゾート地はいわば「行楽地」。遊んで楽しむところ、つまり騒いでもよいところ。そして、仲間内でやって来てワイワイやるところなのだ。言い換えれば文化圏≒共同体的なしきたりが優先される。だが、それはリゾートのプールのルールではない。そこで、プールという空間を巡りコードのせめぎ合いが発生する。

さて、前述したように、こういった風景、もう十年以上も前から僕にとってはお馴染みの風景だ。以前はビンボーだったので、リゾートといっても中級レベルのところに宿泊していた。ところが、次第にここに韓国そして中国の団体客が押し寄せ、自らの文化的コードを当然のように押しつけていく。隣の韓国人客が仲間を部屋に入れ込んで深夜まで大騒ぎをしていて、注意をしても全く聞く様子がないのでフロントに苦情を申し立てた時のフロントの返事がいまだに忘れられない。それは、

“I am sorry, but because they are Korean.”

ホテルの側も重々承知しているのだ。だが、そうはいってもこれを受け入れないわけにはいかない。韓国人、中国人の客はその時点で、このレベルのホテルでは、すでに大口の需要先になっていたからだ。で、僕はその後、出来るだけ韓国や中国の団体客が入らないような規模の小さなホテルを選ぶようになった。その後、僕の実入りもよくなったので、ホテルのグレードを上げ、こういった団体が入ってきそうもないようなリゾートに落ち着くことに。しかし、この対策は数年しか有効ではなかった。韓国も中国も所得を上げ、そこそこのホテルにも大挙して押し寄せるようになったからだ。この写真はバンコク・パタヤの大型の高級リゾートのもの(最高級ではありません。ネット予約サイトで一泊一万円程度で宿泊可能なホテル)。ここでも、やはり同じことが繰り返されている。

インターナショナ・ルルールかアジアン(韓国、中国)・ルールか?

ヨーロッパで嫌がられる観光客としてしばしば名前が挙がる韓国人、そして中国人。この衝突を避ける方法は、一つは、もちろん彼らにインターナショナル・ルール=リゾート・リテラシーを身につけてもらうことだ。ただし、こんなふうにも言える。もはや、アジアのいくつかのリゾート地はかつての西欧人が占める場所ではない。ここパタヤにしたところでレストランの表記はかつてなら英語、ドイツ語、フランス語、日本語が併記されていたが、現在では英語の次にロシア語、韓国語、中国語の順だ(日本の表記はほとんどなくなってしまっている)。ということは、ここはもはや彼らのテリトリー。だから「大騒ぎ」共同体的な楽しみ方をデフォルトにしてしまうこと。つまり「リゾート」を「行楽地」に変更するのだ。そして白人をここから撤退させる(日本人は以前に比べると大幅に減少している。もう、撤退しているのか?いや、そもそもリゾートという感覚が乏しいのか?)。ひょっとしたら、ツーリズムを展開しているタイの側も、こちらの方が儲かるので好都合かも?

いずれにしても、タイという国はどこの国の観光客であれ、ブラックホールのように吸い込んでいく。これは、ただただスゴイ、したたかと言うほかはない。あなた色に染まるけれど、絶対にあなた色には染まらないのだから(笑)いや、タイにかかわらずアジアのリゾート、そしてツーリズムはこうやって続いていくのだろう。

佐野研二郎氏の東京五輪公式エンブレム使用中止を巡って「パクリ」についての議論がかまびすしい。はたしてあのエンブレムはパクリなのか?というのが、まあいちばんベーシックな論点だ。だが、「パクリ」とは何なのか。これが議論を巡って混乱しているように思う。今回はこれについて記号論的に考えてみたい。

パクリとは、さしあたり既存のもののコピーを指すのだが、実はこれだけではパクリを明確に定義したことにはならない。パクリを考えるには、その基本の作業であるコピー(これ自体ではパクリではない。しかしパクるためにはコピーは必要条件)と、それと対をなすもう一つの概念の「オリジナル」とは何かに立ち入る必要がある。

