勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2015年08月

「こんまり」こと近藤麻理恵さん(自称「かたづけコンサルタント」)の執筆した『人生がときめく片づけの魔法』がアメリカを中心に世界的にベストセラーとなっている。本書は2010年に出版され100万部の大ヒット。さらにアメリカだけで60万部、世界では200万部の売上という。そして今年、近藤さんはアメリカでタイムが選ぶ世界的に影響を及ぼす100人にも選ばれた。それにしても、なんでこんなに人気が出たのだろう。今回はこれについてメディア論的に考えてみたい。

整理法というジャンル

近藤さんは「片づけ」という、とってもカジュアルな言葉を使っているが、実はこれ、いわゆる「整理法」と呼ばれるジャンルに属する。ゴチャゴチャしたものをどうやって整理するのかというのがテーマで、古くは川喜田二郎の『発想法』(1967)、梅棹忠夫の『知的生産の技術』 (1969)、などがその典型的な文献だ。ただし、これらはいずれもかなりアカデミックなレベルでの整理法の提案だった。川喜田はフィールドワークでのカードによる情報整理というもの、梅棹は京大カードの作成やひらがなタイプライターの使用(当時ワープロはなかったので)を提案しており、日常生活で一般的に用いられることはないような「その筋の人間向け」の整理法だった。

これがある程度大衆化されたかたちで登場したのが野口悠紀夫の『超整理法』(1993)だ。押し出し式ファイル法という、角2サイズの封筒(A4ファイルが収まる大きさ)にどんどん書類を放り込んでいくもので、ポイントはジャンルごとの整理ではなく、時系列で並べるのが最も記憶を辿りやすいという前提に従って、左から右へ封筒を並べていくことで、整理方法を単純化しようとするものだった。とはいっても、これもまたアカデミズムやビジネスの領域以外で使用するにはあまり現実味のないものという点では五十歩百歩。また、これら先人たちの技術は、パソコンそしてインターネットの普及である程度達成された部分もある。

情報とモノの氾濫、メディア誘導で錯乱する欲望

とはいうものの、情報やモノを整理することはアカデミズムのみならず、一般人にも共通する悩み。そして、時代はこれらを整理することがきわめて難しくなる状況を生み出していた。流通、そしてインターネットの普及によって、あまりに多くの情報やモノが流通し、われわれはそれを処理することが限りなく難しくなってしまったのだ。消費社会はわれわれの情報や消費に関わる欲望を不断に煽り続ける。するとわれわれはこれらの煽りに抗うことが難しくなり、とにかく「押さえておかなければ」という強迫観念が働いて、これを手に入れようとするというライフスタイルが常態化したのだ。いわばメディア誘導型の消費。気がつけば、身の回りには、なぜこれを手に入れたのだろうかすらわからない情報とモノに溢れているという環境が作られていた。これは情報の氾濫の中で溺れているという状態。つまりわれわれは情報とモノによって常に不安な心理の中に置かれることになったのだ。

大衆的整理法の出現

そんな時代のもたらした困難への対処に応えるかのように出現したのが大衆向けの、もっと簡単な整理法だった。その嚆矢がやましたひでこの「断捨離」という考え方だ。日本人が共通に備えているといわれる「もったいない」という感覚をバッサリと捨て去り、もったいなさに執着することなく不要なモノはどんどん捨てる(人間関係まで含めて)という考え方は、前述の整理法よりも、はるかに簡単にやれそうに見えた。
ところが「断捨離」の直後に現れた『人生がときめく片づけの魔法』は、それを凌駕する勢いを備えていた。というのも「ときめく片づけ」は「断捨離」の欠点を補い、しかもさらに簡単に実行可能な整理法だったからだ。

「断捨離」と「ときめく片づけ」のあいだ

断捨離の問題点は何か。それはポイントである「不要なモノは捨てる」という考え方だ。「不要」の反対は「必要」。だが、この二つを分ける基準はどこにあるのか?これが難しい。一般的な基準から不要ー必要を分けるとしよう。ところが、その場合、一般的な基準がなんだかわからない。情報やモノがたくさんありすぎるゆえ、一般的な基準も相対化されてしまっている。だから、定めようがなくなってしまっているのだ。結局、下手すると、不要―必要の軸が「もったいない」という基準に後退してしまうことすら考えられる。いや、実のところ、そうなってしまい、功を奏することはなかったのでは?

