勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2015年03月

AppleWatchの影でMacBookが大幅リニューアルされた。既存のMacBook、MacBookAirはCPUを中心としたスペックアップ、そして待望の12インチRetinaディスプレイ搭載MacBookの登場だ。これは当初予想されたMacBookAir12インチかと思いきやAirではなく、MacBookという名称だった。ということは現状では、セグメンテーションはRetinaディスプレイつき=MacBook、Retinaなし=MacBookAirということになる。

そして、この12インチMacBookについて賛否両論がかまびすしい。で、ここでは徹底的にこの新製品をヨイショする形で展開してみたいと思う。ただしメディア論的に。

とにかくこのMacBook(以下、MacBook12)、いかにもAppleらしい、というかジョブズのDNAをしっかり踏襲したモデルとなっている。そのキモは「潔さ」「セグメントの徹底」だ。これらによってユーザーにパソコンの新しいあり方を提示している。つまり教育しようとしている。それは、さながらかつてiMac投入した際にSCSIとフロッピードライブを取り外してしまったように、あるいは顧客からビジネス層をバッサリ切り落としてしまったように。そしてパソコンが無いと使えないミュージックプレイヤー、iPodをリリースしたように。

こういった潔さは、得てして多くの既存のユーザーを混乱させる。つまり「それ取っちゃ、おしまいでしょ」「これまでのこちらの財産が使えなくなるのはどういうことだ!」。しかし、Appleは常に前しか向かない。そのために過去を「潔く」バッサリと切り捨てる。これこそジョブズ主義というところだろうか。

MacBookへのツッコミ

しかしながら、例によってこういった「潔さ」に突っ込みが入る。論点は次の四つあたり。

一つ目はポートをUSB-Cとオーディオジャックを除き、全て取っ払ってしまったこと。しかも電源込みでUSB-Cのポートは一つだけ。「ディスプレイ表示も、USBディバイスの挿入も、電源供給もこれ一本って、いったいどうやるんだ。電源つないだ瞬間終わりでしょ。え、アダプターがオプションである?で、9000円?ふざけるな!」

二つ目はスペックの低さ。CPUは現状のCore i5より30%遅いCoreMだ。「これじゃあビデオやデッカイ画像を編集しようとしたら、トロくてどうしようもないんじゃね?それからストレージ256GBと512GB。まあ、MacBookAirも同じだけれど、あっちの場合はUSBのポートが複数あるから、そこに外部ストレージをつなげばいい。ところが、こっちは一個しかないわけで。これじゃあ、どうにもならないでしょ。ディスプレイにも繋げないし。クリエイターにとっては使いものにならないよ」

三つ目は見た目。ディスプレイ裏のアップルロゴが光らなくなった。「これじゃスタバに行って、MacBook広げて、ドヤ顔しても目立たないじゃないか。オレってイケてないわけで、スタバに行く意味がなくなる」

四つ目はキーボード。キーボードは少々大きめ。しかもクリックが浅い。「なんじゃ、このペラペラ感は?打ちづらい、許せん」

さて、こういった反論に全てひっくり返す形で説明してみよう。反論する視点は二つ。先ず一つ目は「この新しいMacBook12のユーザーは誰か?」という視点から。

コア層はライトユーザー

よく考えてみても欲しい。MacBook、そしてMacBookAirを利用するコア層はどのような人たちだろうか?その性能から狭義のクリエイターあたりがイメージされるのがマック製品だ。つまり映像や画像を加工したり、音楽を作ったりといった層。そういった人間たちは大型ディスプレイにMacを繋ぎ、CPUをぶん回し、メモリーを湯水のように使う。だからグチャグチャいろいろ差し込むためのポートは無いわ、CPUはトロいわ、メモリーは無いわで、新型MacBook12は明らかに力量不足。おまけにロゴが光ってないから、スタバで「オレって、クリエイター」とドヤ顔することも出来ない(もっとも、このマシンはメチャクチャ薄いので、ゴールドなんか持ってスタバに行けば、ロゴが光らなくても十分に目立つだろうけど(笑))。

しかし、コア層がクリエイターというのはウソだろう。MacBookAirやMacを利用するユーザーのほとんどはテキストの書き込み、パソコンブラウズ、メールのやりとり、ちょこっとゲームをやるといった作業をメインとするライトユーザーのはずだ(これはあまり使わないと言うことでは必ずしもない)。そんなユーザーには機敏に動くスペックも大容量のストレージも、外部に映すモニターもはっきりいって不要。そして、Macをフツーに使いこなしたいので、スタバでもタリーズでもドトールでもどこでもいい。「オレってスタバでMacでイケてる」じゃなくて、「チョコッと仕事したいからスタバ、タリーズ、ドトール、あるいはマック(マクドナルド)へ」なのだ。

そういった人間にとってMacBook12は最高にイケてるパソコンに見えるはずだ。軽くて小さいから携帯しやすい。Retinaディスプレイはキレイ。しかもバッテリー容量は十分。作成した書類はクラウドにあげれば終わり。そもそもデータは重くないので、クラウドじゃなくて内部のSSDに放り込んでおいてもストレージを圧迫しない。つまり、カジュアルに使いこなすコア層にとって、こんなに魅力的なパソコンは存在しない。まさに革命。まあ唯一困るのはiPhoneを充電することが出来ないことか(する場合にはMacBook12のバッテリーから頂戴するということになるわけだけれど、その際にはMacBook12が電源に繋げない)。

そして、ここでクリエイターさんにツッコミを入れようと思う。あのね、クリエイターって映像、画像、音楽をいじくり回す高城剛さんみたいな人ばかりじゃないんですよ。そりゃ、定義が狭すぎる。こちらもコア層は、実はテキストベースの仕事をこなす人のはず。だから、クリエイターのうちMacBook12は使えないなんて言っている御仁、ちょっとゴーマンかましているような気がしますが(たとえばhttp://blogos.com/article/107769/)。モノを書くという点では僕もクリエイター。で、僕にとってはこのマシン、とてつもなく魅力的に見える。