オリジナルは「無から有を生むこと」ではない

しばしオリジナルという考え方について間違った認識がまかり通っている。典型的で乱暴な俗説は「無から有を生むこと」という見方だが、これはあり得ない。世の中にそんなものは存在しないからだ。全ては既存のもの、つまりルーツを踏まえ、それを乗りこえていくかたちで新しいものを誕生させていく。音楽だったらロックはリズムアンドブルースをルーツにしているし、リズムアンドブルースはレイス・ミュージックを、レイスはバラッド等を、さらにバラッドも、という具合。ということはオリジナルとは「有から新たな有を生むこと」と読み替えた方が正鵠を射ている。佐野氏は松尾貴史との対談の中で「アートとは組み合わせである」的な発言をしていて、それが「パクリ屋」のイメージを助長するネタとして使われているようだが、このコメントはオリジナル、そしてアートのオリジナリティからすれば全くもって「まっとう」なのだ。

いくつか例を挙げてみよう。一つはアートシーン。1910年代、パブロ・ピカソやジョルジュ・ブラックら初期キュビストと呼ばれる一派は新たなアート技法「パピエ・コレ(貼り付けられた紙)」開発する。これはいわゆるコラージュと呼ばれる手法で、新聞や雑誌、包装紙、切符、写真など既存のものを切り貼りして作成するアート。まり構成要素が全てコピー。だから作品の断片に、たとえば新聞記事の一部を読めたりする。で、これは斬新な手法として高く評価された。

次に音楽シーン。1996年に発表された奥田民生作品『これが私の生きる道』。女性ユニットPUFFYのために作られたものだが、このメロディ、ビートルズの「恋に落ちたら」「涙の乗車券」「デイトリッパー」などを切り貼りしたと言っても過言でない(これに加瀬邦彦の「マーシー・マイ・ラブ」の一部が加えられていると僕は判断している)。この曲が大ヒットしたことは、三十代以上の方ならご存じだろう。面白いのは本作品が切り貼りしただけなのに、どう聴いても奥田節にしか聞こえないことだ。PUFFYの脱力的なムードが奥田イズムを強力に演出したこともあるだろうが。これは「パクリ」どころか、奥田が敬愛するビートルズへの「オマージュ」と評価されている。

さて、この二つに共通するオリジナリティを比喩的に図式化すると

1+1<X

ということになる。

「1」というのは既存のもの。本来なら1+1で「2」であるはずなのだが、ここでは右に「X」という別カテゴリーの記号が配置されている。そして「=」ではなく、不等号の「<」が置かれている。つこれを文章化すると「既存のものと既存のものを組み合わせた結果、アウトプットされたものは単に二つを合わせたのではなく質的変容を遂げてしまい(つまり1→X)、しかも既存のものの総和以上(<)の新たな意味やメッセージを発する」ということになる。前述した二例は、まさにこのXを生み出したゆえに、高い評価を獲得したのだ。

そしてこのXについては、しばしば「創発」という言葉で表現される。つまりクリエイティビティを含んだオリジナルでアーティスティックな機能を備えたものとなる。これを作品の受け手の方から解釈すると次のようにパラフレーズできる。

「1+1=2のはずである。にもかかわらずアウトプットは2以外の、カテゴリーエラーで異なるXになってしまった。それは本来ならば(既存のコードからすれば)誤りである。ところが、この誤りを受け手側が否定することが出来ない。間違っているけれど抗い難い魅力を放っている(これは「異化作用」と呼ばれる)。そこでこのXを受け入れ、さらに自らのコードとして再構成しようという意味作用が発生した時、それは創発性を帯びる。これがオリジナリティの基本的なメカニズムで、これが一般に認識されると、今度はこれが既存のコードとなる。もちろんそのコードは次の製作者によって打ち崩されていく対象となる(つまり、今度は「X」に対する「α」という新しいコードが提案される)。この繰り返しが結果として文化を再生産しているわけだ。