「ときめく片づけ」は、この問題をクリアしている。ポイントは「ときめく」という言葉にある。誰もが経験のあることだが、時にわれわれはパニックに陥ることがある。これは、いわば「周辺情報の処理が出来ず、身の置き場がわからなくなって混乱に陥っている状態」。現代社会はまさにこのパニック状態が常態の状態なのだ。前述したようにあまりに情報とモノが溢れてわけがわからない。そんなときのベストの対処法は「足下を見ること」。つまり、情報を最小限化してしまい、確実なモノだけを残して、それを再整理し、足場を固めて、再び世界に目を向ければいいのだけれど、「ときめく片づけ」にはそのやり方がちゃんと用意されてある。それが「ときめく」なのだ。

キーワードの「ときめく」。これはきわめて自己中な言葉だ。「ときめく」か「ときめかない」かは自分が決めるからだ。ここには断捨離が密かに要請するような一般的な基準といったものは存在しない。とにかく「私がときめく」ことが基準なのだ。だから、自己中。でも、逆にハッキリと基準を定めることが出来る。これは要するに、一旦足下を見ると言うこと。自分だけの世界にとりあえず退行することで「自分にとって必要か否か」という取捨選択が可能になる。この自由さが「ときめく片づけ」にはあるのだ。逆に一般的な基準が密かに要請されているような断捨離は、下手をすると教条主義的な押しつけになりやすい。「不要なもの」という消去法的かつ自己否定的な考え方と、「必要なものでときめくもの」という加算的かつ自己肯定的な考え方は、ここが根本的に異なっている。

また「ときめく」については「片づけをしようとする際にときめくか否か」が基準となる。これは消費生活の中で、メディアに煽られ、思わず「ときめいて」、手に入れてしまったものを処分するのにも有効だ。とにかく、「その場」でときめいた情報やモノを購入してしまったのは仕方がない。でも、「片づけの時」にときめかなかったら、それは不要な情報やモノなのだという見切りがつけられる。ここでも自己肯定、情報やモノに対する人間優位の思想がある。「ときめく片づけ」は、ひたすら人に優しい整理法なのだ。

「ときめく片づけ」の副次的効果

「ときめく片づけ」は情報化社会を生き抜くための処世術でもある。こういった自己中なかたちで身の回りを整理し「ときめく環境」の中に身を置くことで、あるものを可視化することが可能になるからだ。その「あるもの」とは自分自身に他ならない。片づけが終わって出来上がった「ときめきだらけの情報とモノからなる環境」が、翻って「私とは何か」を片づけを行った当の本人に視覚的に提示してくれるのだ。つまり、これら可視化された情報とモノを肯定し、それが私の世界であることを承認することで、省察的に「私自身」も肯定可能になる。ここで行われているのは、いわば「自己確認」だ。いや、それだけではない。さらに一歩踏み込んで、今度はその「ときめく私」を立ち位置に、外界に向かって足を一歩前に踏み出すことが出来るようになる。

近藤麻理恵さんは「こんまり」というあだ名が付けられ、なおかつ世界(とりわけアメリカ)で人気を博するに至ったが、そうなったのは彼女が提示した整理法が、要するにグローバルに展開している情報の氾濫に適応するためのユニバーサルな処方箋だったからに他ならない(もちろんアメリカでウケた背景には、アメリカ人独特のアメリカンドリーム的なイデオロギーとか、商売上手な出版元・サンマーク出版の影響とか、本人が若い女性であり、これをメディアがキャッチーだから取り上げたこともあるだろうけれど)。


前回のスマホによる板書撮影の是非に続き、今回は授業へのスマホ持ち込み、及び授業内での使用の是非について考えてみたい。

先ず、講義でのスマホ使用について
講義中にスマホをいじることを禁じている教員がいる。つまり「私が講義をやっているのに、スマホをいじって内職をやっているなど、けしからん」といったところだろうか(笑)。実際、授業中スマホをいじる学生が見られるのは、教員の間ではもはや日常的な風景。SNS、ネットブラウズ、ゲームなんてことやっているわけなんだけど。これに業を煮やし、受講生のスマホを取り上げた教員もあったとか。