要するに、このマシン。端っから狭義のクリエイターさんたちを切り捨てているのだ。だって、マイノリティだから、儲からないし(笑)

パソコンの新しいあり方を提示する

次はメディア論的立場からMacBook12を絶賛してみよう(笑)
で、ここでは権威に頼って、このパソコンがすばらしいことを説得してみたい。メディアに関する預言を当てまくることで有名な二人の偉人の言葉をここで引用する。ひとつはメディア論の父、M.マクルーハンの言葉だ。

「われわれはまったく新しい状況に直面すると、常にもっとも近い過去の事物とか特色に執着しがちである。われわれはバックミラーを通して現代を見ている。われわれは未来に向かって、後ろ向きに進んでゆく」

この言葉は最高にクールだ。人間というのは保守的なもので、新しいものが出てくると面食らってしまう。未来を見ることは好きだが、未知の未来は怖い。それゆえ過去を見ながら、過去の慣習の延長上にしか未来を見ることができない。だから「未来に向かって、後ろ向きに進んでいく」のだ。

で、これじゃあ、何も生まれない。「新しいもの」はつねに「奇異なもの」。それで何が出来るのか全く予想がつかないものだ(Appleに詳しい林信行氏はAppleWatchのハンズオンでこれを絶賛しているが、残念ながら実際に触れてもいない僕には、これが何が出来るの想像つかない。一方、MacBook12は確実に未来が見える)。だから、その出現の際には、その多くが過去、そして既存のものを正当化して、新しいものを否定する。60年代ビートルズが出現した時、大人世代が「あれは騒音」といって一刀両断したなんてのがその典型。だがビートルズはその後われわれの音楽のメインストリーを構築することになった。

MacBook12への批判は、まさにこういった「未来に向かって後ろ向きに進む」人間たちからのものだ。面白いのは、こういった批判を、未来を見ているはずのクリエイターがやっていることなんだが(笑)(ちなみにこういったクリエイターのみなさんは狭義の「クリエイト」という「お仕事」をおやりになられているので、Macの購入はMacProかiMac、MacBookProの15インチがオススメです。っていうか、たぶん持っているはず)。僕はマックを10台以上保有しているけれど、こういう「クリエイター的お仕事」、つまり映像、画像編集をやるのはやっぱりiMacかMacBookPro15、つまり高スペックのマシンでMacBookなら当然ディスプレイに接続して使っている。チョコチョコ物書きは現在MacBookAirの13だが、正直言うと11の方がコンパクトでいい。13にしているのは年齢の問題。つまり老眼の目にはちょっとキツい文字の大きさなのだ(泣)。

MacBook12への批判パターンで、この図式が最もあてはまるのは新しいキーボードについてのツッコミだ。今回のリニューアルでキーボードはシザー構造からバタフライ構造へと変更された。これによってキーは一層薄くなった。で、より軽いタッチ、つまりペラペラな感じで入力出来るようになったのだが、この入力感にツッコミが入ったのだ。

実は、かつて僕も同じような経験をしている。Appleのノートパソコンの名前がiBook/PowerBookからMacBook/MacBookProへ変更された際、キーボードは大幅な変更がなされている。キーが薄くなり、入力時に押し込み感覚が減って現行のペラペラになったのだ。「こりゃ押しづらい」、当初はそう思っていたのだが、慣れてみると全く逆だった。僕みたいにキー入力の速い人間にとってはこの薄さ、ペラペラ感は馴染むにつれて、ものすごく快適なものになった。そして、このキーボードスタイル、その後のウインドウズ・パソコンでもデファクト・スタンダードとなってしまった。で、その後、MacBookAirが薄型パソコンのデファクト・スタンダードになったこともよく知られているところだ。

そして今回そのリニューアル。つまり、さらに薄くなるとともにバタフライ構造によってキーのぐらつきが一切なくなった。で、やっぱり最初はまごつくだろう。しかし、慣れれば、結局、また同じことが起こる。つまり慣れれば慣れるほど速く入力が出来、しかもミスタイプが減る。「う~ん、こりゃスゴイ」ってなことに。で、結局、このバタフライ方式が、数年後にはパソコンのデファクト・スタンダードになっていく。

よくよく考えてみれば、Appleの「潔さ」「セグメントの徹底」はMacBook12に限った話ではなかったのだ。USBにしても、フロッピーの撤廃にしても、Wi-Fiの標準装備にしても、Appleは同じようなうことをやって来た……そしてパソコンの未来を開いてきた。そして今回、AppleはMacBook12でパソコンを再発明したのだ。

未来を創る!

で、シメにもう一人の権威の言葉を援用しよう。ご存知、Appleの創始者S.ジョブズのコメントだ。

「未来を予測することなんか簡単だ。未来を創ってしまえばいいのさ」

MacBookPro12はまさに未来を創っていることが明確にわかるモデルだ(ただし数年先くらいまでだろうけど。そのさらに先を創ろうとしているのがAppleWatchだろう。これが本当に未来を創ることが出来るかどうかは、あまりに壮大すぎてちょっとまだ予想がつかないけれど)

もう数年もしないうちに、街中が(そしてスタバが)、MacBook12の、いやMacBook12のスタイルを真似たパソコンでいっぱいになっていることを予想すること。実は、とっても現実的なことなのではなかろうか。

籾井会長の横暴

NHK籾井勝人会長の暴言が物議を醸している。特定秘密保護法、竹島・尖閣諸島問題、慰安婦問題などについて公人としての発言を求められる場で私的な立場からコメントし、あまりの傍若無人ぶりに記者がツッコミを入れても謝罪することもなく傲慢な態度をひたすらやり続ける。「なんでこんな人間がNHKの会長なんかやっているんだ?」といったイメージをお持ちの方も多いだろう。ちなみに同様に傍若無人ぶりを発揮する人間には鳩山由紀夫元総理や文人の曾野綾子がいる

