勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2015年05月

もはや日本人には文化の一部としてすっかり定着した感のあるディズニー。そのディズニーを担っているのが東京ディズニーランド(TDL)や東京ディズニーシー(TDS)を運営するオリエンタルランド(OLC)とグッズ販売→イベントを手がけるウォルト・ディズニー・ジャパン(WDJ)だ。日本にディズニーがやって来たのは60年近く前に遡るが、その後、人気はいったん低落したので、本格的なディズニーカルチャーの普及は80年代、つまり東京ディズニーランドのオープン以降となる

そして、この十年ほど、これら、いわば「ジャパン・ディズニー」は本国アメリカとはちょっと異なった展開をするようになっており、最近ではそれにますます拍車がかかり、日本においてディズニーはジャパン・オリジナル化しつつある。今回は、キャラクター戦略を例に、これを考えてみたい。

マリーって、誰?

日本以外のパークやディズニー世界ではあまり知られていないが、日本でのみ知られているという「ほぼメイド・イン・ジャパン」みたいなキャラクターがジャパン・ディズニーには存在する。

その嚆矢は、おそらくマリーという猫のキャラクターだ。これは1970年に公開された『おしゃれキャット』という映画のキャラクター。ただし、この映画の主役はダッチェス(雌)とオマリー(雄)という二匹の猫。マリーはダッチェスの子どもの猫。つまり主役ではない。これを2001年、TDSがオープンする際にフィーチャーしたのだ。まあ、元はといえばディズニーキャラクターだが、なぜかこのあまり目立たないキャラクターを取り上げたのには、一説にはロイヤリティが関係していると言われている。つまり有名なキャラクターほど使用料が高い。そこで、差異化とロイヤリティ軽減のために、このキャラクターがチョイスされたというのだ。

実際にはキャラクターごとにロイヤリティが設定されているのかは公表されていないので明らかではない。だが、「設定されている」と考えると、この後のジャパン・ディズニーの戦略は実にしっくりと説明がつくのも確かなのだ。なので、今回は「キャラクターごとにロイヤリティが異なる」という前提で議論を進めてみたい。

このマリーというキャラクター、そこそこの人気を獲得することに成功する。ファッション・ブランドのスワロフスキーとコラボしたりしたこともあった。ただし、やはり、このキャラクターがミッキーばりに出ずっぱりというのは、海外のディズニーファンからすれば、恐らく違和感があるだろう。メインどころはビッグ5(ミッキー、ミニー、ドナルド、グーフィー、プルート)、そしてプリンセスなど映画で主役を張ったキャラの方がしっくりいく。

ダッフィーの登場

しかしながら、こういった「ディズニーの端役」「ディズニーから少し遠い」「ディズニーと首の皮一枚で繋がっている」といったキャラクターでの戦略が、この後、次々と続くのだ。つまり、経費節減ではないのか?

例えば2004年に出現したダッフィー。これはもともとはアメリカのディズニーランドにあったディズニーベアというキャラクターを輸入したもの。そして、現地では泡沫のキャラクター。これを2005年から名称をダッフィーと変更しTDS内で大々的に売り始めると、見事に定着。今では女子高生のバッグにはダッフィーのアクセサリーがぶら下げられているというのが日常的な風景となるほど普及した。

そしてこのダッフィー、泡沫キャラであるどころか、デザインにディズニー的な文法を持たない「フツーのテディベアー」。ところが、これに「航海に出るミッキー(TDSのコロンビア号の船長ということになっている)に、ミニーがプレゼントした」という、ミッキーとミニーを取り持つキャラクターという物語と、身体の一部に「隠れミッキー」が付けられることでディズニー世界の住民として認定され、さらにパーク内で頻繁にミッキー、ミニーとともに登場することで人気を博したのだ。

で、こうなるとダッフィーも独り立ち。すると、その勢いを駆って2010年、女の子のお友達シェリーメイをデビューさせ、セットで売り出した。すると、これまた大ヒット。女子高生のバックにぶら下がるアクセサリーは二つに増えた。さらに「三匹目のドジョウ?」を狙って2014年、今度は猫のお友達ジェラトーニをデビューさせ、これまた人気を獲得している。ちなみに、この3つのキャラクター、TDSでしか購入できないという差異化によって、パークに客を寄せる役割も果たしている。ただし、前述したように、これらのキャラクター。デザイン的にはディズニー世界からはきわめて遠い存在。ジェラトーニは「ミニーの分身の友達の友達」みたいな「風が吹けば桶屋が儲かる」的存在なのだから。