スマホを講義中に使い始める理由

しかし、どうなんだろう……
講義中、スマホをいじって内職するのは教員、受講生双方に原因があるだろう。
先ず教員側。思いっきりつまらない授業、あるいはわけのわからない授業、あるいは聞き取れない授業を展開し、これに学生側が愛想を尽かし、でもそれでは手持ち無沙汰なので、とりあえずスマホをいじるなんてことが考えられる。でも、これって、授業に全く配慮のない教員(やっつけで授業をやっているような教員)の場合、実はWINーWIN関係が成立する。学生側の利益は先ほど説明済みだが、教員側の場合でも「講義が静かになる」というメリットがあるのだ。スマホいじりは授業では原則単独でやっている。その際、私語がなくなるからだ(もっとも、隣通しでYouTubeをブラウズし、笑ったり語り合ったりするという辣腕学生も存在するが)。講義は静寂さを保ちながら進行していく(「なんだかな~」とういう状況でもあるけれど)。結果として「講義」という「形式」が成立する……。

また、学生の側に、そもそも講義をまともに聞く意志がなければ、当然、スマホに指先が向かうだろう。まともに聞く意志がないのは忍耐力が無い、そもそも授業に全く関心が無い、出席をとるのでとりあえずいるなどなど、まあいろいろ理由があるのだろうけれど。

中には、こんな事例もあるという。
真面目な学生。だが教員が講義で説明した単語の意味がわからない。そこで、それを調べようとスマホをいじった。その行為を教員が気づき、これを「内職」と捉えて退出を命じた。もちろん単位取得資格も剥奪。「誤解を招く行為」ということなんだろうが。この時、教員ははじめから講義中のスマホ使用禁止を宣言していたわけではなかった。本人は積極的に学ぼうとしていただけなわけで、う~ん、これは可哀想。

講義中に使っていても、実は誰にも迷惑がかからない……神経質な教員以外は

僕は講義中スマホをいじっていても原則、構わないという方針で講義を進めている。それは、前述したどれかに原因が該当すると考えるからだ。つまり、こっちの授業がダメか、学生がダメ(あるいは両方)。前者の場合であるならば僕の責任なので、これはそうならないように工夫をしろという受講生からのメタメッセージと受け取ることにしている。ちなみにスマホを講義中にいじることに僕がさして頓着しない理由は二つ。一つはこれも前述したように私語がなくなるという恩恵があること(つまり「勝手に内職やってろ。黙っていて他の受講生に迷惑かからないんだから、放っておこう。ま、試験で痛い目に合うのは本人なので」という認識。ちなみに、画面を隣の人間と眺めながら喋っていたら、こりゃ当然、迷惑だから止めさせる)。もう一つは授業関係で調べてもらうというのは授業に耳を傾けようとする積極的な姿勢であると考えられるから。内職なのか、それとも関連事項の調べごとなのかは割合簡単に判断がつく。関連事項の調べごとの場合、一斉に調べ始めることが多いから。これが察せられた場合には、僕の方でスマホをいじっている受講生一人を指名し、調べている内容をたずね、こちらの方で説明することにしている。この場合は、授業内容に学生たちが関心を持ったか、あるいは僕の説明が舌足らずだったかのどちらかのサインであると判断している。もちろん調べることそれ自体を制止することはない。ま、調べ始めたら関連事項に次々とネットサーフィンされて、授業がおろそかになっちゃうのは困りものだけれど。

ゼミ進行ではスマホは格好のツールになる!

次にゼミでの使用について。
ゼミは、言うまでもなく少人数で学生と教員がインタラクティブに関わる形式の授業。ここではスマホの使用はむしろ積極的に活用した方が授業は活性化する。

たとえば、ちょっとでもわからないことがあったら即座にネットで調べさせる。学生の場合、言葉の使い方もかなり間違っているので、これもスマホでソッコー調べさせる。またゼミはインタラクティブな授業形式なので、はじめから用意していたもの以外の学習項目も登場する。こんな時、スマホは本当に便利だ。彼らにとって(僕らにとってもだが)、スマホは実に忠実な執事、家庭教師として機能してくれるのだから。だから、僕のゼミではスマホは全員(教員も含めて)常に机の上。で、誰かがよいデータを引っ張り出してきたら、これを大型のディスプレイに表示して共有する。その昔、辞書を引くのは「片手3秒で」なんて言われたものだけれど、現在はこれがスマホに取って代わった。そして、とにかくわからないことが出てきたら、すぐにスマホで調べる癖を付けさせる。これで「バカの壁」を超えることが出来るわけで。だから、わからないことがあってボヤッとしてた時には「指を動かせ!」と口を酸っぱくして言うことにしている。で、これができるようになった学生は強い!