今回は、籾井会長(あるいはそれに類する有名人)がなぜ暴言を吐くのか、その構造について考えてみたい。ただし、ここでは籾井氏個人の資質については言及しない。もちろん、籾井氏と同じような立場にある人間の多くは、こういった傍若無人ぶりを発揮するわけではないので、暴言が物議を醸すのは籾井氏の資質に寄るところが大きい。ただし、これは十分条件。必要条件がなければ、こういったキャラクターが表沙汰になることは先ずない(おそらく、籾井氏と同じような傍若無人ぶりを発揮していた人間は過去にも多く存在するだろう。だが必要条件が整っていなかったので認知されることはなかった)。言い換えれば、ここで考察したいのは籾井氏というエキセントリックな人間が物議ネタになる必要条件=インフラについてということになる。

病名診断的に籾井氏の暴言が出現する原因を述べれば、これは「合併症」だ。いや、合併症は病気が他の病気を併発するのでちょっと意味が違う。正確には「逆合併症」というのがふさわしい。つまり様々な病巣が合併して「暴言」という病気が発生するのだ。

病巣は三つある。

価値観がバラバラになると、他人の価値観は受け入れがたい奇異なものに見える

一つは、価値観の多様化に伴う認識の島宇宙化、フィルターバブル的心性の一般化だ。ちなみに、これは籾井氏というよりも現代人全般に共通する心性といった方が当を得ている。

情報の氾濫、情報アクセスの易化は翻って価値観の相対化といった事態をわれわれの認識方法に植え付けた。ある価値観を信じようにも、すぐさまそれを否定する価値観が生まれ、さらにそれを否定する価値観が生まれるといった具合に、ウロボロス的に価値観が否定され続ける。翻って、それは一般に共通して認識される価値観の希薄化をもたらし、その一方で個人があまたある価値観、情報の中から任意に選択した価値観にタコツボ的に頭を突っ込むという行動・認識パターンを生むことになった。つまり、みんなバラバラになったのだ。

これをわかりやすいエピソードで示してみよう。

ある日の首都圏の郊外での駅でのこと。一人の老人がプラットホームに向かおうと階段を上がっていた。高齢でなおかつ脚が悪いらしく、階段を上るのはなかなか容易ではないようだ。そこに髪の毛を金色に染め、あちこちにピアスをし、バッチリ顔を塗りたくったハイティーンの女子がやってきた。いかにもヤンキー風の女子。ところが、この老人に気がつき、見かねて老人のところへ近寄り、介助を申し出たのだ。容貌からは想像がつかない意外な行動に周囲はビックリ。ところがもっとビックリしたことがあった。言葉をかけられた瞬間、老人はブチ切れ、ヤンキー風の女子を怒鳴りつけたのだ。もちろん女子は唖然としてその場に立ちすくむしかなかった。
ここで興味深いのはヤンキー風=性格悪くて野蛮、老人=おとなしい、介助をありがたく受け入れるという図式、いいかえれば「世間」が完全に崩壊している点だ。なぜそうなったのか?老人であれ、ヤンキー風女子であれ、自ら任意の情報選択によって価値観を構築し、それに基づいて行動したからだ。

さて、かつての「世間」という言葉で表現されるような一元的な価値観を備えている人間がこの風景を見たらどう思うか?もちろん老人のその罵声は「暴言」ということになる。しかし、これは老人の価値観からしたら常識なのである。籾井氏の発言は、こういった価値観の相対化が作り上げる世界観の個別化の結果と考えられる。

セレブが辿る社会性の退行化

二つ目は、これは必ずしも現代に特有のものというわけではないが、組織の長となって全体の指揮を執り、その結果、周りが口を挟むことが躊躇されるような状況におかれた人間が、次第に自己中心的に振るまい、周囲の反応がわからなくなってしまう場合だ。いいかえればエラくなりすぎて空気を読む気が無意識のうちになくなってしまい、非常識な行動をとるようになるパターンである。NHK会長なら籾井氏の以前にも島ゲジと呼ばれた島桂次はきわめて横暴な行動をとっていたし、ナベツネと呼ばれる読売のドン・渡辺恒雄はいまだに傍若無人な振る舞いを繰り返している。

こういった「セレブの横暴」という病巣を籾井氏は抱えている。ちなみに、このパターン。最悪の場合は、何らかのかたちで失脚するという末路を迎える。かつて三越の社長・岡田茂やルーマニア政権で長きにわたって大統領を務めたチャウセスクなどはその典型で、前者は重役会議で突然更迭され、後者は逮捕されるいなや処刑された。ただし、たとえこういった横暴な独裁者であったとしても、その自己中によって周囲が恩恵を受けている場合には、この横暴は肯定的に迎え入れられる。W.ディズニーやS.ジョブズを思い浮かべればこれは簡単だ。