四匹目のドジョウもいた?:ユニベア

ここでジャパンディズニーはロイヤリティを低く抑えたまま粗利を稼ぐ方法論を掴んだのだろうか。さらに四匹目、五匹目のドジョウをさがすというマーケティングに出た。

五匹目のドジョウは2011年に展開を開始したユニバーシティーベア、略したユニベアというキャラクター群だ。ミッキーなどのディズニーキャラクターが通うディズニー・ユニバーシティという大学の講義でルードヴィッヒ・フォン・ドレイク教授からクマの物語を作る課題が出され、これにミッキーやミニーたちが自分に似せたぬいぐるみを制作したところ、動き出して一緒に授業を受けるようになったというユニベアシティー物語に基づいてキャラクターは展開される。

これらもダッフィー同様、ディズニー文法を持たない。それぞれのキャラクターは、それを作ったとされるディズニーキャラクターの一部が反映されている程度。たとえばミッキーが作ったモカは赤のネクタイを着け、ネクタイの下部には白のミッキーのボタンを模したドットが二つある。ミニーのプリンも頭に赤に白玉といった具合。もう、こうなると「ミッキーの友達の友達の友達」という無理矢理な設定になる。そして、これも販売が差別化されていて、購入できるのはパーク内ではなくディズニーストアのみとなっている(通販もあり)。で、これも結構な売れ行きなのである。

え、五匹目もいるの?:こひつじのダニー

そして、なんとドジョウは五匹目もまた存在した!2015年よりデビューした「こひつじのダニー」というキャラクターだ。これは1949年に公開された映画『わが心かくも愛しき』のキャラクター。本作は日本では公開されておらず、それゆえ映画もキャラクターもきわめて認知度が低い。これを今年が”未年”と言うことでTDLTDS二つのパークでプロモーションを開始した。現在、ウエスタンランドのショップ、トレーディング・ポストにそのコーナーが設けられているのだけれど、ここまでくると、もうほとんど「ナンデモアリ」という感じがしないでもない。これがロイヤリティに関連したビジネスであったとしたら、ほとんど「やらずぶったくり」みたいな商法だ。
ただし、現在、ディズニーを訪れるマニアックなリピーター、ディズニーオタクのディズヲタはパークの敬虔な使徒。いや、もっと厳密に表現すれば東京ディズニーリゾートの運営主体であるオリエンタルランドの方針に従順な存在。とにかく「ディズニー印」の何か新しいものを提供してくれれば、もうそれで十分満足。たとえ、それが「友達の友達の友達の友達」であったとしても。

いずれ、本家とは全く異なるディズニー世界が完成する?

こうやって見てみると「アメリカ文化の輸入というのは、要するにこういうふうにどんどんとオリジナルをアレンジする形で進んでいくのだなぁ」ということがよくわかる。

10年後、日本のディズニー文化はどうなっているんだろう?ひとつだけ確かなこと。それは、東京ディズニーランド&シーがテーマパークではなくなっているということだ。完璧なごった煮ランドになっている。で、これは日々進行しているのだけれど。

4月28日、オリエンタルランドは今後10年間(2024年まで)に5000億円レベルの投資を行うと発表した。TDLの投資の目玉はファンタジーランドの再開発。『美女と野獣』『不思議の国のアリス』がテーマの目玉。TDSの方は『アナと雪の女王』の舞台である北欧をテーマとしたポートを設けるという。

ごった煮的な状況はTDSの方に顕著で、なんでロストリバーデルタとポートディスカバリーの間に北欧が登場するのかは、不明だ。もっと極端なのは、ポートディスカバリーに現在あるアトラクション「ストームライダー」をファインディング・ニモのアトラクションに置き換えるというプラン。このポートテーマは20世紀初頭の人間が空想した「架空の未来」。つまりレトロフューチャーがテーマなのだけれど、そのキモになっているストームライダーをニモに置き換えればテーマはグチャグチャになるのは間違いない。