このようにオリジナリティを考えた場合、コピーという作業は、その下ごしらえとしての必要条件と位置づけられる。つまり、オリジナルとは「コピーなきオリジナル」ではなく「コピーを踏まえたオリジナルなのだ」。だからコピー自体はニュートラルな行為であって、良いも悪いもない。コピーそれ自体は、必ずしもパクリとは言えないのだ。

ただし、ここにビジネスが絡んでくると話は変わってくる。こういった作品が経済的、あるいは社会的既得権を保証する財産、つまり著作権として出現する場合だ。これが絡んだ瞬間、コピーは純然たるコピーになったりパクリになったりする。しかも、これが必ずしも創発と関連しない。

タモリ「つぎはぎニュース」のリアリティ

コピーとパクリがゴチャゴチャに理解されていることを解消するために、ちょっと別の例を出そう。まだ著作権がいい加減だった1980年代前後。ニッポン放送で「オールナイトニッポン」のパーソナリティを務めていたタモリは、ラジカセや編集機器を利用し様々なものつくって見せたりしていた。で、これを利用してタモリは「つぎはぎニュース」というコーナーを設けた。これはカセットの編集機能を利用したもの。NHKアナウンサーの語るニュースをリスナーが勝手につぎはぎし、別のストーリーに変えてしまうのだ。

「この二十日から北京で始まった大相撲九州場所で牝馬の横綱輪島が、いきなり棒のようなもので頭を殴られ気を失っている間に大潮が十四回目の優勝を飾りました」

と言った具合。NHKアナウンサーの中立で無味乾燥的な語り(1)、そして文脈のおかしな報道(1)。それぞれはさして面白くはないが(1+1>Xといったところか)、この二つが合わさった瞬間、コンテンツは抱腹絶倒ものに変わってしまう。官制的な人間がそのトーンでナンセンスでふざけた内容を展開することで異化作用、つまり 創発(X)が発生するのだ。このコーナー、大人気となったが、突如中止になる。まあ、あたりまえのことだが、これがNHKの知るところなり、著作権でクレームがついたのだ。

つぎはぎニュースのこの顛末が示すのはパピエ・コレと奥田同様、コピーだけでもオリジナルが生まれるということだ。ただし、ここに著作権が生まれた瞬間、このコピーはパクリに転じてしまう。面白い面白くないに関係なく。

二つのパクリ

こうやって考えてみると「パクリ」というのは二つに分類することが出来ることがわかる。一つは前述の「著作権に抵触するもの」。どんなに組み合わせが面白かろうが、それはパクリと認定される。だが「つぎはぎニュース」のようにここに新しいものが生まれないわけではない。もうひとつは「そのままそっくり転用してしまうもの」。これはオリジナリティも何もないので、新しい文化を生むような可能性がない。ただし、ここに著作権が生じていなければ、パクリにはならない(ただし、著作権はアップした時点で自動的に発生する)。

整理しよう。以上から4つのパターンが考えられる

1.素材=コピー+著作権フリー、組み合わせ=コピー
2.素材=コピー+著作権あり、 組み合わせ=コピー
3.素材=コピー+著作権フリー、組み合わせ=オリジナル
4.素材=コピー+著作権あり、 組み合わせ=オリジナル
(「素材がオリジナル」ということはあり得ない。組み合わせがコピーの場合も著作権に触れる可能性はあるが、素材に比べればはるかに可能性は低い)

結局、法律も絡めると、この中でオリジナル(狭義の意味で)と認められるためには以下の条件が必要となる。

1の場合:素材も組み合わせもコピーだが、使用されるコピーが一般的に編集素材として用いられる際の組み合わせのパターンと異なったところからコピーされたものであること。