おもしろいのは、ゼミの最中、スマホを私用に使っている場合だ。これも内職になるのだけれど、同じ内職でも講義とは全く異なった位置づけになる。というのも、これをやられると、ものすごく不快な雰囲気がゼミ全体に広がってしまうのだ。つまり、他のゼミ生たちが「アイツ、完全にやる気がない」というふうな印象を抱き、授業の雰囲気に水を差しモチベーションを下げてしまう。ちなみに、ゼミ内での私用のスマホ利用の場合、操作は机の下になり、下を向いているので、すぐにそれとわかる。少人数、狭い空間で相互が見える状況では、私用に使うといっても、結局、十分に周囲に迷惑がかかるわけで、教員が不謹慎と思うのみならず、他の学生もまた(いやむしろこちらの方が)不謹慎と思う。これについては禁止するというのが、まああたりまえだろう。

スマホの教育利用はまだ始まったばかり、いや、始まってもいない?

もちろん、これ以外にも授業にスマホを活用する方法はいろいろ考えられるだろう。大学側、教員側はスマホという新しいメディア(もはや新しくもないが)に戦々恐々としているのではなく、もう少し活用する方にアプローチすべきではなかろうか。もっとも、そのアプローチはスマホの特性を考える前に、先ず教育をどうするべきかを考えることから始めなければならないのだけれど。


オマケ:ゼミでのインターネットやSNS、スマホの活用法の僕の論考及び実践例については本ブログ「クラウド時代のゼミナール運営術」http://blogs.yahoo.co.jp/mediakatsuya/62869697.html、「機能していない大学のインターネット環境」http://blogs.yahoo.co.jp/mediakatsuya/64558702.html、「卒論作成ツールとしてのパワーポイント」http://blogs.yahoo.co.jp/mediakatsuya/63563644.html等を参照されたい。

インターネット、そしてスマホ時代の大学講義のあり方について考えてみたい。今回はスマホによる板書の撮影の是非について考えてみよう。

大学の学期末テスト。試験実施にあたっては、教員によって様々な制限が課せられる(制限のかけ方は任意)。最も厳しいのは試験への資料等の持ち込み全て不可というもの。ここから辞書持ち込み可、ノート持ち込み可、教科書持ち込み可、どんどんゆるくなっていくとコピー持ち込み可、さらには全て持ち込み可という具合になっていく(中には自著を買わせて、これを持ち込まないと不可。しかも試験中、担当教員が巡回し、テキストを開いて奥付にハンコを押すという作業を行う「辣腕」の教員も存在する。これ「テキスト持ち込みは義務、ただし奥付に教員のハンコのあるものは不可」という規定で、ようするに売れない本を無理矢理買わせるという、限りなくアカハラっぽいやり方だ。残念ながら実在する)。

そこで問題になることがある。それは「自筆のノートは持ち込み可だがコピーは不可」というレベル。この間隙を突いて、新手の手法が登場した。それは「スマホによる板書の撮影画像の持ち込み」だ。コピーは、一般的に他の受講生がとったノートをコピーしたもの。これを不可にする根拠は、恐らく「欠席しているにもかかわらず、他の人間の作業を都合よくいただいている」「ノートをとる努力をしない、不謹慎な行為」といったところだろうか。撮影は他の学生のコピーではない。だから前者のモノノイイは該当しない。ま、写真もある意味コピーだからコピー不可というのが該当するんだろうか?また「ノートをとる努力をしない」というのは、もう「なんだかな~?」と感じる世界に僕には思えてならない。これじゃ、まるで授業=勉強が「スポ根」に見えてきてしまう(もちろん、メディア論的には「ノートをとる」という行為自体が、勉学へのモチベーションを高めるという側面があることは認めるにやぶさかではないけれど、費用対効果的にはあまり意味がないと考えるので)。

しかしながら、板書の撮影、ものすごく意見が分かれている。大学の中には全学的に板書の撮影を禁止しているところもある。

板書撮影は著作権に抵触する?