つまり、籾井氏本人の心性に宿ったのが、この二つ、症状はその逆合併症であると判断出来るのだ。

マスコミが籾井氏をタレント化する

ただし、逆合併症はもうひとつある。それは籾井氏を取り囲む必要条件、マス・メディアの不調というインフラだ。ご存知のようにテレビも新聞も雑誌も業績は慢性的に漸減傾向にある。そこで藁をもすがる思いで、受け手=消費者の関心を煽ろうとする。その際、都合のよいのがスキャンダリズムだ。スキャンダリズムの基本はセンセーショナルであること、そして一般人ではなくセレブ、あるいは権威的立場にある人間の不祥事への批判であることにある。これは、かつてのまっとうなジャーナリズムであれば、正義を正すみたいな感じの論調になるのだけれど、残念ながら現在はそうはなっていない。とにかく関心を惹起するならなんでもいいわけで、そうするとエキセントリックな行動をしてくれるセレブが大いにネタとしては助かるのだ。だから鳩山由紀夫は「宇宙人」として位置づけられ、その宇宙人ぶりを逐一報道することが商売の糧となる。そして、これに最も該当する人物の一人としてカウントされているのが籾井氏なのだ。なんといっても放送界のトップNHKの会長。しかも受信料を取っているゆえ、公的な機能を果たさなければならないとされる放送界の権威。それがあやしい発言をすれば、ネタとしてこれほどおいしいものはない。この瞬間、籾井氏は「暴言キャラクター」としてキャラ立ちしてしまうのだ。よくよく考えてみれば、かつてこういった立場におかれた人間は、たとえ暴言を吐いたとしても、それが世間一般に知れ渡ることはあまりなかった。事の本質からは完全に外れているし、またネタとして使うには、あまりにお下品だったからだ。

ところが現在では格好のネタである。ただし、ここで面白いのは籾井氏の発言について糾弾したり、徹底批判したりすることをメディアは必ずしもやっていないところだ。その理由は二つ。一つは、今やマスメディアは「強きを助け、弱気をくじく」タケちゃんマン(古い)状態だからだ。とにかく、一番重要なのは自らの側の利益。だったら、批判して糾弾して地位から引きずり下ろしてもあまりおいしくはない。それではその瞬間で、このネタが終わってしまう。そしてこの籾井というキャラクターも使い回しが出来なくなるからだ(ふなっしーみたいには使えない)。そんなもったいないことは出来ない。だから、ちょこっと批判したようなフリをするだけで、籾井氏の発言をずっと追い続ける。それが籾井氏を「暴言キャラ」として成立させ続けることになるのだ。

復習しよう。籾井氏が「暴言」を繰り返すという現象は1.価値観が多様化し世界観が個別化したので相互の価値観が了解不能になって、相手の発言が奇異に聞こえる、2.権力を獲得して批判がされにくくなった人間における社会性の退行現象、3.ジリ貧のマスメディアがスキャンダリズムのネタとして継続的に当該人物を利用したい、という三つの要因の逆合併症によって成立している。

籾井報道をみんなで無視しよう

こうやって考えてみると、要するに「籾井氏の暴言」はメディア的に構築されたもの、メディア論的な用語を用いて説明すれば「メディア・イベント」ということになる。つまり、事件があったからメディアが取り上げたのではなく、メディアが取り上げたから事件になった(で、よく考えてみれば事件ですらない)。

籾井氏自身、まあ迷惑な人、こんな上司やボスがいたらちょっとたまったもんじゃないと誰もが思うだろう。しかし前述したように、こんな輩は以前から存在していた。ところが、僕らが籾井氏に不快を感じるのは、ようするにメディアによって「不快な人物を不快に思わせる」といった作為が行われ、これに乗せられているからだなのだ。

で、僕はマス・メディアにちょっとツッコミを入れたい。あのね、ちょっとこれベタ過ぎませんか?古すぎませんか?もし、今どき、「歩道にバナナが落ちていて、歩いていた登場人物がこれに滑って転んだ」なんてアニメを作ったらどうなりますか?「そういうのは、もういいよ!五十年以上も前に作られたギャグなんだから」と飽きられるのがオチだ(ひょっとして、あまりにベタ過ぎるゆえに、逆にウケるかも知れないけれど(笑))。メディアが今、籾井氏にやっているのは、こういった何の想像力も無いようなアタマの悪いクリーシェ=図式の使い回しにしか僕には思えない。しかし、質の悪いことに、形式上は「権威に対抗している」といったジャーナリズムの体裁を採っている。だからひょっとしてマスメディアの当事者は、これが恥ずかしい、ダサいことだとは思っていないんじゃないんだろうか。

そんなことよりも、むしろ籾井氏のアホな発言などいちいち取り上げないで、むしろもっと構造的な側面、NHK、そして籾井氏が抱えている公人としての問題点をぐっさりとえぐり取るようなアプローチこそマスメディアはとるべきなのだ。とはいっても、これって「この人、暴言やってま~す」って報道より、はるかに頭と労力が必要なんだけど。

マーケティング・「iDC商法」のご提案

こちらはエー・アール・エー・アイ・エージェンシーです。この度、弊社は業績不振でお悩みのクライアントの企業の皆様に、これを一気に解決する画期的なマーケティング・プロジェクトを立ち上げました。このプロジェクトのすばらしいところは、ほとんど費用をかけずに膨大な広告・宣伝を打つことが出来、それによって企業様の認知度向上とイメージ・アップを図り、業績を一気に上昇させることが可能な点でございます。元々、このアイデアはネット上で最近繰り広げられている「炎上商法」と、8年前に宮崎県で当時県知事であった東国原英夫氏が展開した「地鶏商法」がヒントになっています。ただし、それをさらに発展させたものでございます。ちなみに、本企画のキャッチ・コピーはスマイル・セラピー協会会長のマック赤坂氏の「ネガティブからポジティブへ」を少々アレンジし、「ネガティブを利用して究極のポジティブへ」とさせていただきました。

先ず本商法にはいくつかの条件がございます。

①御社の業績が近年かんばしくないこと。とりわけ、同業の新興ディスカウント商法に押されてジリ貧であること。

②御社の経営が一族経営で、お家騒動が勃発していること。

この二つでございますが、さしあたり②の方はそれが事実でなくても構いません。演出として展開できれば十分でございます。そして、本商法は「お「家」」=iの「ダメージ」=Dを「チャンス」=Cに変える商法ということで、ここでは「iDC商法」と命名いたしました。御社がこの二つに該当するとお考えの場合には、是非、ご検討をいただきたく存じます。