ま、それでも使徒のみなさんは足繁く訪れるわけで……そう、こうやってジャパンオリジナルのディズニーは日々更新されていくのである。

ご存知のように、大阪都構想の賛否を巡る投票において、反対が賛成を僅かに上回り、この構想は否定された。橋下徹市長は公約に従って、市長任期いっぱいでの政界引退を宣言したのだが。いや、実際のところ大阪都構想は終わっていないし、橋下自身も決して賞味期限切れではない(本人は自らを賞味期限切れとしたのだけれど)。これは民主主義における構造化の必然的結果でしかないのだ。

すでにあちこちで指摘されていることだが、問題はこの投票の中身だ。年代率の賛否をチェックすると、何と六十代以上以外は全て賛成が過半数を超える。それだけを見れば、どう見ても賛成の圧勝に思えるのだが、事実は異なっている。要するに高齢者層の投票率が極めて高く、この年代の意向がモロに反映された形になってしまったのだ。

「投票に行かないのがいけない。投票は国民の義務だ。そういった義務を果たさない輩に政治云々を言う資格などない」

年配者からは、こんなモノノイイが聞こえてきそうではある。さらに

「国政や日本の未来のことを考えることもなく、自分のことばかり考えているから投票に行かないんだ」

こんなモノノイイも、たぶん、あるだろう。

実は、先月統一地方選の投票所で1日、投票のお手伝いをしたのだけれど、まあ、とにかく投票に来るのは年配者ばかりだった。アサイチは本当に年寄りばっかり、午後になって買い物ついでに家族でちらほらとやってくるというのが若年層という感じで。

その時感じたことは
「選挙、投票というシステム自体が、もはや民主主義としてはマトモに機能していないのではないか?」
ということだ。

投票に行かないことを咎めるのは容易い。しかし、投票それ自体に魅力が無くなってしまったことも否めない。それは言い換えれば政治への魅力の消滅。そして、これは若年層において負のスパイラルをつくりあげる。関心が無いから選挙に行かない。選挙に行かないから関心が無くなる。そしてガッツリ投票に出かける高齢者層の意向が反映されると、投票することの無意味さをいっそう感じるようになり、ますます関心を失っていく。

僕は、こういった政治への無関心への拍車がかかる理由を、単に若年層の政治無関心だけに求めることは間違っていると考える。政治に魅力が無い、そして選挙に関心を抱かせないという、現状の民主主義のシステムそのものが、実は賞味期限切れなのでは?こういった視点も当然必要と考えるからだ。

ちょっと「テレビ離れ」を例に考えてみよう。現在、若年層のテレビ離れが激しいのはご存知だろう。インターネットにメディア・アクセスをとられてしまったからだ。そこで、視聴率獲得に躍起になっているテレビは、その矛先をネットリテラシーの低い層に向ける。そう、高齢者層だ。それが時代劇、ほとんど懐メロの歌謡ショー、刑事、事件もの、ベタな朝ドラという、実にコンサバティブな作品群を生み出すことになる。だが、それによって若年層はますますテレビ離れに拍車を駆けていく。

このスパイラルは危険だ。あたりまえの話だが、高齢者層が順番上、真っ先にこの世からいなくなる。ということは、現状ではこれから視聴者層のメインが先細りになっていくと言うことなのだから。つまり、こんなことをやっているようではテレビの未来はない。

政治もまったく同じだ。現在の政治、そして投票システムは、まさにこの「ベタな年寄り向けドラマ」と同じ構造と考えても、おかしくないんではないだろうか。若年層の政治への関心を惹起するような何らかの方策が採られない限り、現状システムでは民主主義では機能しなくなる。その象徴が今回の大阪都を巡る投票だったのだ。いわばシルバーイデオロギーの勝利。いいかえれば民意を反映していない。だって、各年代が同じ割合で投票していれば、大阪都構想は肯定されるのは間違いないのだから。

高齢者層は若年層の政治無関心を「日本の未来を考えていない、身の回りのことにしか関心が無い」と嘆くかもしれないが、いやそんなことはないだろう。高齢者層こそ日本の未来を考えていない。だからこそ今回の投票に積極的に足を運んだとみなすことも出来る。つまり、敬老パスを打ち切られてしまうといったような高齢者層に向けての行政サービスの変化に対する不安が投票所に彼らを駆り立てるという可能性が十分に考えられる。未来がどうなろうと、現在の既得権を守る、現状維持を続けることで自らの身を確保する。こう考えると、高齢者層が若年層に「おまえたちは無責任」だとは決して言えなくなる。「あなたたちこそ、民主主義のシステムを悪用して自分のことしか考えていない無責任な存在」と言い返されてしまう可能性もあるからだ。