2の場合:1と同様だが著作権利用許可を取っていること。

3の場合:全てOK

4の場合:著作権の使用許可を取っている場合
これら条件に該当しない場合、全てパクリということになる。

佐野研二郎氏の作品群はどうか

この分類に基づいて佐野氏の作品パクリ度をいくつか分類してみよう。
サントリーの夏プレゼント「夏は昼からトート」のデザイン。フランスパンのもの(No.18)は、パン=素材はそっくりそのままコピー、組み合わせはオリジナル。引用元に著作権がなければ問題がない。そうであるならば条件3に該当するが、著作権はアップした時点で発生しているので×。創発性については……うーん。「Beach」の掲示版(No.20)は組み合わせはオリジナルだが、素材として使われている掲示板に著作権があるので×。

五輪エンブレムのプレゼン用に使った羽田空港の展示例。素材の空港写真には著作権があるので×。そもそもプレゼン用で組み合わせについてもオリジナリティ云々の問題とはならないゆえ評価の対象外。つまり純粋に×。アートではない。

au LISMOのマーク。黄緑塗りつぶしの背景は確かにiTunesのパクリに近い。ただし背景を黄緑に塗りつぶすことに著作権はない。人のシルエットに代えてリスを使うことで独自性を打ち出している。まあ、売ろうとする商品がほぼ同じなのでハイエナ感は否めない。この場合、オリジナリティは低いがパクリではない。よって△。このあたり、韓国や中国企業がよく使う手だ。

東山動植物園のマーク。コスタリカ国立博物館のロゴによく似ているが、ここまで単純化したものだと同定が難しい。家紋を参考にしたでも十分通用する。だから法律的には○だろう。だが創発性がないゆえ×。ま、こんなところになるだろうか。

さて五輪のエンブレムである。これはベルギーのシアターのロゴに酷似していると作者から訴えられている。でもこれ、どうだろう?エンブレムのデザインを行う際にはインスピレーションだけではダメで、理論、文法、情報を詰め込む必要がある。また、これらを集約した後に、さらにビジネス的に運用可能なものでもなければならない。ムードなんかで決まるものじゃないのだ。ということは、これらの集約後にはコンセプトが洗練され、結果、極端な単純化が図られる。佐野氏のエンブレムはこの手続きがしっかりと行われている。例えば機能性だけを見てもこれは明快だ。エンブレムはあちこちに添付されるので、小さくしてもモノクロ化しても明瞭でなければならない。でも、ここまで単純化すればハッキリ解る。最終案が並べられていた画像を見たが、これだけを見ても佐野氏のデザインは傑出していた。1964の亀倉雄策氏による東京五輪のデザインもしっかり踏襲するなど、抽象度も高い(祭り、富士山、扇子、桜がポイントになっているのはコンセプト甘過ぎで問題外。桜なら大阪万博レベルまで持っていく必要あり)。こういった機能はベルギーのシアターロゴにはない。もっと文法的に甘い。そして単純化は同定が難しい。結論しよう、五輪のエンブレムはパクリではない。

ただし、正直、このエンブレムを見た時、個人的には「イマイチ」と思ったことも確か。いいかえれば「1+1」と「X」の落差=差異がさして感じられないものでもあった。つまり、佐野氏はまっとうな仕事をしているが創発性が弱い。

でも、佐野氏が選ばれてしまったのは……政治的側面云々を抜きに考えれば他の候補案がそれほどまでに出来が悪かったということになる。つまり、日本のデザイン界のオリジナリティの欠如。う~ん……

3万人?12万人?

