勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2015年04月

Appleとディズニー。この二つの企業はS.ジョブズが深く絡んでいることで知られている。Appleについては言うまでもなく、Appleの創業者であり、かつ救世主である。一方、ディズニーについては、21世紀に入ってからの低迷打破のきっかけをR.エドワード・ディズニーとともに導いた(ピクサー買収後、ジョブズはディズニーの個人筆頭株主だった)。

二つの企業はジョブズそしてウォルト・ディズニー二人の人物の備える共通する理念を見事に踏襲している。それは「量を質に転化させる技術」だ。

これを説明するに当たって、黒子を登場させよう。申し訳ないがAppleのライバルと言われているSamsungを引き合いに出してみたい。ご存知のように、現在、最もスマートフォンの発売台数が多いのはSamsungだ。ただし最近は付加価値でiPhoneに押され、価格で中国製に押されと、旗色が悪いが。

Samsungは「量が質に転化しない」典型的な企業だ。そのやり方は「とにかく盛ること」。使えようが使えまいが機能を盛り、デザインの評判のいいところをコテコテと盛り、CMも類似企業の評判のいいところをひたすら盛る。特に後者二つは、露骨なくらいAppleのそれをパクりまくるので有名だ。で、技術的には結構イケてるのだけれど(ご存知のようにiPhone6のA8チップの製造のかなりの部分をSamsungが請け負っている)、この技術がこういった「盛り」によって、かえって目立たないという残念な結果になっている。

一方、Appleは盛らない。技術的な側面は、ある意味Samsungより劣る(Appleはパーツ製造のほとんどを外部に依存している)。にもかかわらず、製品としての魅力はSamsungを大幅に上回る。
この原因を考えるに当たってはディズニーの理念、とりわけウォルト・ディズニーの提唱したテーマパークという考えを持ちだすとわかりやすい。テーマパークとは「一定の空間を特定のテーマに基づいて作り上げる遊戯施設」ということになるが、実のところ、これは正鵠を射ていない。その証拠に83年、日本に東京ディズニーランドがオープンした後、次々とこの定義に基づいたテーマパークが作られたが、そのほとんどが失敗に終わっている。

テーマパークとは、ただ単に「テーマに合わせて情報を盛る」ことによって作られる空間ではないのだ。無論、ディズニーランドにもディズニーに関する大量の情報が盛り込まれている。しかしながら、実はこの「盛り」は一定の整序の下に盛られているのだ。つまりテーマには「空間デザインを統一する」ことだけでなく、「配置されたものそれぞれに物語が提示され、そしてそれが幾重にも折り重なることでより大きな物語=テーマが設定される」という側面があるのだ。

単に盛るだけなら、それはただの「ごった煮」。ところが情報を整序し、「物語」の中に配置することで、それはごった煮ではなく、ある種の世界観を構築することになる。

言い換えれば、空間を構築するに当たっては、先ずさまざまなアイデアを盛ってみるが、その後、テーマ=物語に従って取捨選択が行われ、さらに、それがいわば「一筆書き」のストーリーとして感じられるように配置し直されるのである。だから、空間それ自体に、情報が盛り過ぎられていて混沌としているという印象を抱くことはない。パーク内は驚安の殿堂、ドン・キホーテではないのである。

Appleもこのやり方を踏襲している。とにかく情報を集めるが、ユーザーに何を使わせたいのか、どんなライフスタイルがあり得るのかを検討を重ね、それにふさわしいものがチョイスされ、さらにこれが一筆書きになるように組み合わされる。こうやっていわば徹底的に濾過を繰り返した部分だけが製品の機能として採用されるわけだ。つまり、Appleのミニマリズム、シンプルさ、実は背後に膨大な情報が前提され、そのなかから提案したいものだけが選択されているというわけだ。たとえば、AppleはマックにBlu-ray/DVDドライブを搭載しない。また新しい薄型MacBookもポートが一つしかない。これらはメディアの未来を見据えた理念に基づいている。前者は「ディスクはもはやオワコン」つまり「ハードメディアによるデータ提供はやらない」「データの供給ははダウンロードで」、後者は「モバイルのパソコンは軽く、余分なものが一切ついておらず、全てはネットでやりとする」ということで外された。つまり、これら製品はいわば「大吟醸」。情報の多くが削り落とされて、いわばコンセプト=エッセンスのみになっており、ムダがない。

こういった「背後にある不可視の膨大な情報」を一般人は知る由もない。ただし、無意識のうちに、われわれはそこに独特のオーラを見てしまう。新たにリリースされたAppleWatchはその典型で、あれで何が出来るのか、恐らく使ってみなければわからないはず。にもかかわらず、いきなり好調な販売の滑り出しを見せてしまうのは、要するにそこに「新しい機能」ではなく「新しいライフスタイル」を消費者が見てしまうからだ。いや、厳密に言えば「Appleだから、新しい提案があるはずだ」と思ってしまうからだ(ひょっとしたら、実際にはその提案は魅力的なものではないかもしれないのだが)。そして、そういった妄想を喚起する根本的な要因こそ、背後に不可視ながら無意識に前提されてしまう膨大な情報なのだ。そして、これがAppleという企業の(そしてディズニーという企業の)付加価値=ブランドイメージを構築している。そう、これがAppleWatchを含むアップル製品のオーラなのだ。

