勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2015年07月


福岡教育大で大学教員(准教授)が学生に対して安倍政権及び安全保障法案反対のデモ練習をさせていたことが物議を醸している。「戦争法案反対」「安倍は辞めろ」などの文言を復唱させたのだが、このことを学生がTwitterに書き込んだことがきっかけで事件が拡散した。

とりあえず、この報道は事実という前提で(ねじ曲げて報道されている恐れもあるので)、大学教育の現状とあり方について考えてみよう。

「政治的な信条を教育の場に持ち込んで、しかも練習までさせて洗脳教育するなど不届き千万!」と、この教員を弾劾することは容易い。ただし、こうやって弾劾することで済む問題ではないと僕は思っている。根はもっと深い(もちろん、この教員を擁護するつもりは一切ないけれど)。こういった事態が発生する構造的問題を考えてみたい。

誰も「個」が確立していない?

福岡教育大学はかつては国立ではあったが、現在は独立法人(国立大学法人)である。国立大学が文科省(あるいは文部省)管轄下にあった場合、大学教員は公務員、つまり役人であり、思想信条を業務に持ち込むことは禁止されていた。また公的機関ゆえ、原則、大学がビジネスを展開し営業利益を上げることも禁止だった。しかし、現在は独立法人であり、その活動は大幅に自由になった(ことになっている)。ということは、極端な話、今回の件、大学側が「オッケー」と言ってしまえば、実は何ら問題はないという状況にある(もちろん、そんなことはないだろうけれど)。この准教授はどうやら大学側の処分の対象になるようだが、それは「公務員」だからではなく、福岡教育大という組織の方針の問題に基づいている。この認識は前提しておいた方がよいだろう。そしてそれは大学における教育の本質と関わっている。

ただし、問題は福教大にこういった教員が出現し、そして学生がそれに従い、さらにこれがネット上に拡散され、全国的に知れ渡ったという事実だ。

先ず、教員。これ、はっきり言ってヤバイとしか言いようがない。前述したように、教育と煽動、あるいは洗脳を混同している。原則、大学教育は科学における専門領域の情報を提供するのが基本。だから、この行為は間違っている。当該教員は、おそらく学生を「個人」として認めておらず、「保護すべき存在」「しつけを施す存在」という前提に基づいている。つまり、「おまえたちはよくわかっていない。だから、自分の言うことを訊けばよいのだ!」というパターナリズム。この人、安倍政権と同様、人権(この場合、学生のそれ)を尊重していない。

ただし、である。これ、学生の方のリアクションもまたヘンなのだ。学生自身が、これがおかしいと言うことで、教員や大学側に異議申し立てをすれば済む話なのだが、これはどうやらなかったようだ。だって、学生たちは素直に練習しちゃったんだから。言い換えれば、学生たちもまた「保護されるべき存在」「しつけられる存在」という無意識の前提がある。自らの人権に対する自覚に欠けている。

そして、これがメディアで取り上げられること。これもまたヘンだ。なぜ取りげられたのか?Twitterにアップされたからだ。これでもって話はマスメディアの目に触れるものとなり、大々的にピックアップされることになった。「安全保障法案」という時節ネタ、そしてメディアが虐める対象のひとつである教育分野であるということもあって「これはおいしい」とメディアは考えたのではないか。ということは、メディアも当該教員、学生と同様、自らの立ち位置に対する自覚がない。業績原理(視聴率や発行部数)の僕である。

そこで、大学側としては看過することが出来ず、当該教員に対し規則に照らし合わせて厳正に対処する」と大学の公式サイトにコメントした。これまた、メディアが取り上げることがなかったら、こんなことはしなかっただろう。そう、大学もまた自覚がないのである。

もし「個」が確立していたら……

さて、これ。もう少し個人が「しっかり」としていた、つまりそれぞれの「個」が確立していたら状況は異なっていたのではないか。試みに「しっかり」しているシチュエーションで、今回の事件をアレンジしてみよう。だいたいこんな感じだ。

教員が洗脳的な学習を実施する→受講生たちから意義があがる→侃々諤々となる→大学当局がこれを感知する→大学側で対処を行う。「大学教育は科学に基づく情報の提供であり、政治的な煽動は不適切」という原則に基づいて、既存の教員が何らかの罰則を受ける。メディアはそのことを知らない。