政治、投票について、どうあるべきか?考えなければいけない時に来ていると僕は考える。

最近、コメンテーターの発言が物議を醸すこと(というか、「物議」だと取り上げられること)が頻発している。報道ステーションでの元通産官僚・古賀茂明の番組へのツッコミや精神科医・香山リカの他のコメンテーターへの非難(Twitter上)などがその典型だ。
今回は、コメンテーターとはなんなのかについて考えてみたい。フィーチャーするのは人気コメンテーターの一人、古市憲寿だ。

地方ではコメンテーターのことをよく理解していないからダメ?

はじめに僕のコメンテーター経験から。
もう十年近くも前のこと。当時、宮崎に暮らしていた僕のところに、地元の民放局からコメンテーターの依頼がやってきた。週末、その週に宮崎で起こった様々な出来事をダイジェストで振り返るもので、MCとコメンテーターで進行するという企画。裏番組がNHKの『週刊こどもニュース』で、おとうさん役が池上彰というとんでもない時間帯だったので、視聴率が上がらず困っていて、担当者が思いついたのがコメンテーターの起用だった。

ところが、この企画、お流れになってしまう。上司からダメ出しをされたのだ。理由は「コメンテーターという役割は宮崎ではまだ時期尚早。コメンテーターのコメントが局の見解と勘違いされる可能性が高い」というものだった。

結局、この番組、やはり視聴率が上がらず1年後に再びお呼びがかかり、僕はレギュラーコメンテーターを務めることになったのだけれど、この上司の指摘、別に宮崎という一地方だけでなく、いまだに有効なのでは?と思えないでもない。そして、この指摘、ある意味でコメンテーターの役割を明確に語っていると、僕は考える。

解説委員・論説委員、評論家、コメンテーター

ニュースやワイドショーでゲスト的な存在で、ある程度知識のバックボーンを備え、何かを説明するという立場で登場する人物を分類してみよう。ザッと上げれば論説委員、解説委員、評論家、そしてコメンテーターとなる。
先ず解説委員と論説委員。前者は放送局でリポーターやキャスターを務め偉くなり、特定分野の説明をするようになった人、論説員は新聞記者を務め、やはり偉くなり社説などを書くようになった人といったところだろうか。これらが番組に登場する場合、原則、期待されているのは、当人がバックボーンとして抱えている政治や経済に対する知識だ。そして、その発言については放送局、新聞社の公的発言性を帯びる。いいかえれば、これらカテゴリーに振り分けられている人間の責任性は原則、個人に帰属しない。社の「大本営発表」という意味合いを帯びている。また担当者のパーソナリティについては二の次ということになる。

次に評論家。これはプロパーとして特定分野の情報を提供することが役割として振られている。軍事評論家の江畑謙介(故人)、航空評論家の青木日出雄(故人)・謙知親子などがその典型で、とにかく、こちらの知らない専門的な知識を持ちだし、視聴者に解説するというのが仕事になる。パーソナリティーについては論説員と同様二の次(江畑のように妙にウケてしまう人もいるが)。視聴者の関心はその知識にある。ただし論説委員・解説委員とは異なり、発言についてはその責任性は個人に帰せられる。間違った情報を流した場合には、責任は評論家に帰せられるのだ。

そしてコメンテーター。コメンテーターは一応何らかの知識的、あるいは経験的なバックボーンを備えていることが前提されている(だから元官僚、弁護士、精神科医、エッセイスト、戦場カメラマン、シャンソン歌手とジャンルは多様になる)。ただし、これはいわば「担保」。コメンテーターは原則、その分野の見識から話題・出来事についてコメントするのだけれど、シャンソン歌手が殺人事件についてコメントするという、その分野とは全く関係のない内容について言及することもある。というか、原則そちらの方が多い。なぜか?

