福岡教育大で大学教員(准教授)が学生に対して安倍政権及び安全保障法案反対のデモ練習をさせていたことが物議を醸している。「戦争法案反対」「安倍は辞めろ」などの文言を復唱させたのだが、このことを学生がTwitterに書き込んだことがきっかけで事件が拡散した。
とりあえず、この報道は事実という前提で(ねじ曲げて報道されている恐れもあるので)、大学教育の現状とあり方について考えてみよう。
「政治的な信条を教育の場に持ち込んで、しかも練習までさせて洗脳教育するなど不届き千万!」と、この教員を弾劾することは容易い。ただし、こうやって弾劾することで済む問題ではないと僕は思っている。根はもっと深い(もちろん、この教員を擁護するつもりは一切ないけれど)。こういった事態が発生する構造的問題を考えてみたい。
誰も「個」が確立していない?
福岡教育大学はかつては国立ではあったが、現在は独立法人(国立大学法人)である。国立大学が文科省(あるいは文部省)管轄下にあった場合、大学教員は公務員、つまり役人であり、思想信条を業務に持ち込むことは禁止されていた。また公的機関ゆえ、原則、大学がビジネスを展開し営業利益を上げることも禁止だった。しかし、現在は独立法人であり、その活動は大幅に自由になった(ことになっている)。ということは、極端な話、今回の件、大学側が「オッケー」と言ってしまえば、実は何ら問題はないという状況にある(もちろん、そんなことはないだろうけれど)。この准教授はどうやら大学側の処分の対象になるようだが、それは「公務員」だからではなく、福岡教育大という組織の方針の問題に基づいている。この認識は前提しておいた方がよいだろう。そしてそれは大学における教育の本質と関わっている。
ただし、問題は福教大にこういった教員が出現し、そして学生がそれに従い、さらにこれがネット上に拡散され、全国的に知れ渡ったという事実だ。
先ず、教員。これ、はっきり言ってヤバイとしか言いようがない。前述したように、教育と煽動、あるいは洗脳を混同している。原則、大学教育は科学における専門領域の情報を提供するのが基本。だから、この行為は間違っている。当該教員は、おそらく学生を「個人」として認めておらず、「保護すべき存在」「しつけを施す存在」という前提に基づいている。つまり、「おまえたちはよくわかっていない。だから、自分の言うことを訊けばよいのだ!」というパターナリズム。この人、安倍政権と同様、人権(この場合、学生のそれ)を尊重していない。
ただし、である。これ、学生の方のリアクションもまたヘンなのだ。学生自身が、これがおかしいと言うことで、教員や大学側に異議申し立てをすれば済む話なのだが、これはどうやらなかったようだ。だって、学生たちは素直に練習しちゃったんだから。言い換えれば、学生たちもまた「保護されるべき存在」「しつけられる存在」という無意識の前提がある。自らの人権に対する自覚に欠けている。
そして、これがメディアで取り上げられること。これもまたヘンだ。なぜ取りげられたのか?Twitterにアップされたからだ。これでもって話はマスメディアの目に触れるものとなり、大々的にピックアップされることになった。「安全保障法案」という時節ネタ、そしてメディアが虐める対象のひとつである教育分野であるということもあって「これはおいしい」とメディアは考えたのではないか。ということは、メディアも当該教員、学生と同様、自らの立ち位置に対する自覚がない。業績原理(視聴率や発行部数)の僕である。
そこで、大学側としては看過することが出来ず、当該教員に対し規則に照らし合わせて厳正に対処する」と大学の公式サイトにコメントした。これまた、メディアが取り上げることがなかったら、こんなことはしなかっただろう。そう、大学もまた自覚がないのである。
もし「個」が確立していたら……
さて、これ。もう少し個人が「しっかり」としていた、つまりそれぞれの「個」が確立していたら状況は異なっていたのではないか。試みに「しっかり」しているシチュエーションで、今回の事件をアレンジしてみよう。だいたいこんな感じだ。