ところが、今回の事例の場合、現代の典型的なパターンとして、ここにインターネットとマスメディアが介在した。つまり、現場では「煽動=洗脳学習」が黙々と実行される→表向き、学生の反対はない→学生の一部がネット上でその事実をアップする→マスメディアが取り上げる→全国規模の大騒ぎになる→大学側が後手に回る形で対処する。

もし、今回の事件でTwitterへのアップがなかったら、どうなっていただろう?このことはなんの問題にもならず、当該教員は今後ともこういった煽動=洗脳教育を推進していくだろう。なぜって?Twitter的なタレコミ以外に発覚する可能性がきわめて低いからだ。逆に言えば、こういったことは実際、現在の大学のあちこちで発生している可能性が考えられると言うことでもある(まあ、そういった意味ではSNSは便利な道具でもあるのだけれど)。

進学率50%越えの弊害

かつて大学進学率が20%以下であった時代(1960年代まで)、大学生はエリートだった。だから、かなり主張もした。60年代の学生運動などはその最たるものだっただろう(もっとも、それ自体もファッションだったという見方もあるけれど)。彼らは自分たちを「学生」と呼び、教員や大学組織と個人対個人、あるいは個人(または集団)対組織という図式で渡り合う人間が少なからずいた。だから、こんな洗脳をやらかす教員がいたら弾劾されるか、あるいは完全に無視されるかのどっちかだったのではなかろうか。それなりに「個」が存在していた。だから、大学側も専門分野の情報を提供していさえすればよかった。テキトーな授業でも学生たちが自助努力をしてくれた。

ところが50%を超え、大学は「とりあえず行っとくところ」といった「ビール」みたいなものになってしまった。当然、彼らはエリートではなく大衆。そして、時代の趨勢は過保護、人権の徹底的な擁護、ヘタすると弱者が最強の強者になる可能性を孕む方向に進んでいく。学生たちは「保護されるべき受益者」という自覚があるのか、自らを「学生」とは呼ばず、「生徒」と呼ぶ(僕は、学生たちがこの言葉を使う時には、「君たちは学生なんだよ」と言うことにしている)。ということは、学生への対応は実質上「生徒指導」となる。ということは、手取り足取りの指導が必要になる。で、実際そういった指導が必要になっていることも確かではある。そして、今やそのことは学生の親、そして社会が要請していることでもある。USJで、集団で破廉恥かつ迷惑な行為を学生が行った際、その件について謝罪したのが親ではなくて、学生たちが所属する大学だったという事実は、まさに社会が大学に「生徒指導」を要請していることの傍証だろう(これって、本来謝罪すべきは親のはず)。「しつけ」、つまり有無を言わさぬ「学習」「訓練」を大学側も要請されるようになったのだ。それが50%越えの弊害。しかし、大学はもうそこまで来ているので、教員側としては、こういったことへの対処は当然のノルマとなる。う~む……。

こういった状況を踏まえれば、教員の側としては洗脳や煽動にならないよう、慎重に「学習」「訓練」を施さなければならないという、なかなか難しい課題をこなさなければならなくなる。だが、それを勘違いすると政治的な考え方まで手取り足取り教えてもよいとする輩が一部登場する(大学教員は、もともと大学に所属することが目的でここを目指してきたので、教育についてはあまり関心がないし、スキルもないという人間が多い)。それが、今回の事態を結果した。

大学に所属し、学生を指導している自分にとっては、こういった大学とそれを取り囲む現状が、今回のような勘違いを生む温床としてあるように思えてならない。


(オマケ)
そして、今や大学側が一番の弱者(お客さんが減っているので)。当然、これら問題について熟考すべきという課題を突きつけられていると言うことは、肝に銘じておくべきだろう。もちろん、僕もその課題を処理しなければならない当事者の一人ではあるのだけれど。デカいツラなど、してはいられないというのが大学の現実なのだ。



原題とは違う邦題

ディズニーが配給し、現在はディズニーの一部となったピクサー映画。その邦題、つまり日本語タイトルについてずっと気になっていたことがある。そして、今回のピクサーの新作『インサイドヘッド』もまた、この「気になっていること」が露呈したことになったのだが。