8月30日、参院で審議中の安全保障関連法案に反対するグループ(学生グループ『SEALDs』が中心)が国会前で大規模なデモ(「安保反対10万人デモ」)を繰り広げた。主催者側発表は13万人(周辺も合わせるとのべで35万人)、警察発表で3万人が参加したと言われている。主催者側と警察側の発表数があまりにかけ離れているので空撮写真から計算する者も現れる始末。で、ここで問題になっているのは、つまり「参加者の数が多ければ多いほど、運動が盛り上がっている」という基準だ。だから主催者は盛るし、警察側は削る。

さて、実際のところどうなんだろう?と思う方もおられるかもしれないが、現代では実は3万人だろうが12万人だろうが、こういった運動の盛り上がりを示す指標には必ずしもならない、つまりどちらでも同じと僕は考えている。ちなみに、僕は安保法案反対である。だから、ここでデモをやってくれた人たちにはエールを贈りたいとは思う。しかし、「いまどきのデモ」がどういう意味を持っているかについては冷静に考える必要がある。

ポイントは、ここに集まった人々が母集団を忠実に反映しているかどうかだ。恐らく、かつてであるならば、ある程度は反映していたと言えるだろう(60年安保、70年安保の際、やはり学生たちが暴れ回ったが、これに親密性を抱いていた一般人は多かったはずだ。ま、中身が問題ではあったけれど)。ところが、最近ではちょっと確信を持ってこう断言はできなくなっている。

所属集団と準拠集団、分離の加速

社会学には「所属集団」と「準拠集団」という二つの考え方がある。所属集団とは社会的に認定された集団。共同体、組織、企業、グループなどがこれに該当する。所属集団内の人間は一定空間に拘束された状態(村落共同体など)だったり、あるいは所属していることを外部から認定されている状況にある。例えば、僕であるならば大学教員ゆえ、赴任先の大学が所属集団になる。児童であるのならば小学校が、生徒であるのならば中学や高校が所属集団だ。

一方、準拠集団とは個人の信念や行動の拠り所とする集団。つまり、その集団の考え方や行動のパターンを規範とするような集団。空間的な縛りとか、社会的な認定とかを必要としない。アタマのなかで「自分がここに所属している」、つまりアイデンティファイしていると考えるイメージとしての集団だ。かつては所属集団と準拠集団は重なっているという状況が大半だったが、現在では必ずしもそうはなっていない。たとえば大学に所属している学生の所属集団はもちろん大学だが、大学を四年間の腰掛けとしか思っておらず、四年間のモラトリアムを使って好きなことをするために利用しているだけで、その他の活動に精を出していて「心ここにあらず」としたら、この若者の準拠集団はアイデンティファイする側、つまり学生が精を出すパラダイム=拠り所にある。そして、所属集団と準拠集団、どんどんと一致しなくなっているのが現代なのだ。

所属集団と準拠集団の分離はイメージ、具体的にはメディアによって媒介される。メディアを通じて認識した世界にアイデンティファイすれば、それは所属集団の軛から逃れることが出来るようになる。そして、メディアの発達によって任意に情報を入手する可能性が広がれば、一定の準拠集団に所属する人間はますます空間に制限されることがなくなっていく。この流れは明治以降のマスメディアの発達、人口の流動性の高まりによって始まるが、これを加速させているのが60年代ならTV、そして現代ならインターネットなのだ。

準拠集団へのアイデンティファイを加速させるインターネット

インターネットはどこにいても任意の準拠集団にアクセスできる。例えば僕は今、タイにいるけれど、こうやってブログ書いているし、朝の「あまちゃん」の再放送も見ている(時差二時間ゆえ、朝5時起きですが(笑))。今日イチローが二安打したことも知っている。つまり、僕はタイにいながら日本人という準拠集団へ向けてアクセスし続けているわけだ。

さて、「あまちゃん」やイチローはさておき、ネットはもっともっとトリビアなものでも準拠集団を作ることができる。以前にも書いておいたけれど、僕はポルトガルワイン・オタクである。フランス、イタリア、チリ、アメリカ、スペインならわかるけど、こんなワインを常飲している輩などどう見てもマイノリティだ。でも、これもネットを紐解けば、ちゃーんと販売しているお店にたどり着くし、そこでオタクなポルトガルワイン談義も可能だ。