その理由は、コメンテーターに求められているのものが論説・解説委員や評論家に求められる知識・見識よりも、むしろパーソナリティーだからだ。つまり「シャンソン歌手が殺人事件を語ったらどうなるか?」という視点。言い換えれば、それはプロパーの視点ではなく、むしろ個人の側の視点なのだ。だから、そのコメントについての責任性は全てコメンテーターに帰せられる。

ただし、これは理屈。現実にはコメンテーターはしばしば公的な存在、つまり論説委員や解説委員、評論家と同じような存在とみなされてしまう。その典型が報道ステーションでの古賀茂明の扱いだった。番組は、古賀がコメンテーターであるにもかかわらず、限りなくテレ朝大本営発表のような文脈で古賀に語らせたのだ。まあ、そうさせてしまった張本人は、煽った古舘伊知郎たちなんだけれども。ということは、宮崎で僕のコメンテーターとしての起用を当初踏みとどまらせた上司の理屈は、実は全国レベルでもいまだに通用するということになる。つまり、多くのオーディエンスがコメンテーターのコメントを私人の一意見とはみなせない(古賀の取り扱いについては、局の側も混乱していた)。ちなみに、僕は当該の報道番組で毎回二分ほどトピックをあげて解説をするコーナーも任されたのだけれど、終わりに必ず「私はこのように思いますが、みなさんはどうお考えでしょうか」という一言を加え、この解説があくまでコメンテーター一個人の見解に過ぎないこと示すという配慮を行った。

コメンテーターは2.5次元に存在する

こういった、コメンテーターの「半分素人」の視点、実は大変重宝されるものだ。こんなふうに考えるとわかりやすい。前述した解説・論説、評論家、そして局アナはディスプレイの向こう側にいて、一方的に情報を伝えてくる、いわば「二次元的存在」。一方、これを見ている視聴者の方は「三次元的存在」。だが二次元的存在の説明は得てしてわかりにくい。そして一方通行。また、局側からすれば、都合の悪いことは言えない。

ところが、ここにコメンテーターが介在し、テレビの側にいながら視聴者の側からコメントしたりツッコミを入れたりすることで、視聴者側としては放送内容の複雑性を縮減することが出来る。つまり、コメンテーターはディスプレイの向こう側にいながら、こちら側の一人として機能する。そしてある程度知識的なバックボーン、そして見識があるとされているので(実際はともかくとして)、視聴者はコメンテーターを「オピニオンリーダー」=情報を噛み砕き相対化する存在と位置づける。だからコメンテーターは二次元と三次元を取り持つ2.5次元の存在なのだ。

コメンテーターの最も重要な要素はパーソナリティ

知識があるような無いような存在であるコメンテーター。だが、放送側としては、コメンテーターの役割はそれでいいのだ。というのも、前述したように、実際のところコメンテーターに求められているのはコメントの内容ではなく、その語り口、極言してしまえばパーソナリティそれ自体にあるからだ。だから、本当のことを言えばコメンテーターの知識や見識など実はどうでもよい。定期的にコメンテーターとして番組に登場し、そのパーソナリティが認知されることで、視聴者は次第にコメンテーターのパーソナリティそれ自体に、そしてそのパフォーマンスに注目するようになる。そして親密性を抱くようになる。言い換えれば、コメンテーターはタレント性を帯びていく。そうすると、コメンテーターの存在自体が視聴率を稼ぐメディアとして成立するようになっていくのだ。

ということは、コメント内容よりも、むしろコメンテーターが面白かったり、物議を醸したりする方が、実は局としては好都合なのだ。しかも、いざとなったら責任はコメンテーターに帰することが出来る。

古市憲寿というパーソナリティはとっても便利だ

便利なコメンテーターの典型は古市憲寿だ。古市は一塊の大学院生でしかない。『絶望の国の幸福な若者たち』(講談社)という脱力系の若者論がウケ、これをきっかけにテレビにコメンテーターとして登場するようになった。ただし、これだけだとコメンテーターとしても一発屋で終わったはず。ところがそうなっていないのは、しばしば物議系の発言をやってしまうから。ただし、古市は個人攻撃はやらず、もっぱら脱力系で、半ば第三者的、無責任的なコメントを繰り返す。こういった物議を醸すコメントは、物議であっても古市個人の責任性が問われることはほとんどない。原則、他人の攻撃にはならないので「返り血を浴びる」可能性が低いのだ。いわば「ちょっと風変わりで無責任な発言」。これがエキセントリックゆえに目立ち、テレビ局側としてはそのパフォーマンスをおいしく感じるゆえに、いわばトリックスター的に重宝がられるのだ。また、古市の場合、ただの大学院生という不安定な存在、そして若者一人でしかないという立場が、この脱力系・無責任発言をモラトリアムにいる人間がやっている視聴者は無意識に位置づけ、これを許容・免罪する担保になっている。