炎上商法と地鶏商法からのインスパイア

以下、その本商法について、ご説明申し上げます。

先ずアイデアの源となりました二つの事項について、関連でご説明させていただきます。

はじめに「炎上商法」(あるいは「炎上マーケティング」)について。
これは、最近かなりあちこちで騒がれているのでご存知の方も多いのではないかと思われますが、念のため、ご説明させていただきます。炎上商法は商品だけでなく売れなくなった芸能人などによく利用されております。一発逆転をねらい、スキャンダラス、あるいは物議的なコメントや写真をブログ等に掲載します。すると、これに反発を抱いたネットユーザーたちが、このサイトに誹謗中傷の嵐を巻き起こすわけです。そして、この「炎上状態」は事件、あるいはメディアの格好のネタになります。それによって、下火の芸能人は再び脚光を浴び、知名度が再認知されたところで、次の宣伝ネタを放り込み、見事、人気者に返り咲くという手法です。

これは、もちろん商品に転じても同様で、本手法をネットだけでなくメディア全体を利用して見事に戦略を成功させたのが二つ目の東国原英夫氏の「地鶏商法」でした。東国原氏は2007年、宮崎県知事に就任しますが、就任早々、鶏インフルエンザという事件に巻き込まれます。畜産県の宮崎では養鶏は一大産業。これに壊滅的なダメージが加えられたのです。ところが、東国原氏。ネガティブであっても宮崎では地鶏が大量生産されていることがメディア的に認知されたことを察すると、なんと、この「鶏インフルエンザ」を利用して地鶏の大キャンペーンを繰り広げました。「宮崎地鶏は安心、おいしい、しかもヘルシー」とみずからパクパクと食べ続けるトップセールスを繰り広げることで、宮崎地鶏の日本ナンバーワンのブランドにまで押し上げてしまったのです(みなさんも、あちこちにある「塚田農場」で宮崎鶏を召し上がっておられませんでしょうか?)。そう、つまり「ネガティブからポジティブ」ではなく「ネガティブこそポジティブに使えば大きな勝機が生まれる」ということですね。

そしてこの時、鶏インフルエンザを東国原氏がどう対応するかで一般報道、そしてワイドショーはこのネタに首っ引きになりました。野村総研の試算によれば鶏インフルエンザ事件の後の二週間での経済効果は160億円に登ったとか。これは、もし地鶏の宣伝のためにテレビ番組や新聞紙面を買い取ったらという試算なのですが、これが実質、というか完全にタダだったのです。メディアが勝手にやってくれたのですから。

ヒューマンドラマをトッピングすることでスペクタクルを生むiDC商法

そして、この二つのアイデアに基づきつつ、さらにこの商法を確実にする方法が、今回ご提案申し上げる「iDC商法」、つまり「お家(i)騒動のダメージ(D)こそ最大のチャンス(C)商法」に他なりません。これには上記二つの商法に「人間ドラマ」というテーマパーク的な演出が加えられることで、さらに高い効果を確実に期待することができます。

より詳細に立ち入りましょう。繰り返しになりますが、以下のようなシチュエーションがあれば、この戦略は一層効果的です。

先ず①最近、会社の業績が望ましくない。旧態依然とした商法がだんだん嫌われている。会員制を大幅にフィーチャーしたために、クローズドなイメージが広がって、なにをやっているのかわからない。その一方で同業種の企業がディスカウント商法とオープンな戦略でどんどんと業績を伸ばしている。つまり、企業としてジリ貧の状況である。

次に②お家騒動ですが、これは御社が一族経営で世襲になっており、現在、初代が会長に退き、変わってご子息が社長業を引き継いでいて、会長と社長の間で経営を巡って対立があり、それがお家騒動になっているという状況であればすばらしい。さらに加えれば、この時、会長(親)が父親で創業者、社長が娘でエリートで辣腕ということであれば理想的です。もし会長が父親で社長が息子であった場合、これはただの経営を巡っての争いというイメージでしかないので、普通のお家騒動とあまり代わるところはなく、あまりオモシロイ話ではありません(ジェンダー的に社長が息子の場合、「息子」よりも「社員」のイメージの方が強調されてしまいます。これはドラマ的にベタであまり関心を引きません)。また会長が母親で、対立する社長が息子と場合だと、これも日本におけるジェンダーバイアスの関係上、息子が「バカ息子」といったイメージが加わり、企業イメージがマイナスになります(かつて某老舗料亭で起きた偽装事件を巡っての記者会見は、その典型と申せましょう)。

ところが会長が父親で社長が娘でエリートとなると話は俄然色めいてまいります。息子ならば「飼い犬に手を噛まれた」という感じにはなりませんが、これが娘だとやはりジェンダーバイアスの関係上「噛まれた」感が強くなるのです(ジェンダー・バイアスはまことに恐ろしいものですが、利用しない手はございません)。つまり「こんなに可愛がってやったのに、裏切られた」という印象が強くなり、これはもうビジネス、さらにお家騒動と言うより、家族内での泥仕合、橋田壽賀子スペシャルみたいな展開となるわけです。それこそ、会長が社長の娘に向かって、記者会見で苦渋の表情で「悪い子どもを作った」なんて公開コメントをすれば、iDC商法は全てのお膳立てが整ったと言うことが出来ましょう。話はスペクタクルの様相を呈してきます。メディアの報道を通して視聴者、つまり消費者=顧客はワクワクしてしまうわけですね。