で、こういったトリビアな世界というのは、以前は人間同士がつながるにはかなり大変だった。やれないことはないけれど、ものすごく労力がかかったからだ(これがやれたのは、かつてだったら宗教団体とかユダヤ人とかだったのではないか。つまり教義というメディア=準拠集団で、空間に拘束されることなく互いが結びつく)。ところが、今では簡単だ。なんのことはない、ググれば一発でトリビアな世界に入り込むことが出来る。日本中、あるいは世界中に点在する同好の士とつながりを持つことが出来るのだ。

同好の士の間の共通関心はトリビアだけにディープだ。自分のトリビアな趣向など周囲の人はわからないから、これが見つかった瞬間、互いのコミュニケーションは「即、本題」つまり深い内容に入り込んでいく。当然、こうやって関わったならば実に楽しい。そして今度はオフ会が待っている。参加率が高くなることは言うまでもないだろう。で、日本中に点在する人間が1カ所でオフ会をやったらどうなるか。これは結構な数字になるわけで。

頻発する大規模イベント

で、最近、こういった大規模イベントとか集会があっちこっちで開催されている。つまり10万人規模なんてのが平気で存在するのだ。全国に点在する同好の士がかなりの確率で参加するんだから。そう、こうやって結構な数が集まるのがネット社会の特徴だ。だから3万人であれ12万人であれ、その規模を議論したところで、それだけではあまり意味がない。ちなみに、こういった大規模な集会、実は以前から一部で存在した。それは宗教団体の大会とか総会とか呼ばれているものだ。10万人規模なんてあたりまえ。スゴイ感じがするが、準拠集団としての宗教、つまりアイデンティファイするイメージ空間ゆえ、その参加率は否応にも高くなる(つまりオフ会)。でも、こういった宗教での大会での参加数が膨大であるからといって、これがメディアに取り上げられることはない。当該の宗教団体が発行する機関紙やら新聞が大きく取り上げるだけだ。なぜか?それらの参加者の母集団が国民ではないからだ。数が多くても、それは国民全体を反映していない。

国会前のデモ、あそこにいた人たちは国民を反映しているか?

さて国会前のデモに戻ろう。
こうやって考えてみると、あそこに集まった人々が国民、そして世論を反映しているかどうかは定かではない。ただの改憲反対オタクの集団かもしれないからだ。もしそうであったとしても10万人程度の人間はネットでの拡散を通して簡単に集まるはずだ。ただし、その反対を考えることも可能だ。つまり、参加者は国民という母集団をキチッと反映している、と。そのどちらかは数だけではわからない。ただし一つだけ必ず言えることがある。それが、今回のイタイコト、つまり「3万人であれ12万人であれ、数字だけを取り上げて盛り上がっているだとか盛り上がっていないだとか判断することには意味がない」。

橋下徹がこの件について「日本の有権者数は1億人。国会前のデモはそのうちの何パーセントなんだ?こんな人数のデモで国家の意思が決定されるなら、サザンのコンサートで意思決定する方がよほど民主主義だ」と批判しているが、これは前述した可能性の前者だったら当たりだし、後者だったらハズレだ。そして、根拠もなく前者と決めつけている点で、やはり「数字というトリック」に惑わされていることについては、主催者がは12万人を標榜し、これに力があると信じ込んでいることと全く変わりはない。

安保法案反対運動は、今回のデモで始まったばかりと考えるべき

繰り返し言うが、こんなことを書いている僕だけれど、安保法案は反対だ。だからこそ言いたい。「デモの参加者の人数なんて数えている場合じゃない」と。そして、こちらの立場からすれば、今回のデモを基点としてあちこちでこういった運動が起こってくれることを期待している。しかもスゴイ勢いで。もし、それが実際に起こったのであるのならば、それは結果としてデモ参加者は国民の意思を反映していると言うことの傍証になるだろうし(ルーマニアのチャウセスク政権が崩壊した時は、まさにこの図式だった)、これが打ち上げ花火だったら一部の法案反対者による集会ということの傍証になるだろう。