たとえば「撮影は著作権に抵触する」といった意見。しかし、これはちょっと矛盾している。そもそも板書とは書き写されるため、つまりコピーされるための行為。だから、撮影が著作権に抵触するのであるならば、ノートとりも同列ということになるだろう。もう少し突っ込んだ議論だと、板書はよくても、撮影の際に教員が映るからダメ、つまり教員の肖像権の問題が発生するというものがある。ちょっと法律は疎いので、これはひょっとしたらマチガイかもしれないが、講義というパブリックな空間でパフォーマンスを展開する教員というのは公人なのでは?だとすれば肖像権というのは抵触しないことになる。また、教員が気になるのならば、板書を適当なところで一旦打ち切り、本人が教壇から退く、つまり黒板の外に消えて撮影を許可すればよいだけの話だ。

こういった議論はさておき、板書の撮影を合理的にやめさせる方法はもちろんある。それは「板書の撮影禁止を学則に明記すること」だ。原則、学生は大学の校則を遵守することを認めて入学していることになっているので、この場合は当然、罰則の対象としても構わない。つまり「権威」で押し切るというやり方なんだけど(笑)

板書撮影は授業効率を高める手段でもある

僕は、原則、板書の撮影を認めている。その理由は次のようになる。
ノートをとるという作業、実は「とる」という行為に意識が集中した結果、むしろ学習がはかどらなくなるという側面も備えている。中高時代にものすごく丁寧なノートをとっている生徒(女子に多かったという記憶がある)がいたが、その生徒たちが他の生徒に比べて成績がよいということは必ずしもなかった。むしろ、ほとんど板書らしきものをせず、ひたすら教員の授業に耳を傾け、必要な箇所をノートよりも教科書に直接書き込んでいたような連中の方が成績がよかった。なんのことはない、彼らは授業に集中していたのだ。

そう、僕が板書の撮影を認めるのは、要するに授業中は話の方に集中して欲しい、そして究極的には学習内容を自分のものとして欲しいと考えるからだ。もしペンを動かすのなら、それは板書ではなくてメモであるべきだ。この場合、ノート=メモは講義を聴いて思いついたことを書き付ける場所。つまり、ポイントを押さえておくために使用されるものになる。ただし、その際、教員側は授業内容を教科書や配布プリントに記載しておくという配慮を行っておく必要がある。あたりまえの話だが、復習(あるいは予習)する学生のニーズに応えなければならないからだ。比較的効果的なのはPowerPointで授業を展開し、その際にスライドのプリントを同時配布し、そこに書き込んでもらうやり方だろう。恐らくこれが一番効率的なのではないだろうか(ただし、教員が怠慢になって、一旦作成したスライドを延々続ける恐れがある。また、そしてスライド投影中は教室が暗くなるデメリットも。つまりメモをとりづらい)。

「思いをめぐらせる時間」を提供することこそ講義には必要

こんな配慮を教員側が行えば、板書などという「思考を中断させる恐れのある行為」を省略できるし、前述したように講義に集中できるし、さらに余った時間で、講義内容について学生側が様々な想いをめぐらすことが出来る。重要なのは、この「思いをめぐらすこと」。勉強というのは「暗記」で終わるものではなく、さらに「暗記したものを道具に、いろいろと考える」そして「それを自分なりに使いこなす=編集する」ものでもあり、そして、むしろこちらの方が重要と考えるからだ。

たとえば、『ドラえもん』で面白いのは、のび太がひみつ道具を使って問題解決をするところではなく、それを悪用≒応用するところにあるのだけれど、これって「学び」の本質を突いている。たとえば「ジャイアンに使ったひみつ道具をしずかちゃんに使ったらどうなるのかな?」といったのび太の妄想を思い浮かべていただきたい。ここに読者が関心を寄せるのは、ようするに、作品と自らの思考がインタラクティブになるからだ。つまり思考の揺らぎが読者側にももたらされる。それこそが知的な快感なのだ。

だから、この「思いをめぐらせる」時間を用意する手段があれば、勉強というのは基本的には面白いものになるのだ。そう考えると、メディアテクノロジーが高まった現代において「板書」という授業方法はもはやオールドファッションと言えるんじゃないんだろうか。

結論。学生の学習効率を考えれば、板書の撮影、別に構わないと思う。ただし、授業中にカシャカシャやられると、他の学生の迷惑になるし、音にイラッとくる教員もいる可能性があるので、その辺のマナーは守ってもらう必要があるけれど。

みなさんは、どうお考えになられるだろうか?

※次回は、授業中のスマホ利用(今回の講義の写真撮影以外)のあり方について考えてみたい。

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