Samsungにはそれがない。製品は、たとえば盛ったものをそれぞれ外していった場合、何も残らない。言い換えればライフスタイルの提案が、そこにはない。強いてあるのは、結局、「いろいろ盛って客を引き、一儲けしよう」といったような「理念無き理念」あるいは「メタ理念」ということになるのだろうか……。

Appleの理念についてしばしば指摘されるのが「引き算」。つまり、必要なものだけを残すという考え方なのだが、それは単なる引き算ではなく「物語」=ライフスタイルの提案あっての引き算なのである。

私、仕事柄(文筆業)、カフェにMacBookを持ち込んで仕事をすることが多い人間です。とりわけSTARBUCKSは落ち着くカフェ。スタバは「第三の空間」をウリにしています。パブリックでもプライベートでもない、そのいいとこ取りをした快適な空間を提供なさっているおられます。もうちょっとご説明申し上げますと、パブリックな空間は「賑やかでよろしいのだけれど、人がいるのでうざったい」、プライベートな空間は「勝手気ままに出来てよろしいのだけれど、ボッチになるので、ちょと仕事がはかどらない」。で、第三の空間というのは、要するに「賑やかでよろしく、プライベートも保てる」。こうなると煮詰まることなく文筆作業もサクサクと進むわけで。また、あそこはWi-Fiにも繋がるというわけで、これまた便利な空間。「私の日常」として愛用させていただいております(ドヤ)。

ところが、最近、巷がかまびすしい。スタバでMac、とりわけあの薄いMacBook Airを持ち込んで作業している輩がウザイなどといわれ、それを揶揄する「ドヤリング」などという言葉も生まれたほど。

でも、これって、私のことじゃ、ありませんか?

困るんです、そんなこと言われても、ねぇ(ドヤ)

でも、何でこんな言われ方、するんでしょう?なんでスタバ+MacBook Airだと「ドヤリング」になるんでしょう?

一つは、確かにスタバでMacBook広げ、光る白いリンゴマークを「ドヤ顔」で見せびらかしながら、さも「オレって仕事やってる~ぅ!」みたいな輩を見受けることも事実です。でもって、こういう輩は「真性ドヤリング」。スノッブなアホとして見下しても構わないでしょう。コイツはパソコンも仕事のこともMacのこともな~んにもわかっていないヤツですから。仕事の中身はカラッポのはず。

しかし、こんな輩は私のようなプロフェッショナルが「日常」のようにやっていることに対して、「ドヤリングやってんな、あのおっさん」などとあらぬ疑いをかけられる大きな原因ともなっているゆえ、メイワク千万な存在以外の何者でもありません(ドヤ)。

しかし、なんでスタバだと、そしてMacBookAirだとドヤリングになるのでしょうか?たとえば「スタバでLenovo」はなぜドヤリングではないのでしょう?(「マックでLenovo」だったら絶対にドヤリングとは言われないでしょうね。むしろ、その姿はオタクとか社畜とうイメージかもしれません)。

なんのことはありません。単なる記号=ブランドの問題です。スタバというオッシャレーなカフェ(最近は、あまりにあっちこっちにあったり、ブルーボトルコーヒーなんかの進出もあったりして、ちょいと記号性は下がり気味ですが)とMacBookAirというAppleブランドの、そんでもって激薄パソコンのフラッグシップみたいな位置づけのノートブックが白いリンゴの光を放っているのが、そう見えるんでしょうね。まあ、やっかみ的な人間の妄想とジェラシーが生み出すイメージの問題といったところでしょうか(ドヤ)。
私のように、プロフェッショナルとしてAppleの初代ノートパソコン、PowerBook100の頃、つまり24年前からずーっとこういう「日常」を続けているプロにとっては、こういうドヤな輩とか、ドヤを揶揄する輩の存在は、本当にメイワクしてしまいます(ドヤドヤ)。

仕方がないから、これからはマックでMacBookAir広げることにしましょうか?いやいや、そんな妥協は許されません。あそこのコーヒーでは、ちょっと……雰囲気も落ち着く感じではありませんし、だいいち椅子が硬すぎます。やはり、こんな表面だけの連中、つまりこれ見よがしな輩と、これ見よがしを揶揄する輩を相手にしているようではプロとは言えませんからね(ドヤ)

申し訳ありませんが、今後とも軽くスルーさせていただきます(ドヤ)

スタバでドヤリングしていますけど、何か?(ドヤドヤドヤドヤ……)