最近のピクサー映画、そしてピクサーがディズニーに買収されて、ピクサーのヘッドであったJ.ラセターがウオルト・ディズニー・アニメーション・スタジオズのチーフ・クリエイティブ・オフィサーとなってからの作品群(長編)のうち、邦題が原題とは変更されたものをあげてみよう。

『Mr.インクレディブル』→The Incredibles
『レミーのおいしいレストラン』→Ratatouille
『カールじいさんの空飛ぶ家』→Up
『プリンセスと魔法のキス』☆→The Princess and the Frog
『塔の上のラプンツェル』→Tangled
『メリダとおそろしの森』→Brave
『アナと雪の女王』☆→Frozen
『ベイマックス』☆→Big Hero 6
『インサイドヘッド』→Inside Out

                ※☆はディズニー作品

邦題は「の」ばっかり

ラセターが短いタイトルを好むのがよくわかる。そして毎回、この短いタイトルの中に映画のメッセージを凝縮させて詰め込むという芸当をやっている。つまり、タイトルに作品のメッセージの本質がしっかり込められているのだが、なぜかこれが日本版となると完全に骨抜きになり、突然「お子様向け」映画に映るようになってしまう。ちなみにタイトルが原題と変更させられたこれら9作品(2004年以降)のうち、なんと6作に共通する文字がある。それは「の」だ。『レミー「の」おいしいレストラン』『カールじいさん「の」空飛ぶ家』『プリンセスと魔法「の」キス』『塔「の」上「の」ラプンツェル』『メリダとおそろし「の」森』『アナと雪「の」女王』。僕はこれ、どうみてもジブリ映画の悪影響じゃないかと踏んでいる(笑)(ジブリ映画は「~の」というタイトルだらけだ。ちなみにラセターはジブリ作品のいくつかにエグゼクティブ・プロデューサーとして参加している)。


原題のメッセージとは

そこで、今回はピクサーを中心とするラセター作品群の本質をタイトルから紹介してみたい。

『Mr.インクレディブル』→The Incredibles
”The Incredibles”だからそのまま訳せば「インクレディブル一家」となる。この作品はMr.インクレディブル=ロバート・パーが主人公ではなく、一家が力を合わせてインクレディブルをトラウマとしてこれを倒そうとするシンドロームを撃退する。だからファミリードラマなのだ。

『レミーのおいしいレストラン』→Ratatouille
ラタトゥイユはフランスの田舎料理。そして刑務所などの、いわゆる「臭い飯」の意味もある。本作ではドブネズミという衛生上はきわめて好ましくない生き物だが料理好きのレミーが才能のない見習い料理人リングイニ(実は天才シェフ・グストーの息子)と協力して最高のラタトゥイユを作る。タイトルには田舎料理やネズミであっても天才の息子であっても本質は変わらない。料理のジャンル、ネズミや天才シェフという形式ではなく、内容こそが重要という意味が込められている。

『カールじいさんの空飛ぶ家』→Up
亡き妻・エリーとの思い出の詰まった家の立ち退きを強いられ、カールは家に風船を付けてエリーとの約束である南米のパラダイスフォールへ向かう。つまり家をUpさせるわけなのだが、事の本質、つまりupの本当の意味はカールがエリーとの過去の思い出の中に浸っているのではなく、次の冒険に旅立っていくことにある。そして、その旅とはパラダイスフォールへ向かうことではなく、日常をラッセルというたまたま知り合ったアジア系の子どもと楽しく過ごすところに求められる。それはエリーとの日常が冒険であったように。つまり、ここではカールの人生、日常、そして冒険の意味がup、より厳密に表現すればアップデートされる。(詳細については本ブログ「『カールじいさんの空飛ぶ家』を徹底分析する」http://blogs.yahoo.co.jp/mediakatsuya/61239970.htmlを参照)

『プリンセスと魔法のキス』☆→The Princess and the Frog
本作ではプリンセスでない普通の貧乏な黒人ティアナが主人公。彼女は魔法でカエルに変えられてしまうが、それによってプリンセスの本当の意味、成功の本当の意味、パートナーの本当の意味を知る。タイトルは「プリンセス」(夢)と「カエル」(現実)が見かけでしかないこと。二つが同じレベルにあること。これを、両極端の存在である二つ(プリンセスとカエル)をコントラストとして提示することで示している。