ちなみに、これは本当の話である必要はどこにもありません。演出でもまったく構わないのです。ポイントはビジネス上の問題と見せかけて、ドロドロ人間ドラマの方をむしろフィーチャーさせてしまうことにあります。こうすると、あまりアタマがよくなくて、ジリ貧で、視聴率や購買数を稼ぐためなら何でもやりかねないメディアが「飛んで火に入る夏の虫」のごとく、いとも容易に飛びつきます。もちろん飛びつくのはビジネス上の騒動ではなく、お家騒動、しかも家族愛とその葛藤を巡る「人間ドラマ」の方です。当然、ワイドショーはこぞって御社のこの騒動を取り上げるはずです。ただし、くどいようですが、もちろんこっちの「人間ドラマ」の方を専ら追いかける展開になるのですが。「それじゃあ、企業イメージが?」と懸念なされるかも知れません。しかし、ご心配なく。これこそがポイントなのです。

この後、今度は思ってもみないことが起こるのです。こちらからお願いしたこともないのに、メディアの側が会社の戦略とか、これからの御社のあり方とか、現在の商品展開とかをパネルや動画を利用して大々的に長時間にわたり説明してくれるのです。もうおわかりですね。これは県知事就任時に東国原氏が採用したのとまったく同じ商法になります。気がつけば、日本中が宮崎のことを知るようになったように、御社の仕組みについて熟知することになるのです。会長と社長が別のプランを提示しているとするならば、これを一般人はどちらが支持するのかなんてことまでメディアは必ずやアンケート調査などで調べてくれるはずです。つまり○通、△報堂、×急エージェンシーなんかに調査を依頼する必要すらないのです。なんて親切な人たちなんでしょう!

もし、本当に親子で抗争を繰り広げていたとしても、それは問題ではありません。会長が固持しようとする旧態依然とした体質に回帰しようと、社長の経営コンサルティングの手腕を十全に発揮したものを採用しようとも、あるいは折衷案であったとしても、それはあまりこの商法とは関係のないことですから。最終的に決着を何らかのかたちでつけていただきさえすればよいのです。こうすることで、ほとんど、というか完全に無料で御社の大々的なキャンペーンを繰り広げることが実質、可能になります。つまり、どの選択肢に落ち着いても、結局、成功は約束されているのです。とにかく大々的な宣伝が組まれたのですから、もう知名度的には何の問題もありません。そして消費者は名前の知れているものに飛びつくものです。

引き際とそのやり方をお間違いにならないように

コツは、ある程度このお家騒動を引き延ばし、御社の認知度を出来るだけ高めることです。ただし、あんまり引っ張りすぎても行けません。今度は飽きられてネガティブからポジティブどころか、ネガティブからネガティブになってしまいますから、適当なところでヤメましょう。また、これだけは守っていただきたいということが、一つだけあります。それは、この騒動が「演出」である場合には、これが演出であることが絶対バレないように箝口令を引いておくこと。また、あらかじめシナリオを考え、会長、社長、役員は役者としてその役柄を最後まで演じきることが至上命題となります。iDC商法最大のリスクは、この商法がバレた時で、その場合には消費者から一斉にそっぽを向かれ、倒産は必至となります。くれぐれも、この辺についてはお気を付けください。それゆえ演技の練習が必要経費ということになります。

そして、最後に必ずやっていただきたいことがあります。それは「手打ち」です。どちらが折れても構いませんが、「和解」というクライマックスが必要です。最後に「親子であること」を証明し、御社が一枚岩となって邁進するすばらしい企業であることを全国に知らしめるため、出来れば二人が抱き合い、手と手を握り会いながら万歳ポーズなどで決めていただきたいのです。こうやって人間ドラマは大団円を迎えるというわけです。メディアをチェックしている消費者は感動、メディアも一儲け、そして御社も失地回復ということで、全てが丸く収まるわけですね。

こうすれば御社の株価は否応なしに急上昇、連日ストップ高は間違いなしですし、日本中の誰もが御社のシステムを熟知するとともに、経営陣の顔が見えるようになる。また抗争に関わった家族は有名人になってしまいます。翻って、それは御社の強靭なブランディング力を構築することになります。粗利もハンパではなくなります。ディスカウント商法で「お値段相応」なものを売っている競合業種など、もはや敵ではありません。

今回のご提案、いかがでしょうか?ご用命はエー・アール・エー・アイ・エージェンシーまで。

オタクが生まれた状況

オタクは社会的性格、つまりもはやわれわれ日本人全てが性格の中の一部として取り込んでいる心性。だから「オタクな人がいる」のではなく「あなたの中のオタク」、いいかえれば「われわれは、皆おたく」、つまり日本国民全体が、その成分の一部を共有する人格を有していると、前回(http://blogos.com/article/106752/)は指摘しておいた(もちろん専業オタクといった部類の人間もいるだろうが)。だから、ここでは誤解を避けるために、われわれの中の「オタク的性質」「オタク的性分」として議論を進めていることをお断りしておく。

オタク的性質とは、簡単にまとめてしまえば「一部の限定領域に過剰に自らの関心を向ける傾向」をさす(ちなみに、これは80年代末から延々繰り返されてきたオタク論のなかでも不変の指摘だ。だから僕のオリジナルの定義というわけではない)。当初はマンガ、アニメ、フィギュアおたく(当初は「オタク」でなく「おたく」とひらがな表記されていた)などがその典型として語られていたが、現在では膨大なジャンルにオタクが存在する。そしてわれわれのほとんどが、その中のどれかのジャンルに関わっている。今日では「換気扇オタク」「トイレットペーパーオタク」なんて、一般には理解不能みたいなオタクも存在する。

こういった「ジェネラル」ではなく「トリビア」な方向に関心が向かってしまう、つまりオタクな存在にわれわれがなってしまうのは、ある種、社会的必然と言っても過言ではない。かつてとは異なり、現代ではアクセス可能な情報が膨大になり、それらの中から任意に一つを選択すれば、多くの場合、それは必然的に「トリビア」なものにならざるを得ないからだ。そして、こういった嗜好は基本トリビア過ぎて、周囲の人間とのコミュニケーションのネタとしては成立しない。それが結果としてコミュニケーション不全を引き起こすし、仲間を探して、また情報を探してタコツボ的にネットにいっそうアクセスするという行為へと人々を向かわせる。だが、こういったトリビアな嗜好であったとしても、ネット上で展開すれば「同好の士」を見つけ出すことができる。そして、それを利用してビジネスもまた成立する。この循環が膨大なオタクジャンル、そして膨大な数のオタク、あるいはオタク的性質を備えた人格を生み出したのだ。要は、社会システムが、単にオタクを拡大再生産させているに過ぎない。だからオタクが社会的性格になるのは「あたりまえ」なのだ(もちろん、僕もオタクの一人なのだけれど)。