4月4日、日刊ゲンダイで歌番組が80年代のような活況を呈している、復活の兆しを見せているという記事が掲載された。NHK「歌謡ポップス☆一番星」、BSジャパン「名曲にっぽん」、テレビ東京「木曜八時のコンサート~名曲!にっぽんの歌」などが人気だという。また、この勢いに乗じてフジが森高千里を司会に起用し「水曜歌謡祭」を、CSの歌謡ポップスチャンネルが「クロスカヴァー・ソングショー」を開始させる。調子のいい時は視聴率10%超えもあるらしい。

こりゃ「景気のいい」話と思えないこともないが……いや、事態、実はむしろ深刻と考えた方がいい。そのことは現在、テレビ局で一部の「景気のいい」番組のジャンルの共通点を考えてみるとよくわかる。ここで取り上げたい番組ジャンルは刑事・探偵物、サスペンス。個別の物だと朝ドラ、そして「笑点」(報道、アニメ、スポーツ中継等は除く)といった類いだ。

高視聴率に見えるのは消去法の結果

実は、これらは本当のところを言うと「景気がいい」というよりは消去法の結果、残ったものと考えた方がいい。いずれにしても、視聴率はかつてのような景気のよさとは異なっている。つまりテレビ番組は全体的にはジリ貧だが、これらはかろうじて持ちこたえている方といった認識の方が正しい。で、これらに共通するのは、ようするに視聴者層が偏っていると言うこと。いずれも五十代以上が対象。この層はインターネットへの親和性が低く、なおかつ、もはや保守反動的な心性を持ち主が大半なので、新奇なものについてはあまり関心が向かわない。そんなオーディエンスが向かうメディアは、もはやオールド・メディアになりつつあるテレビのコンテンツだ。中でも刑事・探偵物、サスペンスはその最たるもので、ほとんどお決まりのパターンが展開されているだけ。朝ドラ、「笑点」に至っては超マンネリだ(「13年前半に放送された「あまちゃん」を除く)。しかもこの層の多くは子育て終了、仕事もリタイアしているわけで、暇をもてあましている。それゆえ、必然的にテレビに向かう時間は増える。なので、この層を掴んでさえいれば、テレビ局としてはとりあえず、その場を凌ぐことが出来る。

うっかり忘れていた「歌謡番組」

そして、このパターンの一つとして忘れ去られていたのが歌謡番組だったのだ。これは、番組の中身を見てみるとよくわかる。これらは、たとえば長らく続けられている「ミュージックステーション」とは出演者のラインナップが大幅に異なっている。「ミュージックステーション」はオリコン上位のミュージシャンが登場するが、歌謡番組に登場するのはいわゆる「歌謡曲」の「歌手」だ。そして往年のヒット曲を歌うのだ。五木ひろし、森進一、小柳ルミ子、北島三郎、石川さゆり、香西かおり、布施明などなど。とうの昔に薹が立った声、歌い過ぎで妙に小節が入った歌い方で得意満面、ドヤ顔で歌い上げるのだ。若手を登場させる場合にも、持ち歌ではなく往年のヒット曲を歌わせる。なんのことはない、かつてなら「思い出のメロディー」だった番組パターンなのだ。こういった番組構成が高齢者層を対象としていることは言うまでもないだろう。ちなみに司会に森高を起用したり、若手に古い歌を歌わせたりするのは、それなりの若年層(といっても四十代から上)の取り込み戦略だろう。とはいうものの、この層はネット世代なので、あまりなびかないのではなかろうか。

要するにこういうことだ。若年層をターゲット音楽番組がジリ貧だった。ネット世代は音楽番組なんか見ない。勝手に音楽ソースにアクセスするか、お気に入りのミュージシャンのライブに出かける。で、音楽の志向も多様化しているので、それぞれお気に入りはバラバラ。つまりミュージシャンたちの支持層は狭い。ということはテレビ出演はちょっと考えられない。だからますます見ない。「ミュージックステーション」を見るのは、それ以外のとりあえずメジャーな連中を、仲間内でのコミュニケーショネタにするために押さえておくという位置づけ(つまり、お気に入りのミュージシャンは出演していない)。だから、テレビ局側としては番組をやろうにもやりようが無い。で、歌番組をヤメていたところに、「おや、よく考えてみればサスペンス、笑点、朝ドラ視聴者層は音楽番組見るよね」ってなことになったんでは(というか、たまたま、そこそこ視聴率をとっていたので気づいたというのが正解か?)。

いずれにしても先は暗い

だが、これは結局のところ枯渇しようとしている池の水の残った部分にすがっているという状況でしかない。つまり、いずれこの層も失われていくわけで、そうなった時、テレビはより深刻な事態を迎えることになる。

歌番組、一時しのぎにはよいかも知れないが、10年後にはもはや頼れるものにはなっていないだろう。少なくとも、現状をスタイルを何らかのかたちで変更しない限りは。

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