『塔の上のラプンツェル』→Tangled
tangledとは「こんがらがって」という意味。ラプンツェルは髪の毛が長いことによって、自らの人生が「こんがらがって」しまっている。ニセの母、ニセの言いつけ。だが夢を持ち続け、それを最終的に長い髪の毛を切り落とすことによって実現する。つまりこんがらがりをほどく。

『メリダとおそろしの森』→Brave
メリダは男勝りのじゃじゃ馬娘。とにかく元気で勇敢、つまりbrave=勇者、勇敢な存在。ただし、その元気さは無鉄砲の元気さ。言い換えれば「野蛮」でもある。ところが自らの野蛮さが招いた母がクマに変貌させられてしまう事態を契機に愛他心とは何かを自覚し、Braveは本当のものとなっていく。つまり、この作品のタイトルは「勇敢とはどういうことを意味するのか」

『アナと雪の女王』(☆)→Frozen
Frozenとは「凍てついた」という意味。北欧の街アレンテールはエルサのコントロールの効かない魔法によって凍てついてしまうが、こちらはやはり形式。本当に凍てついているのは自分の殻に閉じこもっているエルサの心性、そしてプリンセス物語を本当と思い込んでいる、つまりこの物語に凍てついているアナの心性。この二つが愛他心を獲得することで解凍されていくのがこの物語の展開。ちなみにオラフは雪の精だが、夏を愛するという犠牲心、そして愛他心のメタファーで、frozenの逆のmelt=溶けることが最高の幸せと考えている。

『ベイマックス』→Big Hero 6
これもThe Incredibesと同じく、六人のヒーローが力を合わせて敵を倒していくという物語。実は決してヒロとベイマックス二人の話ではない。どちらかというとイメージすべきなのは『アベンジャーズ』だ。


『インサイドヘッド』→"Inside Out"の本当の意味

そして、今回の作品『インサイドヘッド』だ。
この意味は「インサイド=内側」「ヘッド=頭」、つまり頭の内側を意味しているのは明らか。ただし、英語では普通”inside head”という表現はしない。二つの単語の間に前置詞を入れて”inside of the head”とかになるはずだ。だから、これは日本語英語と判断してよいのではないか。まあ、それはよいとして、この邦題の理解からすれば「頭の内側で起こっていること」となる。実際、登場する11歳の子ども・ライリーの頭の中の「ヨロコビ、カナシミ、イカリ、ムカムカ、ビビリ」五つの感情が、この作品を展開するキャラクターとなる。
だが原題”Inside Out”は似たような音だが全く意味が異なっている。これは熟語で「ひっくり返し、裏返し、裏表」。そして、この作品もこの裏表が重要なテーマとなっている。

この裏表は三つある。
一つは、最もわかりやすい表=ライリーという人物、裏=ライリーの感情を司る五つのキャラというinside out=裏表。これはとりあえず『インサイドヘッド』という訳でも一応理解は可能だ。

二つ目は、大きなテーマである、これらの感情がどのように機能しているのかについてのinside out=裏表。ヨロコビはとにかくライリーを喜ばせることに夢中だ。そしてそれが正しいことと信じて止まない。ところがただ喜ばせようといろいろやっただけではライリーの心は動かない。動かすためには怒らせたり、ビビらせたりすることも必要。そして最も重要なのが悲しむこと。ヨロコビが作る記憶は輝くボール、一方カナシミが作る記憶は青のボール。輝くボールにカナシミが触れるとボールの色は青色に変わる。ヨロコビはそれをさせないようカナシミにボールに触れることを禁じるが、結果としてこのボールにカナシミが触れ色が青に変わることで、輝くボールはいっそう輝くことになる。その結果、大切な記憶は喜びや悲しみ、怒り、むかつき、ビビりと表裏一体になっていることにヨロコビは気づくようになる。つまり喜びは悲しみのひっくり返し。表裏一体、感情の裏表なのだ。

ライリーの主体は誰か?

そして三つ目。これはきわめて哲学的な命題だ。気づきにくいテーマでもある。それは「この映画の主体は誰か?」という問題についてのinside out=裏表だ。

作品の中でヨロコビはライリーを喜ばせようといろいろと感情を起動させる装置をいじる。そして他の感情を管理している。ところがカナシミは時にヨロコビの言いつけに反するように、触ってはいけないというボールや装置に触れてしまう。そして、その理由をカナシミ自身が説明できない(このへんのイライラする、うざったいキャラクターの声を大竹しのぶが絶妙の吹き替えで展開している)。

なぜカナシミはヨロコビの意に反して、そして自らの意にも反してこういった行動をとってしまうのか?