なので、問題はこれから。結果はいずれついてくる。

オマケ:ちなみにメディアがこの報道をスルーする傾向があるというのは別の問題だが(2012年に行われた「さようなら原発10万人集会は、今回以上に取り上げが小さかった)、これについては場所をあらためて、いずれ考えてみたい。

昨日(9月1日)、オリンピック組織委員会は佐野研二郎氏デザインの公式エンブレム使用中止の記者会見を行った。ただし、その中止理由は奥歯に物が挟まったような,きわめて後味の悪いものだった。事務総長の武藤敏郎氏曰く「デザイン界の理解としてはオリジナル」つまり盗用ではない、しかし「国民の理解が得られない」がゆえに中止するというのだ。

また佐野氏自身もコメントを発表し,あらためて登用でないことを主張。使用中止に同意したのは、この件を巡って自分及び身の回りがネット等によって危険にさらされているためだと説明した。

佐野氏の周辺があちこちで炎上しているのはお気の毒だが、メディア論的視点からすれば今回の件についてはネットの備える特性についてのメディア・リテラシーの低さから発生しているのではないかと僕は考えている?結論から言えば「みんなネットの意見を買いかぶりすぎている」。

今回は、これをメディア論的に考えてみたい。そして、今回の論考の視点(メディア・イベント)は先の国会前での安全保障法案反対のデモにも該当する。ちなみにここではこういった騒動の構造だけを抽出することが目的なので、僕個人の意見は脇に置いて考えて欲しい。誤解のないよう、ここからの議論とは関係ないという前提で僕のこの二つに対する見解を示しておけば、前者は「やっぱ、これってパクってる感じは強いかな?でも、証拠がないからダメだとは言えない」、後者については「安全保障法案反対、でも、デモの影響力は大したことがない」というものだ(ちなみにデモの件については長くなるので、論考については次回)。

悪いのは「国民」?

武藤事務総長はきわめて玉虫色の見解を示した。わかりやすく言い換えると「自分たちは悪くないけど、周りが気になるみたいだから、やめとく」。つまり、結論として誤りを認めていない。いや、そもそも誤りはないとしている。これについては佐野氏も同様であるとし、先ず、自分たち(佐野氏も含めて)の立場を守ることを優先させた。

そうなると誰がいちばん悪いのか?そりゃ「国民」に決まってます。あることないこと好き放題に言い放ってエンブレムのイメージ台無しにし、取り下げざるをよぎなくされちゃったんだから、国民がいちばん悪い、ってなことになる。

まあ、それはそれでよいのかもしれない。しかし、こうやって国民を敵に回してしまうことの副作用を組織委はわかっていない。なんのことはない。そのことは、何のためにオリンピックを開催するのかと考えればすぐにわかる。これって国民のためでしょ。ところが「オリンピックにケチがつくのはあんたたち国民のせい」と組織委がやってしまえば、国民の方も「あ、そう」っということになり、五輪への関心が遠のいていく。あたりまえだ。

要するに、今回組織委がやってしまったのは、身内(佐野氏も含めて)を守るという些末で保身的な面にのみ関心を持ち続けたゆえに、肝心のオリンピック開催が台無しになってしまったということなのだ。つまり「本末転倒」。

「国民」って、いったい?

しかし、ここで気になることがある。武藤総長が「こいつらのせい」と挙げた「国民」とは、いったい誰のことなんだろうか。僕は、これは国民ではなく、「ネット民」をコアとした「国民」と称される一群の不可視な集団と考えている。

今回の騒動にあたってはネットが大きな力を持ったことは言うまでもない。佐野氏のエンブレムパクリ疑惑が持ち上がると、一般人がネットを通じて次々と佐野氏のパクリ疑惑作品をアップし(完全に黒(エンブレムの展開例としてコピーライト付の羽田空港写真を無許可で流用したもの)もあったが)、これをメディアが取り上げた。さらにパクリ疑惑作品が指摘され、さらに盛り上がりといったネット―メディア(とりわけテレビ)循環が発生した。メディア論ではこういった一連の現象を「メディア・イベント」と読んでいる。事実のあるなしにかかわらず、メディアが取り上げ展開したものが事実として通用してしまうような状況を指すのだが、今回の例は全くこのまんまという感じなのだ。