そして、古市が使いやすい理由。実は冒頭のエピソード、つまり僕が当初コメンテーターを断られた際の理由とピッタリ一致する。コメンテーターはあくまで個人の視点からのコメントしかしない存在。ところが視聴者はそのことがわからず、時として、こういったコメントがテレビ番組でなされた際には、コメンテーターではなく、番組自体が非難の対象となるということが、しばしば発生する。前述した、報道ステーションでの古賀茂明の発言などはその典型だろう。ところが、古市は「無責任な脱力系発言をする若造」という文脈が視聴者の間で認識されている。となると、古市の発言は、あくまで「古市という一個人の発言」ということになり、コメンテーターという立場を視聴者は勘違いしないで済むからだ。そして、もし仮に古市がもっと物議を醸す発言をして問題になったとしても、局側としては「これはあくまで古市が言ったこと」といって知らぬ存ぜぬを決め込むことが出来る。だから古市という存在は局側にとっては安全パイでもあるのだ(『特ダネ!』で古市がコメントする際に見せる小倉智昭のほとんど無視した冷たい対応が、面白い)。
ただし、古市がどこかの大学の専任教員となったとすれば、この担保はなくなる。今度は社会学者というプロパーの立場から責任性を持った発言を要求されるわけで、こうなると古市のこの脱力系のコメントは同じことをやったとしても、非難の対象となるだろう。もう大学院生という免罪符はないからだ。

コメンテーターも、あくまで自らの知識や見識を背景にすべき。ただし……

まあ、視聴率さえ稼げればそれでいいというのが局側の無意識の立ち位置。だから古市みたいなパーソナリティは便利なわけなのだけれど、これでは局もコメンテーターも”衆愚状態”、マスゴミ扱いされるのがオチだ。コメンテーターとしての機能は何らかのかたちで定義される必要がある。やはり、まずは自らの専門分野を立ち位置として「その分野から○○を見たらどうなるか」という視点を堅持するのがコメンテーターの役割だろう。そして、ここに当然、パーソナリティ、つまりタレント性も欠かせない。

さしあたり、このへんのところをもっとも上手く演じているのは経済評論家・獨協大教授の森永卓郎あたりではなかろうか。森永は経済研究所や経企庁務めの経験のある経済プロパー。これがコメンテーターの知識の担保になっていると同時に、自らオタクと自称するように、そのパーソナリティにおいても一定のマニアックなキャラを確保し、それが視聴者の親密性を生み、メディアで重宝がられている(その森永さえ「番組を降ろされるなんてことはしょっちゅう」と、古賀騒動の際にはコメントしていたが)。そして古市のようなトリックプレー=キワモノ的な関心を引きつけるわけでもない。つまり、きわめて”まっとう”なのだ。

視聴者側としては(そして局の側も、さらには場合によってはコメンテーター自身も(例えば香山))、そろそろ「コメンテーターのコメントは、あくまで一個人の見解」であることを、もうそろそろ「あたりまえ」と思ってもいいんじゃないんだろうか。

facebookを利用していて、ちょっと引っかかっていることがある。

それは、

”自分の子どもの写真を頻繁にアップする人間がいること”

だ。

これ、少し節度をもってやって欲しいと考える。その根拠は二つある(二つ目はオマケだけれど)。

あなたの子どもの写真を友達は、あなたほど見たいとは思わない

一つは、これを閲覧する他者の立場から。
facebookに登場するコメントや写真・動画は原則、友達申請した人間か、その友だちがシェアしたものが掲載される。だから、シェアしたものはともかく、これらを閲覧するのは、原則相手を何らかのかたちで知っているという存在になる(このへんは使い方にもよる。たとえばfacebookでネットワークを広げようとする人間にとっては、見知らぬ相手であっても友達になることは多い。たとえば、シェアされたものをきっかけに友達申請して、友だちになるという場合もある。ただし、その多くは、原則、互いに何らかのかたちで面識がある相手を友達申請するというのが一般的だろう)。