それは、この五つの感情があくまでもライリーの感情であるからだ。しかしながらヨロコビはそのことに気づいていない「ライリーを喜ばせることはよいこと」という立ち位置に基づいて、そのことの是非を振り返ることもなく、これを推進していく。この時、ライリーの主体はライリー自身ではなくヨロコビという感情になってしまう。これは感情と理性という二元論を設定し、その二つの合力で主体の意志が決定するという前提を是とするならば「感情の赴くままに行動する」という危険な行為になるのだ。このままではライリーは単なる快楽主義を求める存在でしかない。

だから、時にカナシミが自分の意志ではわからないようなことをやってしまうのは、要するにライリーという主体が無意識のうちに意志を持ってカナシミをコントロールしてしまうから。そしてこの五つがライリーの感情であるとするならば、こういった感情の運用の仕方(され方)こそが子どもの、そして人間の成長、振る舞いにとっては最も健全で正しいものとなる。いいかえれば、ライリーの感情の中で最も誤っている行動をとっているのが、実はヨロコビなのだ(ヨロコビが正しいと思っていたとしたら、あなたの認識も同様にinside out されている。竹内結子の元気いっぱいの吹き替えに(これまた絶妙だが)ダマされてはいけない(笑))。そして、映画の最後、そのことをヨロコビは理解する。

そう、この作品の三つ目のinside outとは、この映画が五つの感情が主体と思わせておいて、結局のところ、実はライリーの側にあるというひっくり返しなのだ。そしてそのひっくり返しもまた真。つまり主体の意志にとって理性と感情は表裏一体、つねにinside outされつづけるものとして存在しているのだ。

というわけで、今回もまた邦題によって原題が隠蔽されることで、作品のメッセージが読み取れなくなっている。

ラセター印の作品のメッセージを読み取りたければ、先ず原題のタイトル分析から入ってみるのをオススメしたい。

※ちなみに、今回映画のはじめに監督のピート・ドクターによる日本人向けの解説が入っているのだけれど、なんとこの時、ドクターは作品のことを「インサイドヘッド」と読んでいる。う~む、商魂たくましい!

日韓の間で政治ネタとして揉めるほど、今やユネスコ世界遺産はある種の権威を獲得するに至っている。観光地として有名な所は、こぞって世界遺産に認定されようと躍起になるという状況が、最近はしばしばメディアを賑わしているのだ。しかしながら、なぜここまで世界遺産という「認定マーク」が注目されるようになったのだろうか。

答は一つ。「ビッグビジネスとして成立するから」

でも、この成立条件、「文化とは何か」という視点から考えてみると、きわめて皮肉なものでもある。

とてつもなく高くなっていたガウディ建築物の入場料

ちょいと僕のバルセロナ経験を持ちだしてみたい。初めてここを訪れたのは1991年。そして昨年暮れ(2014年12月)、久しぶりに同地を訪れたのだが、バルセロナはもはや「世界遺産成金」みたいな状況だった。スペインの他の都市に比べてメチャクチャに観光客が多く、物価もバカ高。ここはスペインではなく「バルセロナ」(あるいはカタルーニャ)という国のようにすら思えたほど(もはやヨーロッパで最も集客力のある都市第三位らしい。年間観光客は2700万)。

91年、ガウディの建築物を見て回った時のこと。それぞれの入館料はサグラダファミリア=250pts、グエル邸=100pts、バトリョ邸=非公開、グエル公園=無料、カサミラ=無料、そしてコロニア・グエル教会=無料。なので、これら入場料を合計すると350pts、およそ500円くらいだった。ところが、今回はこれとは全く違う。全てが有料化、高額化している。支払った入場料の総額は€80程度、つまり1万円強。およそ二十倍ほどの高騰だ。