オタクとマニアの違いは何か

オタクは市民権を獲得し、裾野の広がりを見せようとしている。なので、もうちょっとオタクの特性についてツッコンで考えてみたいと思う。ちなみに、ここでは90年代に岡田斗司夫たちが展開した、オタクの市民権獲得のための議論、つまりネガティブからポジティブへという文脈ではない(こんな議論はとっくに終わっている)。むしろ、ニュートラルな立ち位置を「情報へのコミットメント」という視点から考えていく。とりわけ、ここではオタクの前身?であるマニアとの違いでオタクを考えてみよう。で、ここでは「非オタク」「真性オタク」「マニア」と三分類してみたい(後者二つはオタクの下位分類)。

オタクと非オタク……情報アクセスへの限定性

先ず、オタクをオタクでない非オタクとの関係で位置づけておく。これは、繰り返すが、あなたの中にあるオタク成分の部分と非オタク成分の部分と考えてもらっていい。この区分を行うために「情報へのアクセス」傾向についてのマトリックスを用意した。縦軸が情報の質についての軸で、関心が情報の「形式」に向かうのか「内容」に向かうのかというもの。「形式」へのアクセスが勝っている場合、「情報の中身」よりも「情報収集という行為それ自体」が情報行動を促す動機となる。簡単にいいかえると、集めること、コレクションすること、いわば情報を「押さえる」ことに関心の比重がある。一方、「内容」に関心が向かう場合、その情報の手触りであるとか、いわれであるとか、物語がどうなっているのかという点にベクトルが向かう。情報収集はあくまで、そういった中身の吟味のための手段に過ぎない。

一方、横軸は情報アクセス範囲の広さに関するものだ。つまり「広い」=情報アクセスが広範囲に渡るのか、それとも「狭い」=情報アクセスが一部に限定されているか。

こうすると第一象限=形式+広い、第二象限=形式+狭い、第三象限=内容+狭い、第四象限=内容+広いとなり、オタクに該当する情報アクセスは第二、第三象限が該当する。第一象限はオタクからは全く遠い情報行動で、いわゆる、かつての「大人」がやる行動一般での情報アクセスだ。いろんなことを満遍なく適当なレベルで収集し、コミュニケーションにおいて儀礼的レベルで活用するというようなやり方がその典型だ。パワーでこれをこなせる人間がいたとすれば、いわゆる「百科全書」的な物知りということになる。一方、第四象限は広範な範囲の情報についてものすごい理解力で認知しているということになるわけで、まあ、こんな人はほとんど存在しないといっていい。強いて挙げれば辣腕プロデューサーとかが該当する。イメージするのは秋元康とか池上彰あたりか?(笑)

そこで狭い、つまり限定的領域にアクセスが向かう傾向(第二+第三象限)を、まず広義のレベルで「オタク成分」としよう。



オタクと非オタク
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オタクはマニアと真性オタクからなる

オタクはしばしば、かつて「マニア」と呼ばれていたものと人格が重複する。つまり、限定した情報領域へ熱狂する傾向については同じだ。だったら、ずっとマニアという言葉で通せばよかったのだが、そうはならなかった。ということは、この二つはある部分は共有した性格を持ちながら、一部で根本的に異なっていると考えなければならない。この区分が第二象限=形式+狭い、第三象限=内容+狭いに該当する。前者がおたくで後者がマニアだ。つまり広義のオタクというカテゴリーは狭義のオタク=真性オタクとマニアに別れる。

もう少し細かく見ていこう。時系列的に古い第三象限のマニアから考えてみる。マニアの場合、情報を押さえることはもちろん重要だが、その中身を吟味することについてもこだわる。例えばかつての「鉄道マニア」の場合。彼らは鉄道という世界について個人的な世界観を持ち、持論を展開するという特長があった。情報を押さえる=所持するだけでなく、これを吟味し、物語として繋げていたのだ。これは、当時はまだ情報アクセスに関するインフラが充実していなかったことに由来する。情報アクセスが難しく、その絶対量も少なかったため、必然的に限定された情報をこねくり回すことが一つの行動様式になったのだ。マニアは少ない情報を何度も反芻し、カスタマイズして物語を構築していたのだ。いわば、妄想度が高い行動。だから、やたらと蘊蓄を語る(ただし、情報量は真性オタクと比べれば大したことがない)というパターンになった。

一方、第二象限の狭義のオタク=現在のオタク=真性オタクの場合、情報は形式面、押さえることが重要。そしてオタクを巡る情報アクセスに関するインフラはきわめて充実している。それゆえ、必然的に情報量は膨大となる。とにかく欲望に忠実に、次から次へとザッピング的に新しい情報を入手するといった「情報収集」という行為それ自体が目的化するのだ。当然、ひとつひとつを吟味する時間はなくなっていく。こういった行為、つまりひとつひとつの情報について「物語」や「いわれ」を考えるのではなく、ひたすら膨大な情報をゆりかごとしつつ、これに包まれることで、オタクはアイデンティティを実感する。「萌える」という行為は、情報という記号の表層に熱狂する行為をさすが、これが現代のオタク=真性オタクの基本的な情報行動様式と言っていいだろう。だから、彼らは情報量こそ多いけれど、それぞれの内容についての意味性は希薄。だからオタク同士のコミュニケーションにおいては、その内容を議論すると言うよりも、ひたすら持っている情報を提示し合うというパターンになる。要するにコレクションを互いに提示するが、それぞれについて深く突っ込まない(というか話せない)。そしてこちらの側も、妄想する。ただしストーリーを作って妄想するのではなく、対象それ自体に妄想する。つまり「萌え」。「萌え」に理屈はない。そこにあるのはアイデンティフィケーション=自己同一化だ。結局「萌え」とは、そこに自分を見ている。こういった情報の断片に自らが没入することで、価値観が多様化した現代をヘッジする戦略をとるのが、われわれ現代オタクの情報行動なのだ。