しかしである、相手を知っていたとして、、いや、たとえよく知っていたとしても、そんなに相手の子どもの写真を見たいとは、はっきり言って思わないだろう。自分の子ども可愛さで、どうしても天使に見えてしまう「親バカ」な気持ちはわからないでもないのだけれど、あまりに頻繁に掲載されると、正直、たとえ仲間内のそれであっても「うざったいもの」になってしまうのは否めない。実のところ、息子・娘の写真を頻繁に見たいのは祖父・祖母、叔父叔母、兄弟と言った身内のエリア内の関わりの人間しかいないはずだからだ。一般的には、まあ、年に数回、拝見させていただければ、それでいいというところではなかろうか(年賀状などでは、よく子どもの写真が掲載されているが、これは「報告」的な意味合いが強く、個人的にはあまり違和感を感じることはない)。

子どもを公共に晒してしまう危険性

もう一つは子どもそれ自身の立場から。自分の子どもをfacebook上に公開するのは、いくら友達であったとしても危険性を完全に回避できるわけではない(しかもこの「友達」は「facebookで登録した友達」だ)。もし仮に、友達がその写真をシェアしてしまったとしたら、それは友達でない人間にも閲覧可能になるわけで。それが、ひょっとすると……まあ、めったにそんなことはないだろうが、ごく僅かの確率であったとしても、子どもを危険な立場に晒してしまう可能性がないとも言えない。

公私の区別がSNSでは涵養されていない

この二つの可能性を孕んでしまう、親のfacebookへの写真の公開。原因は同じところにある。要するに、メディアリテラシー、もう少し限定して言ってしまえばSNSリテラシー(この場合はfacebookリテラシー)が涵養されていないのだ。言い換えればSNSという新しいメディア(もう「新しい」というほどのものでもないかもしれないが)の使い方、とりわけ「公私の区別」のそれがついていないというところに、その原因が求められるのではないだろうか。

昨年、一昨年あたりにTwitterでバカッターなるものが話題になった。コンビニの冷蔵庫にバイトの従業員が裸で入った写真をアップしたり、ホテルの従業員が有名人のお忍びチェックインをツイートしてしまったり。これが話題になって、アップした本人がバッシングを受けたり、店が閉店に追い込まれたりしたことは、記憶に新しい。子どもの写真をむやみにアップすること。実は、これらの延長上にある心性と僕は考える。

子どもの写真を相手が好意的に見てくれるシチュエーションを考えること

個人的に提案したいのは、子どもを見たい人は誰なのかを配慮してからアップするということだ。たとえば、子どもの写真を頻繁にアップしたいのなら、そういったニーズのあるグループを作って、そこに逐次アップすればよい。そのグループに祖父・祖母がメンバーとして加わっていれば、これはSNSとしてはなかなか有意義な使い方のはずだ。

また、子どもが必ずしもテーマの中心とはならない、つまり別ネタのために子どもを登場させるという場合もアップの対象となる。マンガ『ドラえもん』の中で、お金持ちの息子・スネ夫が、自分の世界旅行の写真をのび太たちに見せるというシーンがある。ところがこの写真、ほとんどがスネ夫のどアップで、その後ろに世界的な名所がかろうじて見えるという代物。そして、これを見せられたのび太たちがウンザリするのだけれど。実は、これと同じ心性に基づくのが現在のfacebookに頻繁に掲載されている「子ども写真」の多くだろう。つまり「○○を見せる」と見せかけて、実は自らのナルシシズムの他者への押しつけをやっている。だから、こちらとしては、ちょっとウンザリするわけで。

しかし、子どもがものすごく面白いことをやった。笑わせるとか、感動させるとか、泣かせるとか。そして、この「面白さ」をみんなにシェアしてもらいたい。こんな場合は子どもの写真や映像(子どもに関するコメントも含めて)は実に有意義なものと言える。この時、焦点が当てられるのは子どもではなく、子どもがやった行為。これを見ている相手を楽しませることが出来るし、そのネタをシェア=共有することで閲覧者ともコミュニケーションを図ることが出来る(ただし、この場合、子どもを二番目の危険性に晒すことにはなるけれど)。もっとも、その線引きは容易ではないけれど。

すでに一般化したSNS。SNSの性質によるが、ここがもう一つのパブリックな空間(そして、そのパブリックな空間の中にプライベートな空間を作ることも可能な空間)であることを利用者が熟知するにはまだ少々時間がかかりそうだ。

10年後、facebookに子どもの写真を頻繁にアップしているなんてことがあったという事実を知って、未来の人間が「へー、そんなバカなことやってたんだ」なんてことになるのでは?僕はそう考えている。そして、それがメディアリテラシーの成熟ということになる。

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