にもかかわらず、どの建物も観光客で91年時よりはるかにごった返している。以前は非公開だったバトリョ邸(1階と2階の一部だけが見学可能だった)までもが公開に踏み切るとともに、全館を見学可能になり、なおかつAR付ガイドの貸し出しまで。カサミラは最上階のすぐ下、つまりペントハウスに、フロア全体を使った展示室が設けられていた。最も有名なサグラダファミリアに至っては、すでに大聖堂が出来上がっていた。塔ノ上にあがるにはエレベーターだが別料金。にもかかわらず長蛇の列が出来ており、入場に関してもネット予約が便利という始末。もちろんどの施設も日本語音声ガイドの貸し出しが受けられるという「痒いところに手が届く」仕様(グエル公園を除く)。

つまりガウディの建築物は有料化し、そしてテーマパーク化していった。で、とにかく訪れる観光客の一人として浦島太郎的にビックリしたのは、このメチャクチャカネがかかるということ、そしてインフラの充実だった。もちろんガウディだけではない。バルセロナの他の世界遺産(カタルーニャ音楽堂)や、世界遺産ではないがバルサのスタジアムも入場するだけで結構な金を徴収されたのだ(どう考えてもディズニーランドに行った方が安い)。

かつては、サグラダファミリアで彫刻制作を手がけている外尾悦郎氏が、この建築物がいつ完成するのかわからないと言い、資金が集まらないことを嘆いていたことがあったが(80年代後半に放送された日立ドキュメンタリー「すばらしい世界」の中で)、これが2026年には完成の目処が立つという。でも、この盛況を見れば「ま、そりゃそうだな」と納得させられてしまう。いったい一日で、どんだけ儲けているんだろう?

だが、世界遺産についてのこういった状況はバルセロナに限られた話ではない。82年、僕がインド・タージマハールを訪れた際も入場料は無料だったが、こちらも今や750ルピー、およそ2000円の料金を徴収される。つまり、かなり多くの世界遺産がこんな感じなのだ(もちろんアンコールワットも。そしてわが国の場合だと、ここ数年京都に行くと外国人だらけ、ってなことになってしまっている)。

集金マシンとしての世界遺産

世界遺産は自然遺産や建築物などに(和食などの食文化も含まれるらしいが)認定されるもの。だが、メディアがこれに注目することで世界遺産は究極のブランドとなり、世界中からのまなざしが向けられる。すると世界遺産と認定された存在は「集金マシン」と化すのだ。これがおいしい。だから、どこも認定を受けるために血道を上げるのだ(富岡製糸工場は2007年から有料化に踏み切ったが、世界遺産化に伴いこの料金を1000円に値上げしている。表向きは世界遺産認定に伴い観光客が増加したので維持費がかかるとのことだが、それだけではないだろう)。そしてその典型がバルセロナなのだ(ちなみに、これらが世界遺産登録されていったのは1980年代からだが、当時はまだ世界遺産という言葉自体が現在ほど注目されておらず、それゆえガウディの建築物は、世界遺産という存在がメディアイベント的に世界でもてはやされるようになって人気が急騰し、そして有料化したという経緯があると考えられる)。

「遺産」という新しい消費文化

これって不思議だ。世界遺産と認定されたものって、要するに「遺産」。文化としては死んでいる過去の「遺物」。これにメディアによってまなざしが向けられると、突然最新の装飾とシステムが施されてゾンビのように生き返るのだ。そう、「世界中が注目する死体」みたいな存在になっていく。だが、それを利用して地元はバッチリと金を稼ぐ。つまり世界遺産とはややもするとグロテスクな存在と言えないこともない。

ところが、これを利用して世界遺産のある土地は活気づく。そうすると新しい文化が生まれるのだ。その典型が要するにバルセロナなわけで。観光収入は同市経済の14%を占めるという。そう、これは遺物を利用したテーマパークという、きわめて今日的な消費文化の新しい形態なのだ。もちろん、まなざしが与えられることで観光化が進むというのはかつてからあったが、世界遺産というマークはこれを高速で可能にする魔法の杖に他ならない。

まあ、そうはいってもあんまりたくさん世界遺産が登場すると、今度は飽和状態が出現してしまう恐れもあるんだろうけど。しばらくは「集金マシン」(場合によっては政治の道具?)としてもてはやされ続けるのではなかろうか。現状ではツーリズムは盛り上がりこそすれ、衰退する様子は全くないのだから。

10年後くらいに「世界遺産バブル」なんてのが語られるようになっているかも?ということは、みうらじゅんが「世界遺産バブルの遺産を見に行く」なんてことをやるかも?

とにかく世界遺産、今、旬である。

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