教員が洗脳的な学習を実施する→受講生たちから意義があがる→侃々諤々となる→大学当局がこれを感知する→大学側で対処を行う。「大学教育は科学に基づく情報の提供であり、政治的な煽動は不適切」という原則に基づいて、既存の教員が何らかの罰則を受ける。メディアはそのことを知らない。
ところが、今回の事例の場合、現代の典型的なパターンとして、ここにインターネットとマスメディアが介在した。つまり、現場では「煽動=洗脳学習」が黙々と実行される→表向き、学生の反対はない→学生の一部がネット上でその事実をアップする→マスメディアが取り上げる→全国規模の大騒ぎになる→大学側が後手に回る形で対処する。
もし、今回の事件でTwitterへのアップがなかったら、どうなっていただろう?このことはなんの問題にもならず、当該教員は今後ともこういった煽動=洗脳教育を推進していくだろう。なぜって?Twitter的なタレコミ以外に発覚する可能性がきわめて低いからだ。逆に言えば、こういったことは実際、現在の大学のあちこちで発生している可能性が考えられると言うことでもある(まあ、そういった意味ではSNSは便利な道具でもあるのだけれど)。
進学率50%越えの弊害
かつて大学進学率が20%以下であった時代(1960年代まで)、大学生はエリートだった。だから、かなり主張もした。60年代の学生運動などはその最たるものだっただろう(もっとも、それ自体もファッションだったという見方もあるけれど)。彼らは自分たちを「学生」と呼び、教員や大学組織と個人対個人、あるいは個人(または集団)対組織という図式で渡り合う人間が少なからずいた。だから、こんな洗脳をやらかす教員がいたら弾劾されるか、あるいは完全に無視されるかのどっちかだったのではなかろうか。それなりに「個」が存在していた。だから、大学側も専門分野の情報を提供していさえすればよかった。テキトーな授業でも学生たちが自助努力をしてくれた。
ところが50%を超え、大学は「とりあえず行っとくところ」といった「ビール」みたいなものになってしまった。当然、彼らはエリートではなく大衆。そして、時代の趨勢は過保護、人権の徹底的な擁護、ヘタすると弱者が最強の強者になる可能性を孕む方向に進んでいく。学生たちは「保護されるべき受益者」という自覚があるのか、自らを「学生」とは呼ばず、「生徒」と呼ぶ(僕は、学生たちがこの言葉を使う時には、「君たちは学生なんだよ」と言うことにしている)。ということは、学生への対応は実質上「生徒指導」となる。ということは、手取り足取りの指導が必要になる。で、実際そういった指導が必要になっていることも確かではある。そして、今やそのことは学生の親、そして社会が要請していることでもある。USJで、集団で破廉恥かつ迷惑な行為を学生が行った際、その件について謝罪したのが親ではなくて、学生たちが所属する大学だったという事実は、まさに社会が大学に「生徒指導」を要請していることの傍証だろう(これって、本来謝罪すべきは親のはず)。「しつけ」、つまり有無を言わさぬ「学習」「訓練」を大学側も要請されるようになったのだ。それが50%越えの弊害。しかし、大学はもうそこまで来ているので、教員側としては、こういったことへの対処は当然のノルマとなる。う~む……。
こういった状況を踏まえれば、教員の側としては洗脳や煽動にならないよう、慎重に「学習」「訓練」を施さなければならないという、なかなか難しい課題をこなさなければならなくなる。だが、それを勘違いすると政治的な考え方まで手取り足取り教えてもよいとする輩が一部登場する(大学教員は、もともと大学に所属することが目的でここを目指してきたので、教育についてはあまり関心がないし、スキルもないという人間が多い)。それが、今回の事態を結果した。
大学に所属し、学生を指導している自分にとっては、こういった大学とそれを取り囲む現状が、今回のような勘違いを生む温床としてあるように思えてならない。
(オマケ)
そして、今や大学側が一番の弱者(お客さんが減っているので)。当然、これら問題について熟考すべきという課題を突きつけられていると言うことは、肝に銘じておくべきだろう。もちろん、僕もその課題を処理しなければならない当事者の一人ではあるのだけれど。デカいツラなど、してはいられないというのが大学の現実なのだ。