オタクと非オタクを使い分ける健全性

こういった情報消費を行うオタク的心性。繰り返すが、一般的な社交性を備えた人間にももはやフツーに備わっている。一般社会においては、まさに「一般人」つまり第一象限的な人格として社交的に振る舞うが、その一方でプライベートな領域では一般には了解不可能なオタクとして振る舞い、ネット等を介して了解者=同好の士を捜し、もう一つの世界を構築する。オタク成分は社会的性格となった。だから、こうやって自らのオタクと非オタク的成分を使い分けて生活を続けること、これが現代社会においては、ある意味、最も「健全」な情報行動生活様式と言えるのではないだろうか(もちろんオタクで突っ走って生計を立ててしまったり、あるいは社会的不適応を起こしたりする人間も一部存在するだろうが)。

時代は、もはやそんなところにまで来ていると、僕は考えるのだが。

オタクについて言及すると怒り始める人がいる。

僕がブログでオタクについて言及すると、必ず一部の人間から猛烈な反発を食らうという面白い現象が起きる。で、こういった反発をされる人間、恐らく自分がオタクであり、そのことについて何らかのトラウマ≒コンプレックスがあり、その部分に僕の書いたブログが抵触し、過剰な読み=文面を吟味せず自らの潜在的な否定的コンテクストに基づいて一方的な解釈=誤読を行い、そして僕に向かって「けしからん」ということになるのではないかと考えている。ちなみに、僕自身はオタクに関しては完全にニュートラルに社会学、メディア論的立場から考察を進めているに過ぎないのだけれど、どうも「当事者」という自覚がある人間からすれば、そういうふうには読み取れないらしい。

もっとオタクはポジティブに捉えられても、いいんじゃないか?「自分がオタクで、どこが悪い!」「オタクはすばらしい!」ってな具合に。ちなみに、こんな議論ですら、90年代半ば、オタキングで名を馳せた岡田斗司夫がとっくに議論していることでもあるのだけれど。

社会的性格としてのオタク

社会学には「社会的性格」という考え方がある。社会学者D.リースマンの言葉で「ある特定の社会、文化、歴史的状況において、人々が共通して備えている性格」のこと。たとえば若者論の議論で70年以降から生まれはじめ、70年代末には社会的性格、つまり日本人全体が備えている性格として指摘されたものに「モラトリアム人間」というのがある。これは精神医学者の小此木啓吾によるものだが、小此木はモラトリアム人間、つまり「いつまでも大人になろうとしない若者」の心性が現代人全般に広く浸透していることを指摘するためにこの用語を用いた。

そして、「オタク」というのも、もはや社会的性格だ。「アニメやフィギュアなどの一部の趣味の分野に熱狂し、コミュニケーションが苦手で、相手と関わる時にも「君と僕」という第一人称、第二人称ではなく、距離を置いて「おたく」と呼び合う、社会性の低い一部の若年層の男子」というかつての定義などとっくに意味をなしていない。言葉の定義は転じて「一部の趣味の分野に熱狂する人々」くらいの意味合いで捉えられているはずだ。かつて首相を経験した鳩山由紀夫や麻生太郎、そして防衛大臣を務めた石破茂などが、自らを堂々と「オタク」と称することを憚らないなんて時代になったのだ(鳩山と麻生は「マンガ・アニメおたく」、石破は「ミリタリーオタク」)。キャラクタービジネスのブロッコリー、後にカードゲーム会社・ブシロードを立ち上げた木谷高明は2012年、アニメ関係とは関連が薄い、というか関係が見えないプロレスの団体・新日本プロレスを買収し、現在ではプロレス人気の復活に一役買っているが、木谷、実は幼い頃からの熱狂的なプロレス・オタクで、その夢を叶えたに過ぎない。そして、オタクとしてビジネスモデルを作り上げてしまっている。また、2004年の時点でオタク市場はすでに4000億円(野村総研調べ)を超えていると言われており、それから11年が経過した現在、その規模は数兆円(何をオタク市場と計算するかについては異論があるが)に達していると考えても良いだろう。自らもオタクと称する経済評論家・森永卓郎もすでに五年以上前に「市場は1兆円を超えている」と指摘している。つまり、オタクが社会性を獲得し、もはや時代を動かそうとしているというわけだ。

「オタクなあなた」ではなく「あなたの中にあるオタク」を論じる時代の到来

だから、おたくについては考え方を「トリビアなことに熱狂的に入れ込む、日本人の中の、一部の人間」、いいかえれば「オタクなあなた」ではなく、社会的性格、いいかえれば「あなたの中のオタク」と考えるべきなのだ。

83年、中森明夫がコミケでオタクをネガティブな形で発見し、88年、幼女連続誘拐殺人事件を犯した宮崎勤がやはりネガティブな形でオタクのイメージをブレイクさせたのだけれど、こんなことはもはやとっくに”昔の話”。オタク、もっとポジティブであってもいいし、別に気にすることでもない。なので、僕がオタクという言葉を用いる時に、そんなに過敏になっていただかなくても、いいんじゃないかと思う(笑)オタクなんて、もうとっくにフツーなんだから。

今やわれわれ日本人は共通してオタク魂を何らかのかたちで備えている。

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