Appleとディズニー。この二つの企業はS.ジョブズが深く絡んでいることで知られている。Appleについては言うまでもなく、Appleの創業者であり、かつ救世主である。一方、ディズニーについては、21世紀に入ってからの低迷打破のきっかけをR.エドワード・ディズニーとともに導いた(ピクサー買収後、ジョブズはディズニーの個人筆頭株主だった)。
二つの企業はジョブズそしてウォルト・ディズニー二人の人物の備える共通する理念を見事に踏襲している。それは「量を質に転化させる技術」だ。
これを説明するに当たって、黒子を登場させよう。申し訳ないがAppleのライバルと言われているSamsungを引き合いに出してみたい。ご存知のように、現在、最もスマートフォンの発売台数が多いのはSamsungだ。ただし最近は付加価値でiPhoneに押され、価格で中国製に押されと、旗色が悪いが。
Samsungは「量が質に転化しない」典型的な企業だ。そのやり方は「とにかく盛ること」。使えようが使えまいが機能を盛り、デザインの評判のいいところをコテコテと盛り、CMも類似企業の評判のいいところをひたすら盛る。特に後者二つは、露骨なくらいAppleのそれをパクりまくるので有名だ。で、技術的には結構イケてるのだけれど(ご存知のようにiPhone6のA8チップの製造のかなりの部分をSamsungが請け負っている)、この技術がこういった「盛り」によって、かえって目立たないという残念な結果になっている。
一方、Appleは盛らない。技術的な側面は、ある意味Samsungより劣る(Appleはパーツ製造のほとんどを外部に依存している)。にもかかわらず、製品としての魅力はSamsungを大幅に上回る。
この原因を考えるに当たってはディズニーの理念、とりわけウォルト・ディズニーの提唱したテーマパークという考えを持ちだすとわかりやすい。テーマパークとは「一定の空間を特定のテーマに基づいて作り上げる遊戯施設」ということになるが、実のところ、これは正鵠を射ていない。その証拠に83年、日本に東京ディズニーランドがオープンした後、次々とこの定義に基づいたテーマパークが作られたが、そのほとんどが失敗に終わっている。
テーマパークとは、ただ単に「テーマに合わせて情報を盛る」ことによって作られる空間ではないのだ。無論、ディズニーランドにもディズニーに関する大量の情報が盛り込まれている。しかしながら、実はこの「盛り」は一定の整序の下に盛られているのだ。つまりテーマには「空間デザインを統一する」ことだけでなく、「配置されたものそれぞれに物語が提示され、そしてそれが幾重にも折り重なることでより大きな物語=テーマが設定される」という側面があるのだ。
単に盛るだけなら、それはただの「ごった煮」。ところが情報を整序し、「物語」の中に配置することで、それはごった煮ではなく、ある種の世界観を構築することになる。
言い換えれば、空間を構築するに当たっては、先ずさまざまなアイデアを盛ってみるが、その後、テーマ=物語に従って取捨選択が行われ、さらに、それがいわば「一筆書き」のストーリーとして感じられるように配置し直されるのである。だから、空間それ自体に、情報が盛り過ぎられていて混沌としているという印象を抱くことはない。パーク内は驚安の殿堂、ドン・キホーテではないのである。
Appleもこのやり方を踏襲している。とにかく情報を集めるが、ユーザーに何を使わせたいのか、どんなライフスタイルがあり得るのかを検討を重ね、それにふさわしいものがチョイスされ、さらにこれが一筆書きになるように組み合わされる。こうやっていわば徹底的に濾過を繰り返した部分だけが製品の機能として採用されるわけだ。つまり、Appleのミニマリズム、シンプルさ、実は背後に膨大な情報が前提され、そのなかから提案したいものだけが選択されているというわけだ。たとえば、AppleはマックにBlu-ray/DVDドライブを搭載しない。また新しい薄型MacBookもポートが一つしかない。これらはメディアの未来を見据えた理念に基づいている。前者は「ディスクはもはやオワコン」つまり「ハードメディアによるデータ提供はやらない」「データの供給ははダウンロードで」、後者は「モバイルのパソコンは軽く、余分なものが一切ついておらず、全てはネットでやりとする」ということで外された。つまり、これら製品はいわば「大吟醸」。情報の多くが削り落とされて、いわばコンセプト=エッセンスのみになっており、ムダがない。
こういった「背後にある不可視の膨大な情報」を一般人は知る由もない。ただし、無意識のうちに、われわれはそこに独特のオーラを見てしまう。新たにリリースされたAppleWatchはその典型で、あれで何が出来るのか、恐らく使ってみなければわからないはず。にもかかわらず、いきなり好調な販売の滑り出しを見せてしまうのは、要するにそこに「新しい機能」ではなく「新しいライフスタイル」を消費者が見てしまうからだ。いや、厳密に言えば「Appleだから、新しい提案があるはずだ」と思ってしまうからだ(ひょっとしたら、実際にはその提案は魅力的なものではないかもしれないのだが)。そして、そういった妄想を喚起する根本的な要因こそ、背後に不可視ながら無意識に前提されてしまう膨大な情報なのだ。そして、これがAppleという企業の(そしてディズニーという企業の)付加価値=ブランドイメージを構築している。そう、これがAppleWatchを含むアップル製品のオーラなのだ。
Samsungにはそれがない。製品は、たとえば盛ったものをそれぞれ外していった場合、何も残らない。言い換えればライフスタイルの提案が、そこにはない。強いてあるのは、結局、「いろいろ盛って客を引き、一儲けしよう」といったような「理念無き理念」あるいは「メタ理念」ということになるのだろうか……。
Appleの理念についてしばしば指摘されるのが「引き算」。つまり、必要なものだけを残すという考え方なのだが、それは単なる引き算ではなく「物語」=ライフスタイルの提案あっての引き算なのである。