今回、武藤総長が指摘したエンブレム採用を中止させた悪者が「あることないこと騒ぎ立てる国民」であるとするならば、その証明には次の条件が必要だ。それは、こうやってアップされた情報やコメントが国民の意見、つまり世論を忠実に反映したものであること。言い換えれば、ネット上で非難している人間たちの意見が無作為抽出されたもの、つまり国民=母集団を統計的に見て反映したものでなければならないのだ。

もちろん、そういうことにはなっていない。一部のネットユーザーたちが佐野氏の作品を調べ上げて「これはパクリだ」と主張し、さらに騒いでいるにすぎない(佐野氏のものでパクリが確定したものはまだほとんどないはずだ)。そして、こういった主張、ネットがなければ、本来は周辺の話題として消費されて終わりというのが関の山。

ところがそうはならない。SNSにアップされると、これを介して情報に尾ヒレがつきながら次々と拡散されるのだ。いいかえれば「言いたい奴が、言いたいように、言う」という状況が作られる。これに国民の意見を集約しているような統計的な根拠などないのは言うまでもない。

しかし、それでも、実はこれだけでもメディア・イベントとしてのエンブレム中止は起こらない。ネットでの騒ぎは、いわば必要条件。ここに十分条件が加わらなければならないからだ。その十分条件とは、こういったネット上での騒ぎ(あるいは炎上状況)を、前述したようにメディア、とりわけテレビがピックアップすることだ。メディアがネットからネタを取り上げて拡散すると、今度は膨大な影響力を発揮することになる(ネットとメディアでは拡散度が異なる。最も拡散度が大きいのは視聴率が下がったといっても、やはりテレビだろう。とりわけ報道面ではその力は強い)。そして、さらにこうやってメディア媒介経由で拡散された事件や情報が再びネット上で取り上げられ、さらに尾ヒレが付けられ、さらに拡散され、それをさらにメディアが取り上げ拡散し……というサイクルが繰り広げられると、結果として、それはさながら「国民の意見=世論」を形成しているかのように見えるようになるのである。まさに「メディア・イベント」。

また、こうやって作りあげられた事実は、一部の世論を代表しない人間たちにエキセントリックな行動の実行をかき立てる。それが当事者に対する誹謗中傷、プライバシー暴露、自宅やオフィスへの電話・ファックス攻撃、不買運動などなど。こういった心ない行動によって(これらは全て「匿名」という自己責任を問われないスタイルが採られている。もちろん民意を反映した行動ではない)、メディア・イベントの中でやり玉に挙げられた当事者たちは窮地に追い込まれるのである。今回の佐野氏はその典型だ。

「ネット国民」に怯えた組織委

組織委が今回の中止のせいにした国民とは、実はこうやって創造された「国民=ネットとメディアの循環が構築する世論を代表しない人々」に他ならない。国民のなかから何の根拠もないままにメディアが作り上げたイメージとしての国民、ネット媒介のサイボーグ国民≒なーんちゃって国民に組織委は恐怖したのだ。

となると国民、つまり「国民」ー「なーんちゃって国民」である大多数からすれば、今回の件は濡れ衣となる。「そんなの、いってないよ~。まあ、ヤバそうには見えるけど」といったところだろうか。で、迷惑千万な一般的国民からすれば「東京オリンピック?そんなの、どーでもいいよね」となりかねない。

組織委は保身に執着した挙げ句、関係ない相手をやり玉にし、その結果、東京オリンピックを台無しにした。それが、昨日の記者会見の結果だと僕は考える。やっぱり「腹を据えて」はいなかったのだ(次回は、同じメディア論的視点から憲法改正法案反対国会前デモを取り上げる予定)。


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